2012年06月18日

ブログのタイトル

ブログを始めて150日目。そういえばこのブログのタイトルについて説明したことはなかったので、ここに書いておきます。

もともと僕が10年前にデンマークへの渡欧を決意したきっかけは、冗談でもなんでもなく2000年8月20日のサザンオールスターズ茅ヶ崎ライブでした。
僕はあの日あの場所にいました。
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生まれてからずっと過ごしてきた故郷茅ヶ崎を大学進学を機に離れて4年、当時は東京で暮らしていたのですが、生まれ育った故郷茅ヶ崎はいつでも僕の心の中にありました。
もちろん今でもあります。

あの日、僕の人生で最も熱かった夏の日に、ライブの最後で、桑田佳祐さんが僕にこう言いました。
『茅ヶ崎をよろしく頼むよ!』
それが僕がデンマーク行きを決意したきっかけです。
100mぐらい離れていましたが、たぶんあれは僕に向かって言っていました。
そして僕はそれを受けて、愛する茅ヶ崎を守るため、まずは世界を見に行って、いつか日本を変えよう、そう思いました。

それから2年かけて準備を進め、2002年9月3日に僕は日本を発ちました。
その朝、僕は茅ヶ崎市の実家から羽田空港へ向かいました。羽田空港から関西国際空港へ向かい、そこからロシアのウラジオストックへ飛行機で向かいました。
先の何も見えない不安だらけの出国でしたので、羽田空港で飛行機を待っている間に涙が止まらなくなり、思わずトイレに駆け込みました。
成果を挙げられなければ二度と日本の土は踏まないと強く心に誓ったからです。
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関西国際空港へ向かう飛行機では、僕の席は機体右の窓際でした。
なぜデンマークまで陸路で行くのに、そこだけ飛行機だったのか。きっとそれは神様が用意した粋な演出だったのだと思います。
羽田空港から関西国際空港へ向かう飛行機は、茅ヶ崎上空を通過します。
羽田空港を発って数分後、僕の席から晴れ渡った眼下に見えてきた故郷茅ヶ崎を見て、再び涙が溢れ出てきました。
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そんな時に、機内ラジオからは桑田佳祐さんの歌が流れてきました。

「ROCK AND ROLL HERO」より
ロックン・ロールで Up Up と行こうじゃない Until we die.
艶っぽいショーを人生のために Ah…begin.
ノッて行こうぜPop Pop「死のう」は辛い 夢見たい
青春の同志よ 沈黙は愛じゃない



デンマークに到着して3ヶ月後、僕はクリスマスを本場のヨーロッパで迎え、デンマーク人の友人の家でとても素敵な時間を過ごさせていただきました。
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3ヶ月ではまだまだデンマーク語での会話能力も十分でなく、楽しさと、なかなか意志を伝えられない苦しさに悩んでいた時に、聞いていたのも、やはり桑田佳祐さんの歌でした。

「素敵な未来を見て欲しい」より
愛する誰かを守りたい
不安だらけの世の中だけど
見えない翼を広げたい
明日未来へ羽ばたくために


そして王立芸術アカデミー建築大学より6月末の面接試験を言い渡され、苦しみ始めたデンマークの長い冬。
授業以外は語学学校の寮の部屋に隠り、デンマーク語の勉強に没頭し、周りの友人から『もっと外に出ないとダメだ!』と非難されていた頃、やはり支えられたのも桑田佳祐さんとサザンオールスターズの歌でした。
あの頃は毎晩のように語学が上達しない苦しさともどかしさで、涙で枕を濡らしていました。
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デンマーク語での面接を経て運良くアカデミーへ受け入れてもらい、コペンハーゲンに移り住んで、アカデミーへ通う道すがらずっと聞いていたのも、やはりサザンオールスターズの曲で「涙の海で抱かれたい〜SEA OF LOVE〜」でした。
異国の地でも「やっぱ夏はサザンだな。あぁ、また夏が来るんだな。」と、あの頃は挫けそうになるといつも曲を聴き、気持ちを高ぶらせていました。

「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」より
振り向きもせず 夏は去くけど
また太陽は 空に燃えるだろう
さよなら僕の いとしの Angel
我が身は枯れても 愛は死なない


その頃の僕はコペンハーゲンの郊外に住んでいて、アカデミーへは電車で通っていました。
なので今でもその曲を聴くと、電車の窓から見えてくるコペンハーゲンの街並が頭に浮かんできます。
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アカデミーのバスツアーで行ったオランダで、海外で学ぶ外国人としての厳しさを味わった時にも、帰りのバスの中で、僕は涙をこらえながらサザンオールスターズの曲を聴いていました。
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「雨上がりにもう一度キスをして」より
「時間よ情熱の灯は消さないで」 青春は二度と帰らない
振り向かないで 涙をふいて 明日へと翔び立とう
あの頃は風まかせ 明日へと翔び立とう


そして一つの目標を達成し、日本への帰国の前に向かったグリーンランドの地で聞いていたのも、やはりサザンオールスターズの歌でした。
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「君こそスターだ」より
夜空の花火はもう消えた 祭りは燃え尽きた,Yeah…
だから生まれ変わらないと 歩いていかないと 太陽が照らす道を

うねりくる波に 乗るための勇気を 僕に与えてくれ
行くあてのないほどに つれぬ世の中だけど
頑張る君と 生きた時代に万歳

白いカモメとケセラセラ
新しい旅が始まる



あれから8年が経ち、その間もいろいろなことがありました。デンマークにも何度も行けました。
つらいことや苦しいこともたくさんありましたが、思い返してみると、あの語学学校の寮の部屋で流したような涙は、その時以来流していません。

たぶん乗り越えた先にある何かを、体験して知っているからなのかもしれません。

今、とりあえず先も何も見えない不安の中で、それでも何かをしなければいけない・何かをしたいと思い、よくわからないままに書き続けているこのブログのタイトルには、実はそんな過去の経験と、今の気持ちと、未来への希望が込められているのです。

「明日晴れるかな」より
在りし日の己れを愛するために 想い出は美しくあるのさ
遠い過去よりまだ見ぬ人生は 夢ひとつ叶えるためにある
奇跡のドアを開けるのは誰? 微笑よもう一度だけ
君は気付くでしょうか? その鍵はもう きみの手のひらの上に

why baby? Oh, tell me. 「愛」失くして「憎」も無い?
見て見ないようなフリ その身を守るため?
Oh, baby. You're maybe. もう少しの勝負じゃない!!
くじけそうな Feeling 乗り越えて One more chance.
posted by Coyama at 21:45| どうでもいいこと

2012年06月17日

グリーンランド研究 − グリーンランドの都市/Maniitsoq(マニトソク) −

この町は1755年にKangaamiut(カンガーミウト)コミューネが所有する居留地として建てられましたが、1782年に現在のManiitsup(マニトスップ)コミューネに移されました。

マニトソクとは「ごつごつした場所」という意味で、町はその名の通り西海岸のマニトソク地域の特徴ある美しいフィヨルドに囲まれています。
また美しい群島にも囲まれ、グリーンランド住民がコテージやキャビンなどを建て、自然を楽しむ憩いの地となっています。
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△ マニトソクの港

この地域には4000年以上前に先住民がいたとされ、たくさんの出土品があります。植民地時代からある町の4つの建物は現在は博物館になっており、この土地で見つかった絵画、彫刻、象牙の彫刻、骨や石鹸石、その他手工芸品などの豊富なコレクションが陳列されています。

この町は実際にはいくつかの島々と岬に分かれていて、数えきれないくらいたくさんの階段で建物が繋がれています。
現在は4000人が暮らす町の主な産業はエビとカニです。
しかし伝統的なオットセイ狩りと捕鯨も、自治区の持つ3つの居留地の住民たちには、まだまだ重要なものとなっています。
posted by Coyama at 22:36| グリーンランドのこと

2012年06月16日

人、求む。

昨年の秋に、僕は福島県の飯舘村を訪問しました。
福島第一原発の事件で避難地域に指定された福島県の村です。

飯舘村では地元の農家の方を訪問し、いろいろと話を聞かせていただきました。
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そしてその村で除染活動を試みている人たちから、汚染をどう除去するか。地表の土を剥いだり、放射性物質を吸い上げる植物を育てたり、落ち葉をかき集めたりと、さまざまな考えを聞かせていただきました。
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それらの内容は確かに効果があるのかもしれませんが、実際に村内を巡って広大な地域を目にするとその広大な地域をどうしていくのかという思いになり、関係者の熱意を感じる一方で、風車に挑むドン・キホーテのような非現実的なことのようにも思えてしまいました。
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そしてこの「非現実的」という考え自体が、現代日本人の証のようにも感じました。僕はいつから物事を「非現実的」「現実的」と分けるようになってしまったのでしょうか。

現実的な考えは、汚染されたのだから住民は避難し、村を捨てろ、ということだと思います。
非現実的な考えは、なんとか住民が村に人が戻るよう、努力をしよう、ということだと思います。

「臭いものには蓋をする」という姿勢であれば、現実的な考えでよいのだと思います。

この「非現実的」というものと「夢」というものは似ていると思います。
人はあの夜空に浮いている月に行こうと思い、そして宇宙船を開発し、長い年月をかけ月に行けた。
水平線の先には新たな大地があると思ったから、人は旅に出た。
病気は治せると信じて、治療法を見つけてきた。
これらの行為は、「夢」であり、きっと当時の人々には「非現実的」に写ったことでしょう。

飯館村や福島原発周辺のことは、その土地だけの問題ではなく、日本全体のことだと僕は思います。
もしその土地に戻るように努力をしようという、植え付けられた意識の「非現実」的なことを誰かがしようとしなければ、それはこの国で今後起こることに対して、国民はいつも見て見ぬふりをする、出来ないからと諦める選択をすることになる、ということだと僕は思います。

例えば、あなたの子どもが病気になったら、それは病気になったから仕方がない。はい、おしまい。と言うことです。
これは決して飛躍し過ぎの考えではないと思います。

昨年、知り合いの喫茶店の看板犬に病巣が見つかりました。
飼い主は必死にその犬の延命を願い、またその喫茶店を訪れる常連客の誰もが、その犬の延命を願って治療費や薬代の寄付を申し出ました。僕もその中の一人です。
このことを現実的に考えたら、「たかが犬」、「年老いた犬」、ということになり、犬に対して寄付をすることもない、といういことになるのでしょう。実際、僕と共にその喫茶店を訪れている方の多くは、寄付には消極的でした。

でも実際にそこには、現実的ではない、「人の思い」というものがあると、僕は思っています。
最後の最後まで、出来ることを出来る限りしてあげようという、飼い主や周りの人の「愛」がある。

その出来事を通して感じたのは、愛なき人は、それが犬であろうが人であろうが、決して募金などはしない、ということです。
助かるか助からないかもわからない、現実的ではないことに、自分の身銭を切ることはしないからです。

きっと原発事件で汚染された福島を見捨てるということは、それと同じことだと僕は思います。
遠く離れた土地のことだし、広義のために狭義は仕方のないことだ、と。

今の日本は、残念ながらそう考える多くの“愛なき”人で溢れています。

飯舘村でお会いした農家の方が、このようなことを言ってました。
「津波で流され、何もかもなくなったのであれば諦めがつく。でもそうじゃない。我々には除染あってからの復興なんだ。」

しかし人間は強いなと感じたのは、続いた次のような言葉でした。
「過ぎてしまったことは仕方がない。前を向いていかないと。最近ようやく笑って話が出来るようになった。それまでは本当に無愛想だった。」

その方から最後にいただいた名刺には、次のようなことが書かれていました。
原発事件の前に作った名刺だそうです。
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*****
地球の贈り物 大自然の恵みを大事にする
山のこだわりや
農家 ○○○○
*****

○○○○の部分にはその方の名前が入っています。素敵な名刺でした。
しかしそんな名刺に書かれていた文言も、あの日以来一変してしまった。

名刺に書かれている、地球の贈り物、大自然の恵みを破壊したのは、原発も津波でもない。人間です。
そして本来、人間という生物そのものも、地球の贈り物だったはずです。

「来年の為に花を植える、20年後の為に木を植える、100年後の為に人を育てる。」という言葉があります。
今の日本に必要なのは、“非現実なこと”に挑む「人」、“夢”を追う「人」だと僕は思います。
そして必要ないのは、「夢では食べていけない」とか「現実を見ろ!」と唱える、飾り立てた花を愛でる人たちです。

お金がなければ食べていけないという理論は、飯館村では通用しません。
お金があったって食べていくことの出来ない現実が、そこにあるのです。
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真に身についた学問にするには、自分自身にあてはめ、深く思い考え、そしてゆったりと学ぶこと。
福島の原発事件ことは、遠い異国のことではなく、日本で起きていることです。
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今の日本人の多くの方々は、失礼ですがもう少し、知見を広げ学んだ方がよいと、僕は思います。
posted by Coyama at 22:34| 思ったこと・感じたこと

2012年06月15日

先輩からの教育

前職で関わった仕事で、年度が終わった後の5月末で締め切りの業務があり、その業務の担当を僕が丸投げさせられたのですが、前職の雇用は年度末の3月末で終わりだったため、3月末までに提出用の報告書を完成するように言われ、実際にその期日で終わらせました。

その業務は前職の雇用先と協力先とで行ったものであり、協力先にはすでに12月の年末の時点で、雇用先が3月末で閉鎖のため5月末までの対応が出来ず、報告書の納品は3月末で終わらせてもらうという内容は伝え、了承もいただいていました。

しかし2月末頃から、最終的な引き渡し等の打ち合わせをしようと連絡をしても協力先からはまったく返答がありません。
メールをしても返答はなく、それではよくないからと電話をし、不在だったので伝言を頼んでも返答はなし。
3月中に納品が出来なければ、その後では説明してのお渡しは出来ないということを伝えても、反応はなし。
結局3月末まで先方からは何の連絡はなく、僕の雇用も3月末をもって終わったため、最後に雇用先の責任者(もともとその仕事を受けた人)からの指示で協力先には手紙を送っておきました。
手紙の内容は、提出する報告書に関しては全てを揃えて雇用先の責任者に渡してあるということ、今後の連絡は僕ではなくその責任者にしてくださいとのことを記しておきました。
ちなみにその手紙に関しても、先方からはその後なんの返事もありませんでした。

僕の方で用意した内容に関しては特に問題があるようなものでもなく、またこちらも出来るだけのアプローチはしましたので、その後はよほどのことがない限り問題はないだろうと思っていました。

ところが締め切りの5月末日の当日の朝になって、協力先から「報告書を今日提出しなければいけないのですが、報告書は責任者から受け取ったもののパソコンデータを受け取っていません。それらもCD等で提出しなければならず、至急送って下さい。今日提出しなければなりません。」とのメールが突然届きました。

世の中どうしてこのような大人が増えてしまったのでしょうか。

ちなみに僕はそれら提出物は全て把握していましたので、報告書に関しては紙媒体だけではなくデータをきちんとCD-ROMに焼き、わかりやすく全てをひとまとめにして責任者に渡しておきました。
そしてその責任者もそのまま先方に渡したのだそうです。

僕があれだけ不備を防ぐために先方に直接お会いして納品するなど、こちらから何度も面会をお願いしたのに一切返事をすることなく無視しておいて、必要になった時に突然頼ってくる。
それでも数日前に言ってもらえればなんとか対応も出来たと思うのですが、締め切り当日になって突然言われても対応は出来ません。

その方に関してとやかく言うつもりはありません。

僕はその朝の連絡に対して無視することも出来ましたが、一応「私に聞かれても私の雇用は何度もご連絡させていただいた通り3月末で打ち切られ、前職に関するデータは全て責任者に渡しており、私は所有しておりません。責任者へお問い合わせください。ちなみにデータ提出の件は私も存じてましたので、3月末にCD-ROMに焼いて責任者へお渡ししました。」と正直なことを返しておきました。
僕個人の業務であればわかるのですが、雇われの身だった僕が職を解かれた後に、その業務のデータを所有していることはありません。考えてもわかることだと思うのですが、世の中にはそれが通じない人たちも増えてきていることを実感しています。

それにこの世は因果応報、自分が他人に行ったことは、いずれ巡り巡って自分に返ってきます。
ここで僕が無視をしたら、先方と同じ人間になってしまうわけです。
だから必要ないのでしょうが、僕は返事をしました。

それにしても、他者のことは考えずに自分の都合のよいような行為を平気でしている今の日本の大人たちを見ていると、本当に日本に明るい未来はないなとがっかりさせられるのですが、少なくとも僕はそのような大人にはなりたくありませんので、情けない行為を、真似しないようにしようと心がけています。


人間の行為には2つの学習があり、1つは自分が先輩からされたとは世の習いとして当然のことだから後輩にも強いていくというのと、もう1つは先輩からされて間違っていることは自分のところで止めて後輩に良き部分を送っていく、というもの。
今の日本の大人たちには、圧倒的に前者が多いと、僕は感じています。

そういえばその協力先からのメールには、お願いの後に追伸として、その方が行っている活動の近況や是非見学に来て下さいとの言葉が添えられていました。
僕が苦境にあることを知っていながら、何かあれば相談に来いなどとの言葉一つなく、自分のやっていることの自慢話。
なぜなのでしょうね。

・自分に必要のない時・忙しい時は無視して自分が必要になった時にいいように他人を利用する
・人に気をかけない・協力はしないが、自身の自慢や宣伝はきっちりとする

という典型的な最近の大人の行動。僕自身もそのような行為をしないわけではなく、時に思い当たる節もあります。気をつけていかないといけません。
きっとその方々は、あえて自分がそのような言動をすることで、僕を教育してくださっているのだと思います。
僕はそのようによい方向に捉えて考えることにして、反面教師として学ばせていただいた先輩方にも、感謝をしようと思っています。ありがとうございました。
posted by Coyama at 23:04| 思ったこと・感じたこと

2012年06月14日

手のひらを太陽に

先週小諸市の畑で土を掘り起こしていたところ、すぱしっこく動き回る小さな生き物を発見しました。
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姿を目で捉えることが出来ないくらいに素早くすぐに土中に戻ってしまうため、潜ったところを掘り起こして捕まえ、写真を撮りました。
しかし写真で見ても初めて見る生き物です。
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知り合いに聞いてみたところ、ケラ(オケラ)だろうとのこと。
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正式名はケラなのだそうですが、オケラのほうが馴染みがあるので以下オケラと表記します。
確かに調べてみるとオケラでした。

「手のひらを太陽に」という童謡の歌詞に、
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手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって アメンボだって
みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ
*****
とオケラが出てきます。どこで習ったのかは忘れましたが、この歌は僕もよく歌い、記憶にありました。

歌詞に出てくるミミズやアメンボはこれまでよく目にしましたが、オケラは生まれてからこの36年間見たことはありませんでした。

ちなみに「手のひらを太陽に」の作詞者はアンパンマンの作者でおなじみのやなせたかしさんです。

やなせさんにとってはオケラはきっと幼少時代に自然と触れていた生き物のひとつだったのでしょうね。

このオケラ、見た時にコオロギかなとも一瞬思ったのですが、コオロギは見たことがあるので違うなとすぐに思いました。
ただオケラは英語でmole criket、直訳すればモグラコオロギという名前になっています。
確かに下半身はコオロギで、上半身はモグラっぽいのです。
そのモグラのような両足で地中を掘り進んで行くのだと思います。

さらにひと財産すってしまった時に使う言葉で「オケラになる」という言葉がありますが、ここで使われている「オケラ」も生き物のオケラから来ているそうです。
これはオケラを手でつかんだ時、大きな前足を持ち上げる姿が“お手上げ”のポーズに見えることが由来なのだとか。

この「オケラになる」という言葉は最近出来たものではありませんので、おそらく古くからオケラの存在は日常にあったのだと思います。

なんでもオケラは湿地帯を好んで生息するらしく、水田文化の日本ではよく見られた生き物なのでしょう。
ミミズもアメンボも、田んぼでよく見かける生き物です。だとするとミミズ・オケラ・アメンボは、やなせさんがきっと幼少時代に田んぼで親しんだ生き物なのだと思います。

ミミズだって オケラだって アメンボだって
みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ
この歌詞の姿を、今の都会の子どもたちは描けるのでしょうか。
今の都会の子どもたちが成長し、「生きる」ことへの詩を書いた時に、「オケラ」の存在は頭の片隅にでもあるのでしょうか。

今に限らず昔からですが、「人の命をなんだと思っているんだ!」と憤慨したくなる事件って減りませんよね。
人それぞれ様々な背景があると思いますので、いつの時代にもそれらをなくすことは出来ないと思うのですが、限りなくゼロに近づけるように未然に防いでいくことはできると思っています。

『そのためには幼少期に自然に触れる体験の場をもっと増やすこと』なんてことをいう人もいると思うのですが、僕はそれは正しいけれど正しくはないと思います。
だって僕は生まれて36年目にして初めてオケラをみたわけです。
正しくは、『何歳であろうと、自然に触れる体験の場と、それが出来る時間をもっと増やすこと』なのではないでしょうか。
posted by Coyama at 23:41| 思ったこと・感じたこと