2012年04月15日

1400年代 − オルデンブルグ朝

1445年、クリストファ3世王は当時15歳のドロテア妃と結婚をします。しかし彼女との間に子どもを授からぬまま、彼は1448年に亡くなります。これによりそれまでスカンジナビアのデンマーク王室を受け継いで来た血統は途絶えることとなりました。

翌1449年、ドロテアはオルデンブルグ(Oldenburg)家(現在のドイツ北西部)のクリスチャン伯爵と結婚し、デンマークは彼をクリスチャン1世王として迎え入れました。ここに、後のフレデリック7世王が亡くなる1863年まで続くオルデンブルグ朝の血統が誕生し、以後デンマークの王位を担うこととなりました。

一方スウェーデンではクリストファ王の死後にクリスチャン1世王ではなく貴族のカールが王として王位につき、彼は翌1449年にはノルウェーの王位にも就きます。しかし1451年からデンマークとスウェーデンの間に戦争が勃発し、ノルウェーは1450年に、スウェーデンは1457年に王位をクリスチャン1世王に引き渡すことになります。
1459年にはクリスチャン1世王はスレスヴィグ公国の公位にも就きます。
しかし1467年にクリスチャン1世王のスウェーデンの王位が剥奪され、カール王が再びスウェーデン王として即位することとなります。

1472年、スコットランドのジェームス王にクリスチャン1世王の娘が嫁いだ際、その持参金代わりとしてオークニー諸島が無血でノルウェーからスコットランドへ移譲されました。

1474年にはクリスチャン1世王がホルステン公国の公位に就きます。
そして国の政を担うよりよい人材を育成する目的で、1479年に神学、法学、医学、哲学を学ぶためのコペンハーゲン大学が設立されました。

クリスチャン1世王はドロテア妃との間に5人の子ども(息子4人、娘1人)を授かりました。1481年にクリスチャン1世王がなくなると、彼の息子であるハンス王子がデンマークの王位に就きます。彼は1483年にはノルウェーの王位につき、1497年にはスウェーデンの王位も奪い取ります。
またハンス王はスレスヴィグ=ホルステンの両公国の公位も継ぎ、1497年に北欧王国同盟を締結します。

しかし1501年にはハンス王が再びスウェーデンの王位を奪われるなど、デンマークとスウェーデンの国政は落ち着かないままでした。
posted by Coyama at 21:26| コペンハーゲンの都市史

2012年04月14日

1400年代 − 女王陛下のコペンハーゲン

こうして事実上の三国統一を果たした女帝・マグレーテ妃は、次にユラン半島の南にあるスレスヴィグ=ホルステン公国の統治に乗り出します。
スレスヴィグ=ホルステン公国はユラン半島とヨーロッパ大陸の間にあり、ヨーロッパ大陸へ勢力を拡大していくためには重要な地であったのです。
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△ スレスヴィグ、ホルステン両国の位置。現在はスレスヴィグの北部がデンマーク、南部がドイツに属している。

しかし彼女は1412年に59歳でこの世を去ります。

その後1416年、エーリク王はロスキレ司教からコペンハーゲンの支配権を奪い取ります。
さらに1420年前後にはシェラン島の北端の現在のクロンボー城の土地に要塞を築き、1426年には城の横に市(ør)を設けました。
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△ コペンハーゲンとヘルシンガーの位置

これが現在のヘルシンガーの街の始まりと言われています。
ちなみにクロンボー(Kronborg)とは「鉤(kron)の要塞(borg)」という意味です。この城はシェイクスピアの代表戯曲「ハムレット」のモデルとなった城としても有名で、現在は世界遺産に登録されています。
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△ 現在のクロンボー城。世界遺産に登録されている。

1429年、エーリク王は東海峡を抜ける船に通行税を課す法案を制定します。以来この通行税は1857年に廃止されるまでこの要塞がそれを徴集することとなり、デンマークの重要な財源となりました。
このクロンボー城の東海峡の対岸の地は現在はスウェーデンの国土ですが、当時はまだデンマークが統治していました。そのため東海峡はデンマーク王国のものだったのです。

この通行税の設置の背景には、スレスヴィグ=ホルステン公国への統治に向けてデンマークの国力を強める目的があったためと言われています。
しかし女帝・マグレーテ妃の後ろ盾をなくしたエーリク王は1439年にデンマークとスウェーデン、1442年にはノルウェーの王位を剥奪されます。彼の後継にはエーリク王の妹の息子、つまり甥にあたるバイエン国のクリストファ(クリストファ3世)が引き継ぎます。この時、スウェーデンでは1438年から1440年までの間、貴族のカール(後のスウェーデン王)が摂政を行いました。
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△ 15〜16世紀にかけて作られた主なデンマークの都市

クリストファはまず1440年にデンマークの王位に就き、1441年にスウェーデン、1442年にノルウェーの王位を継ぎます。そして翌1443年に、彼はそれまでロスキレにあった王室の拠点をコペンハーゲンへと移しました。

初期の王都コペンハーゲンの町は出入り口を2つ持ち、ひとつは南西に、もうひとつは北側にありました。
2つの入り口から伸びた通りは、市庁舎のあったガメル広場で交差していました。
この時の街の構造は、現在でもほぼ変わることなく残されています。
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△ 1377年のコペンハーゲンの様子

港に面するアマー広場(Amagertorv)はその当時から街の中心マーケットであり、現在でもストロイエ(Strøget)と呼ばれる歩行者専用道の中心にあり、多くの人々で賑わっています。
この広場の西には、Holy Ghost教会、修道院、Holy Ghostの家があります。現存するコペンハーゲンの最も古い建物は、15世紀後半に病院として建てられたこのHoly Ghostの家です。ここは1296年に設立された修道院で、その後教会の様々な施設が複合されていきました。
このゴシック建築の小さな病院は現在はコペンハーゲンの中世の建築として保護され、現在は展示場として利用されています。
教会は15世紀中盤に建設され、1728年のコペンハーゲン大火災で破壊されましたが、中世の外壁の一部は現在でも残っています。
Greffenfeld礼拝堂は1673年に建てられたもので、1956年に修復されました。

また13世紀にロスキレ教区に戦いを挑んだヴェンド族の首領Jamerからその名が来ているJarmerøs塔の遺跡も現在に残されています。このタワーは16世紀に建てられ、当時は街の要塞の一部でしたが、後の17世紀には要壁に覆われてしまいました。
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△ 現存するJarmerøs塔の遺跡
posted by Coyama at 17:21| コペンハーゲンの都市史

2012年04月13日

1300年代 − カルマル同盟

マグレーテ妃の夫であったホーコン6世王は、ノルウェーとスウェーデンを統治していたマグヌス王とブランカ妃の第2子でした。ホーコン6世王の兄であり第一子のエリク王子を差し置いて、1355年にマグヌス王は15歳のホーコン王子をノルウェーの王位に就けました。この時、母親であるブランカ妃が彼の補佐としてノルウェーの政治を執り行ないます。

しかしこの事に兄のエリク王子は反発して内乱を起こし、1356年に父であるマグヌス王とスウェーデンの共同王位につきますが、その3年後にエリク共同王は亡くなります。
1363年、息子であるホーコン王をデンマークの王女マグレーテと結婚させたのを見届けたブランカ妃はこの世を去ります。その翌年、ブランカ妃の夫でありホーコン王の父であるスウェーデンのマグヌス王は国を追放させられノルウェーに亡命します。

その後、スウェーデンはマグヌス王の孫にあたる王朝直系のオーロフ王の王位継承を拒み、別の血族として1364年に新たにメクレンブルグ=シュベリーン公国からアルブレヒト王子を王位に迎えます。彼は前マグヌス王の妹であり、エリク・マグヌセン王子の娘であるエウファミア王女の息子でした。
ちなみにアルブレヒトの兄であるハインリヒ公は、マグレーテ妃の姉でありヴァルデマー4世王の娘であるインゲボー妃と1362年に結婚しています。

1387年、デンマーク・ノルウェー両国の王であったオーロフ王はわずか17歳でこの世を去ります。これによりノルウェーとデンマークの次期王の選出は当時のデンマーク・ノルウェーを実質的に仕切っていた女帝・マグレーテ妃が決定することとなり、彼女は1389年に姉インゲボーの娘、つまり彼女の姪にあたるマリアの息子エーリク王子をまずはノルウェーの王に据え、マグレーテ妃はエーリク王の補佐と同時にデンマークの事実上の女王として政治をとり行います。
しかし当時北欧では女性の王位継承は認められてはいなかったため、あくまで補佐として彼女は国を統治していました。

エーリクをノルウェー王に据え、実質ノルウェー・デンマークの統治者であったマグレーテ妃はスウェーデンに軍を進め、当時統治していたアルブレヒト王を捉え、彼からスウェーデンの統治権を奪います。
この背景には、スウェーデンを手に入れることで当時北海やバルト海を中心に活動していたハンザ同盟に対抗する勢力を整えるということもありました。そしてこれによりスウェーデンはマグレーテ妃の支配下に置かれることになります。
この時、アルブレヒト前王は殺害されず追放されて故郷メルデンブルグへ戻り、亡くなる1412年までメルデンブルグ公として君臨しています。その背景には、エーリク王がアルブレヒトの兄の孫であるという血縁関係も背景にあったのかもしれません。
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△ アブサロン時代から増築されてきたコペンハーゲン城は1369年にハンザ同盟により破壊されるが1400年までには新しい城が建設されました。

スウェーデンの治世を整えたマグレーテ妃は、1396年に正式にエーリク王をデンマークとスウェーデンの王位に据え、その翌1397年にノルウェー・デンマーク・スウェーデンの三国連合の調印を現スウェーデンのカルマルで行い、その調停場所の名を取った「カルマル同盟」が発足しました。ちなみにエーリク王はデンマーク、スウェーデン、ノルウェーのそれまでの歴代の王の血を受け継いでいることになります。
この三国同盟は1520年に『ストックホルムの血浴』と呼ばれるデンマーク政権によるスウェーデン貴族の大量虐殺事件が引き金となった内乱までの約120年間維持されることとなります。
posted by Coyama at 18:06| コペンハーゲンの都市史

2012年04月12日

1300年代 − 女帝・マグレーテの誕生

ヴァルデマー4世王は妻ヘルヴィグ妃との間に娘を二人授かりましたが、息子には恵まれませんでした。
2人の娘の姉・インゲボー王女は1362年にメルデンブルグ=シュベリーン公国(ドイツ北部にあった公国)のハインリヒ1世王に嫁ぎ、妹のマグレーテ王女は1363年に10歳の時にノルウェーのホーコン6世王に嫁ぎます。

1375年にヴァルデマー4世王が亡くなるとデンマークに後継者問題が起こります。この時インゲボー妃とマグレーテ妃はそれぞれに息子を授かっていたのですが、インゲボー妃は1370年にすでに亡くなっていました。
ここでマグレーテ妃はデンマークの貴族たちを味方につけ、自分の息子であるオーロフ王子をデンマーク王にすえることに成功します。
しかしこのオーロフ王は即位したときにはまだ5歳だったため、母親であるマグレーテ妃が彼の補佐として実際の政治をとり行うことになります。
ここに、その後スカンジナビア3国を実質上統一するマグレーテ女帝が誕生したのです。
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△ マグレーテ1世女王前後の王室の関係図

5年後の1380年、今度はマグレーテ妃の夫でありオーロフ王の父親であるノルウェーのホーコン6世が亡くなると、すでにデンマーク王でもあったオーロフ王がノルウェー王としても即位することになります。
その時オーロフ王は10歳だったため、母・マグレーテ妃はノルウェーの補佐として政治を行う事になります。
こうしてここに、以後4世紀以上も続くことになる同君主を持つデンマーク=ノルウェー同君同盟が確立されました。
この連合は以後ナポレオン戦争での責任によりノルウェーをスウェーデンに引き渡した1814年まで続きます。

そして同時に、デンマーク大国はノルウェー領であったアイスランド、グリーンランド、フェロー諸島を有することとなりました。
この頃の連合の名残りが、現在もデンマークがグリーンランドとフェロー諸島を自治領とし持つ由縁となっているのです。
posted by Coyama at 22:07| コペンハーゲンの都市史

2012年04月10日

1300年代 − 王家の血縁

14世紀頃から、スカンジナビアの王室の中では血縁関係による王位継承が複雑化されていきました。
1299年にノルウェーの王位に就いたホーコン5世王は、デンマーク、スウェーデンの圧力を受けて当時ノルウェーの首都であったベルゲンから両国の支配が届きやすいオスロへと1300年に首都移転を強いられました。
そのホーコン5世王には息子がなく、妻エウファミア妃との間に生まれたインゲボー王女は、1312年に当時のスウェーデンのウィアガー王の弟であり、先王マグヌス3世王の息子エリク・マグヌスン王子に嫁ぎます。
彼女は1316年にエリク・マグヌスン王子との間に息子マグヌス王子を、1317年に娘エウファミア王女を生みます。しかしエウファミア王女を生んだ翌年に夫のエリク王子が、その翌年の1319年に父ホーコン5世ノルウェー王が亡くなります。さらに1318年にはエリク王子の兄でありスウェーデン王であったウィアガー王が王位を廃していました。

そして1319年、直系の男子としてインゲボー王女の息子マグヌス王子がわずか3歳でノルウェー、スウェーデンの両国の王位に就きます。
この時、彼が成人するまでは母であるインゲボー妃が補佐として政治を取り仕切りました。
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△ 1300年前後の王室の関係図

一方で1300年頃のデンマークでは国力が弱まり、財政難のためデンマークはデンマークとドイツの間にあったホルステン公国(現在のドイツ北西部)から多額の借金をしていました。しかしデンマークには返済能力がなかったために、デンマークではホルステンの公王の権限が次第に大きくなり、デンマーク国民の不満は高まっていきました。

1329年にはコペンハーゲンの街はホルステン公国のヨハン伯爵が所有し、彼はコペンハーゲン城に入り政治にホルステンの貴族を配置してその勢力を強めていきました。
1330年には当時のクリストファ2世王がコペンハーゲンを所有しますが、1332年に彼が亡くなると1340年までデンマークは王の不在期間が続きます。この間、コペンハーゲンは借金の形としてホルステン公国の貴族が所有していました。

そのような状況の中で、1340年にヴァルデマー・アテレイ(Valdemar Atterdag)は、国の政治を改革させるためにデンマークで内乱を起こします。彼はその戦いに勝利した後、ヴァルダマー4世王としてデンマーク国を統治し、コペンハーゲンも彼の配下におかれることになります。
しかし彼が在位中にヨーロッパ各地にペストが流行し、デンマークでも全人口のほぼ半分が死亡。これにより国力はさらに激減していくことになりました。
posted by Coyama at 20:03| コペンハーゲンの都市史