2012年06月13日

成功は小さなことの積み重ね

時代が大きく変わろうとしていることを感じています。
それによって人と人の関係性も変わってきているし、人が持つ表現力や発信力もこれまでの概念と異なるものが現れてきていると感じています。

インターネットの普及は数十年前では考えられなかったことを実現させ、確実に人間の生き方に影響を与えていると思います。

先週末、僕は長野県小諸市に行ってました。

月曜日に東京に戻り、火曜日にFacebookに写真を載せ、その中の1枚の写真にコメントをつけて掲載したところ、すぐに反応がありました。

写真は小諸の農地の脇に置いてある馬糞堆肥の中から見つけたカブトムシの幼虫です。
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今朝、その写真を見た知り合いのAさんが、5歳になる息子がちょうどカブトムシの幼虫を欲しがっているので、「是非採りに行きたいから場所を教えてくれ」と電話をしてきました。週末にでも穫りに行きたいと思っている、と。

僕はすぐにメールでAさんに地図と写真を送りました。

でもAさんのお仕事の忙しさも知っていますし、なにより小諸は若干距離がありますので、もし時間の制約があると難しいのではないか、そうなるとAさんの息子さんは念願の幼虫を手に出来ない。なんとか良い方法はないものだろうか、と僕は考えたのですが、残念ながらよいアイデアは浮かびませんでした。

その夕方、小諸市の隣の佐久市に住むBさんから電話がありました。
電話の内容は、Cさんが明日東京に行くのだが、僕が金曜日に予定しているある会社への訪問にCさんも同席出来ないだろうか、といった相談内容でした。
実は現在僕はBさんとCさんのお二方とある事業を計画していて、先週の日曜日もそれで僕は佐久市を訪問していました。

その計画の一環で僕は金曜日にある会社を訪問することになったのですが、ちょうど別件でCさんが来京することになったので、そのついでに同席したい、となったのです。
先方に確認をとり承諾を得て、Cさんは同席することになりました。

その時に、ふとあることを思いつきました。
実はBさんは僕らが小諸で行っている活動を時々手伝ってくれていて、小諸の農地や馬糞堆肥の中のカブトムシの幼虫の存在を知っています。
そこでもし可能であれば、Bさんにカブトムシの幼虫を採りに行ってもらい、今日か明日にでもCさんに渡し、東京で僕が受け取れないだろうか、と考えたのです。

BさんとCさんの両方に僕はそのことを電話で話し、了承してくれました。

その後Bさんが所用の帰りに農地の寄ってくれました。
以前Bさんと堆肥をひっくり返した時に、たくさん幼虫が出てきたので、それを袋に入れて堆肥の上に置いておきました。その中には数十匹入っていますので、その袋を持ってくれば幼虫が簡単に手に入ると思っていました。
しかしBさんがその袋を開けてみると、たくさんいたはずの幼虫が2匹しかいなかったのだそうです。

Bさんはその場で僕に電話をしてきて、そのことを伝えました。
Bさんは時間も限られていたので掘っている時間もなく、とりあえず僕はその2匹をお願いしました。

その後それをCさんに渡してもらい、金曜日の会社訪問の時に僕がCさんからそれを受け取り、打ち合わせが終わった後に僕が都内のAさんの事務所に届けようと思っています。

話を聞くとAさんの息子さんは最近毎日のようにカブトムシの幼虫を欲しがっていて、先日も探しに行ったのだけど結局見つからず、がっかりして泣いてしまったのだとか。
そんな時にFacebookに僕が幼虫の写真を載せたので、それを見て電話をしてきたのだそうです。

時間に余裕があれば本当はもっと幼虫を見つけられるのですが、2匹でも手に入らないゼロよりかはいいでしょう。
なにより子どもに笑顔を与えられる。僕は未来を担う子どもたちには悲しみではなく喜びを与えたいと思っています。

ただこの一連の出来事ですが、10年前だったら確実に実現していなかったことになります。

まず日頃会っているわけではないAさんが、僕がカブトムシの幼虫を見つけたということを知ることは、本当は出来ないわけです。それをFacebookが実現させた。
次に1日で複数の予定を合わせられたり、カブトムシの幼虫の輸送までを手配したりと言ったことは、携帯電話が実現させたことです。すぐに連絡が取れて、その場その場で対応が出来た。

Aさんの息子さんがカブトムシの幼虫を手にすることが出来るのは、そのような文明の恩恵によって実現しているものなわけです。

もっとも、まだ無事に手元に届くまでは何があるかわからず、過度な期待もしてはいけませんが。

僕が事業として行いたいことは「人と人とを繋ぐこと」です。それは12年前から今も変わらずに追い求めている「多世代交流」の実践でもあります。
そして今、実現させたいことは、ITなどのツールを使いながら、求めている人と、それを与えられる人を繋ぐということです。
それをなんとか事業に出来ないだろうかと、いろいろと試行錯誤しています。

やはり社会の中で、想いを事業にし、お金を得ていこうというのは簡単ではなくて、なかなかうまくいきませんし、気が狂いそうになるくらいに苦しいですし、諦めて逃げ出したくなります。
こんなに苦しまなくても、もっと楽な道はいくらでもあるわけです。

ただ考えてみたら、僕はAさんの息子さんに、人と人を介していき、求めているものを届けることが出来る。
10年前だったら不可能なその繋がりを、僕は実現させようとしているわけです。

小さなことですし、お金を得るわけでもありませんので、事業にはなっていません。
でも、確実に想いを実現させています。それは「不可能ではない」ということです。

まだまだ過去や今の僕の「行動」や「やりたいこと」への理解者や味方は少ないと空気で感じていますが、僕自身への味方は最近はけっこういるとも感じています。
そういった味方の存在が、結局は諦めそうになる自分をなんとか思いとどまらせてくれます。
そしてその感謝の気持ちから、何か人の役に立つことは出来ないだろうかと常に考え、行動するようにしています。
それが今回のカブトムシの幼虫を届けることに繋がり、気づくとそのことが、小さいですが想っていることを実現させている一つでした。

成功は小さなことの積み重ね。
僕がやろうとしていることは、僕には出来ると思っていますし、僕にしか出来ないことだと思っています。
だからもし今回無事にAさんの息子さんにカブトムシの幼虫が届いたら、10年後の僕は、きっと今の想いを事業として実現していると、僕は信じているのです。
posted by Coyama at 23:04| 思ったこと・感じたこと

2012年06月12日

グリーンランド研究 − グリーンランドの都市/Paamiut(パーミウト) −

1742年に設立されたPaamiut(パーミウト)の町はKuannersooqフィヨルドの河口に位置し、町の名前は「河口の民」という意味を持ち、現在は約2000人の人が暮らしています。
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△ 植民地時代のパーミウト

町の中心部にある郷土博物館は19世紀の建物で、魚の塩漬け工場と大工の作業場が併設され見学する事ができます。また町のシンボルでもある特徴的な木造の教会は1909年に建てられたものです。
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△ パーミウトの教会

他にグリーンランド商船学校やロウソク工場などもこの町にあります。

この町の主な産業は漁業ですが、春と夏は海の交通が氷原から流れ落ちる氷山によって邪魔をされます。
それでも海に浮かぶ氷山の姿はとても魅力的で、多くの観光客も訪れています。

他にもこの土地はグリーンランド最大の「オジロワシ(海ワシ)」の生息地でもあり、野生のオジロワシを観察することができます。さらに夏から秋にかけては、この近海でかなりの確率でクジラに遭遇する事ができます。その種類はナガスクジラ、シャチ、ザトウクジラなど様々です。
posted by Coyama at 23:24| グリーンランドのこと

2012年06月11日

コペンハーゲンの都市史

ブログを書くにあたり、何でもいいから毎日書き続けてみて、どこまで続けられるかと思いながら、毎日書き続けています。

そうは言ってももちろん僕も毎日書いているわけではありません。仕事やプライベートで夜遅くまで他のことをしていて書けない日もあれば、書く題材がない日もあります。
それでも更新の手を休めない策として、過去に書いたものを少しずつ小出しにしています。それがここ最近ちょこちょこと投稿してきた「コペンハーゲンの都市史」だったりするわけです。
そのような「コペンハーゲンの都市史」の記事も昨日で使い切ってしまいましたので、時間のない時の記事をまた新たに探さなければいけないのが悩ましいところです。

この「コペンハーゲンの都市史」は、実は以前僕がその内容をテーマにして博士論文に挑めないだろうかと考え、現地を何度も訪問し、資料を集めながらまずは土台として書いたものです。

6年前の当時の日本ではこのことを日本語で書けるのは僕だけだろうと思っていましたが、今では僕以上に知識も資料も揃えられて書くことの出来る優秀な日本人もたくさん現れていると思いますし、そもそもデンマークに暮らす日本人で取り組もうと思う人がいれば、それは僕以上に書ける人もたくさんいると思います。

ただし求められないものはどんなに出そうとしても受け付けられませんので、きっと不必要な情報だったのだと思います。

前述の通り僕は数年前にこの内容で博士論文に挑戦したいということで、実際に東京にある某国立大学の博士課程に挑みましたが、見事に受験で落とされました。
一応筋道は立てて順序を踏んで受験したのですが、面接で言われたことは「(設計でやってきた人間が都市史をやろうだなんて)歴史をなめるな!」と言うことでした。

もっともその時には英語の試験もありましたので、全体的に僕の力が足りずに落とされたのだと思います。

そういったわけで学術界や都市史界では「必要ない」「認められない」とされた内容を、そのまま僕のパソコン内の片隅に眠らせておくのももったいないので、ちょうどよい機会なのでブログを書く時間のない時の記事として使ったわけです。

ちなみに「コペンハーゲンの都市史」の内容は、僕が原語から調べたものですが、前述のように他者からはあまりよく思われなかったということは、もしかすると謝った認識で書かれている可能性もあります。
そのため信用出来る情報かそうでないかは、読んで下さった方の判断にお任せします。

もし正しい情報であるならば、このようにブログ等で残しておけば、いずれ誰かの役に立つこともあるだろうと思い、僕にはもう必要のない情報ですので掲載をしています。
必要のない情報というと語弊もありますが、この情報を集めるために使った時間と労力は、僕は決して無駄だったとは思っていません。ですのでいつかこの情報が、どこかで誰か後輩の手助けの一つにでもなればいいなと、願っています。

ただ何かを得るためには何かを捨てなければいけません。握ったままの手では、新たなものは掴めません。
僕は一旦手を開き、新しいものを掴むべく、次のステージへ進もうと思っています。
posted by Coyama at 22:05| 思ったこと・感じたこと

2012年06月10日

1800年代 − 要塞都市からの解放と発展 ー

スレスヴィグ、ホルステンとの国境問題は結局解決せず、デンマークとの間に再び戦いが始まりました。戦いはその後3年間続き、結果デンマークが勝利しました。
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△ 1850年の兵士の帰還。旧広場の様子

そして1852年に、ついにコペンハーゲンを覆っていた城壁は街の拡大のために開かれました。
これにより都市は拡大していくのですが、1853年の夏にはコレラの大発生が起こりコペンハーゲンでは約5,000人の住民が亡くなりました。
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△ 1853年、コペンハーゲン郊外のコレラ患者隔離所

この頃、デンマーク王立芸術アカデミーの校長を勤めたM.G.ビンデスボウル教授は独創的な建築家でした。
彼の最初の単独設計であるトーバルセン美術館の古典様式はC.F.ハンセンのものとは異なりカラフルかつ官能的で、それは古典主義の終わりへのアプローチとなりました。

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△ トーバルセン博物館

1856年に完全に防壁はその機能を失います。
そしてコペンハーゲンは防備を固める要塞としての役割から解放されました。

ここから、コペンハーゲンの街は新たに郊外へ向けて急激な発展をしていくのです。
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△ 1800年のコペンハーゲン。完成された要塞都市

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△ 1857年の西門の様子。街を囲っていた防壁を取り除いている様子が分かる。

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△ 19世紀の要塞都市コペンハーゲンの鳥瞰図

コペンハーゲンの都市史 −ひとまず完ー
posted by Coyama at 20:17| コペンハーゲンの都市史

2012年06月09日

グリーンランド研究 − グリーンランドの都市/Ilulissat(イルリサット) −

Ilulissat(イルリサット)の町は 1741年に貿易の拠点として設立されました。イルリサットとはグリーンランド語で「氷山」という意味で、その名の通り町の近くでは氷河に流れ出る美しい氷山を間近で見ることができる観光地として現在は賑わっています。
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△ イルリサット近郊の氷山群

イルリサットの町は、北半球で最も氷山を産出する全長40kmのアイスフィヨルドの氷河の河口にあります。
また、犬そりは今でもこの地方では冬の重要な交通手段であり、現在は4800人の人々との他に2500頭のエスキモー犬がここの町に住んでいます。
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△ イルリサットの地図

また、町の重要な産業は漁業であり、港には多くの小型漁船やトロール船であふれています。
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△ イルリサットの港

町のシンボルでもある特徴的な黒いZion教会は1779年に現在の位置より50mほど離れたところに建てられたもので、1929年に現在の位置へ移されました。
またグリーンランド探検家のKnud Rasmusseの家を改装したイルリサット博物館ではグリーンランドの歴史に関する様々な貴重な展示品を見ることが出来ます。

町から1.5kmほど南に行くと、青々としたSermermiut(サマーミウト)平原があります。
アイスフィヨルドに続いているこの場所は、18世紀にはグリーンランドで最も多い250人の人が住む居留地でした。さらにここからは1000年以上前にも先住民が住んでいたことを証明する出土品が発掘されています。
posted by Coyama at 23:52| グリーンランドのこと