2012年05月12日

1600年代 − デンマークとスウェーデンの戦い/氷上侵攻 −

デンマークとネーデルランド(オランダ)は強大化するスウェーデンの動きをよく思わず、1657年にデンマークとネーデルランドは同盟を結んでスウェーデンに宣戦布告します。
この時、スウェーデンのカール10世王はポーランドにいたスウェーデン軍をドイツ方向へ向かわせます。
スウェーデン軍は中立の立場をとっていたブランデンブルグ公国を抜け、さらにスレスヴィグ=ホルステン公国を抜けて北上し、一気にユラン半島を制圧します。カール10世と婚姻関係にあったスレスヴィグ=ホルステン公国はこの時スウェーデン軍の侵攻を黙認したとされています。

カール10世がユラン半島を制圧したのは1657年の暮れにかけてであり、すぐに北欧では厳しい冬の季節が訪れていました。
この時、デンマークのクリスチャン3世王は海上での戦いに備え、コペンハーゲン沖で大艦隊を整備していました。しかしこの年、1657年の暮れから1658年にかけてスカンジナビアを大寒波が襲います。そしてデンマークを囲む海は氷で覆われ、デンマーク艦隊は氷に閉ざされました。
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△ 今でも冬になると海が凍る様子を時々見ることが出来ます

1658年1月30日、ユラン半島に停留していたカール10世王率いるスウェーデン軍の戦闘部隊は、なんとその寒波により氷結した小海峡と大海峡の上を島伝いに歩き始め、ユラン半島からフュン島、シェラン島までを一気に渡り切り、2月5日には全軍がシェラン島へ上陸しました。
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△ この海が凍り、そしてその上を歩いて渡ったんだぜぇ〜?ワイルドだろ〜?

そしてシェラン島を西へ移動したスウェーデン軍はあっという間にコペンハーゲンの街を包囲します。
この予期せぬスウェーデン軍の奇襲に、デンマークのフレデリック3世王はなす術がなく降伏をしました。

こうして2月26日にロスキレ条約が結ばれ、デンマークはボーンホルム島とスコーネ地域、ノルウェーのトロンハイムの領地をスウェーデンに譲渡させられたのです。
posted by Coyama at 23:04| コペンハーゲンの都市史

2012年05月07日

1600年代 − スウェーデンの王権争い −

ここでこの頃にスウェーデンで起こった王位継承権の権争いについて述べたいと思います。

1520年の『ストックホルムの血浴』事件にはじまるスウェーデンの独立運動で王位に就いたグスタフ・ヴァーサ王は1560年に亡くなります。その後彼の息子であるエリク14世王が即位します。このグスタフ・ヴァーサ王の血筋はヴァーサ朝と呼ばれていますが、このヴァーサ朝の血縁は後にバルト海での惨劇に繋がっていくことになります。

このスウェーデンのヴァーサ朝第三代のヨハン3世王は、ポーランド=リトアニア連合国に要請され、彼の息子のシギスムンド王子をポーランド=リトアニア連合国の王として送り出しました。しかし1592年にヨハン3世王が亡くなると、シギスムンド王はポーランド王を兼ねたままスウェーデンの王にも即位することになりスウェーデンへ帰国します。

この時、先の三十年戦争にあるようにスウェーデンではプロテスタント教が信仰されていたのですが、ポーランドではカトリック教が信仰されており、すでにプロテスタントからカトリックに改宗していたシギスムンド王はスウェーデンをカトリックへと改宗しようとしました。
このことにスウェーデンのプロテスタント信仰の貴族たちは反発し、シギスムンド王がポーランドに戻った留守を狙い、彼の叔父でありヨハン3世王の弟であるカール王子を立てて反乱を起こし、スウェーデンにおけるシギスムンド王の王位を剥奪し、カール王子を1598年にスウェーデン王に即位させます。

当然ながらシギスムンドはポーランド軍を率いて討伐に出るのですが敗退し、以降スウェーデンとポーランドの両国は膠着状態に入ります。

それから半世紀が過ぎた1654年、クリスティーナ女王が王位をカール10世王に譲ったことでそれまでスウェーデンの王朝を担ってきたヴァーサ朝の直系の血族が途絶えます。
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△ ヴァーサ朝の家系図

この時、シギスムンド王の血を引くポーランドの王がスウェーデンの王位継承権を主張するのですが、ちょうどその頃、ロシアがポーランドへの侵攻をはじめます。スウェーデンはこれに乗じ、王位継承権を破棄させることを目的にポーランドへ侵攻します。そしてロシアとスウェーデンに攻められたポーランドは敗退し、ポーランドの地はスウェーデンとロシアがそれぞれ分け合って占領することになります。

しかし、その後ポーランドはロシアと手を結び、一方でスウェーデンはブランデンブルグ=プロイセン(ドイツ北東部)と同盟し、1656年のワルシャワの戦いでスウェーデン軍はポーランド・ロシア連合軍を撃退します。これによりスウェーデンはポーランドによるスウェーデン王朝への王位継承権を破棄させることに成功しましました。
posted by Coyama at 22:05| コペンハーゲンの都市史

2012年05月03日

1600年代 − 三十年戦争とスウェーデンとの対立 −

この時代、デンマークはスウェーデンと戦争を繰り返していました。
1611年にはカルマルの地を拠点にカルマルの戦いが起こります。
そして1624年、デンマークやスウェーデンはドイツを中心としたカトリックとプロテスタントの間での戦争、いわゆる30年戦争に加勢していきます。1625年にデンマークのクリスチャン4世王は北ドイツへの勢力拡大とバルト海、北海の覇権を目論み、プロテスタント側に加勢して戦いました。しかし1626年に敗北をし、ユラン半島を侵略されます。一方でグスタフ・アドルフ王率いるスウェーデン軍は東プロイセンを侵略していきました。

1628年、立場の弱くなったデンマークはスウェーデンに支援を求め、両国は同盟を結びます。そしてこの30年戦争では結果的にはプロテスタントが勝利を収めるものの、デンマークは国力を弱め、一方でスウェーデンは国力を増大して北ドイツに拠点を獲得し、さらにネーデルランド(オランダ)とも同盟関係を築いていきました。

1643年、スカンジナビアの統一を目論むスウェーデンは同盟を破棄してデンマークに宣戦布告をし、翌1644年にユラン半島とスコーネ地域を占領します。1645年に両国は和解をするものの、デンマークはノルウェー領の一部とゴットランド、ブレーメン、フェルデンをスウェーデンに譲渡し、さらに東海峡の自由通行権を承諾させられました。ただしスコーネ地域はデンマークへ返還されました。
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△ 1644年の戦いでのクリスチャン4世
この絵のシーンはデンマークの歴史の中では非常に有名なもので、当時67歳だったクリスチャン4世王が船に攻撃を受け、自身も身体の14カ所に傷を負いながらも果敢に指揮を取り敵を撃退させた。この時右目に巻かれていた血の付いた包帯は、現在でもローゼンボー宮殿内の軍事博物館に展示保存されていいます。


デンマーク王立図書館が設立された1648年にクリスチャン4世王が亡くなり、その後息子のフレデリック3世が王位に就きます。
posted by Coyama at 20:40| コペンハーゲンの都市史

2012年05月02日

1600年代 − 建築王・クリスチャン4世の都市計画 −

1588年に11歳で王位に就いたクリスチャン4世王ですが、最初の7年間は貴族によりデンマークの摂政が行われ、その間にクリスチャン4世王はデンマーク語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、神学、宗教、数学、製図、物理学、歴史、地理学、スポーツなどの英才教育を受けていました。特に芸術に対する興味は高かったと言われています。
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△ 1588年のクリスチャン4世の即位式のパレード様子。白馬にまたがっているのが若きクリスチャン4世王

18歳になるとクリスチャン4世王はコペンハーゲンにいくつもの壮大で価値のある建物を計画します。これらはネーデルランド(オランダ)のルネッサンス芸術から学んで作ったといわれています。ローゼン宮殿やボーセン(証券取引所)、ランドタワーなどのコペンハーゲンに現存する建物はこの時代にクリスチャン4世王が計画したものであり、他にもシェラン島北部のヒレルゥド(Hillelød)にあるフレデリクス宮殿やユラン北部のオールボーにある石の家も彼のデザインによるものと言われています。
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△ 現在のボーセン

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△ 現在のローゼン宮殿

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△ 現在のランドタワー

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△ 現在の石の家

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△ 現在のフレデリクス宮殿

さらにクリスチャン4世王の作り出した建築の潮流は街の建物の手本となり、アマー広場にあるアパートなどもこの時期にクリスチャン4世王のデザインを真似て建てられたものと言われています。
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△ アマー広場ある1616年に建設されたアパート。現在はロイヤルコペンハーゲン(陶磁器メーカー)の店舗として利用されている。

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△ ニューハウンの住宅。右側の青い色の建物は1681年に建設されたもの

またクリスチャン4世王はコペンハーゲンにおいて、後世までコペンハーゲンを特徴付ける都市の最大の特徴に着手します。それは中世コペンハーゲンを取り囲む防壁です。クリスチャン4世王の統治時代(1588〜1648年)に作られたこの防壁(第二期城壁)は以後のコペンハーゲンの都市形成の決め手となり、現在に至る街の骨格を作りました。コペンハーゲンの街の北に現存するカステレット[Kastellet](五稜郭の意)は当時の防壁の様子を今に残しています。
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△ 現在のカステレット(五稜郭)の防壁

さらにクリスチャン4世王は政治的な建物だけではなく、市街地北部にニュボダー[Nyboder](新住居という意)と呼ばれる海軍の家族のための集合住宅を作りました。この建物は設立して350年以上経った現在も集合住宅として利用されています。
ニュボダーの集合住宅はそれまでの初期防壁内での込み入った都市計画からの脱却でした。住宅の規模、建物の長さ、直線道路に沿ったシンプルで機能的な配置計画は、住宅と芸術としての両方の価値を有していました。「キャベツ畑」と呼ばれるこの住宅ブロックの配置は、空気、交通、光の分配、音環境などの住宅問題を考慮しており、それ以降の多くの住宅の計画のモデルとして提供されています。このニュボダー計画は1631年に始まり、クリスチャン4世王が亡くなった1648年には約600戸が建設されていました。

現在この地域を特徴づけている2棟型の建物は1758年に建築家・フィリップ・デ・ランゲ(Philip de Lange)によって改築されたものですが、オリジナルの一棟型ユニットタイプも現存しています。1900年頃、この地域の再開発計画が持ち上がりましたが経済的な問題でそれらは中止となりました。そしてこのニュボダー地域は現在でも非常に人気の高い住居地域として利用されています。
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△ 初期のニュボダー集合住宅の図面と配置図

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△ 現在のニュボダー地域の集合住宅

1618年には独立した街としてコペンハーゲンの対岸にクリスチャンスハウン地域[Christianshavn](クリスチャンの港)が建設されますが、1674年にはコペンハーゲンに吸収統合されます。このクリスチャンスハウンはイタリアの典型的な都市計画の専門家として雇われたオランダ人の要塞技師・ヨハン・センプ(Johan Semp)によって計画されました。
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△ 1650年頃のコペンハーゲン 1) ブレマーホルム(Bremerholm) 2) スロットスホルメン(Slotsholmen) 3) カステレット(Kastellet) 4) トルドボデン(Toldboden) 5) クリスチャンスハウン

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△ 1620年のクリスチャンスハウンのプラン

さらにクリスチャン4世王は現在のデンマーク王立図書館のある地に海軍港を設立し、この周囲に貯蔵庫や兵器庫を作り、海の兵器の集積と呼ばれる総合海軍要塞を作り上げました。
この時、ランドマークとして海軍港の入り口の浅瀬に彫像の乗った塔が建てられました。この彫像は一説にはギリシャ神話の「レーダと白鳥」をモチーフにしたものといわれていますが、その真偽は現在もわかっていません。この像は現在の王立図書館新館(通称ブラックダイアモンド)のあたりに位置していましたが、1807年のイギリス軍による砲撃以来、地図上からその姿を消しています。
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△ 1750年頃のコペンハーゲン。アマー方面から市街地を望む

こうした建築王・クリスチャン4世王による都市計画により17世紀の終わりにはコペンハーゲンの街は巨大要塞と化していましたが、一方で多額な建設費用と度重なる戦争により国の財政はかなり圧迫されていました。
posted by Coyama at 13:16| コペンハーゲンの都市史

2012年05月01日

1500年代 − 王都・コペンハーゲンの誕生

1513年にハンス王が亡くなり、彼の息子であるクリスチャン2世王がデンマークとノルウェーの王位を引き継ぎます。そして1520年にクリスチャン2世王は再びスウェーデンの王位を奪い取るのですが、この時クリスチャン2世王はスウェーデンの支配を強化すべく、ストックホルムにおいて権力をもつスウェーデンの貴族を大量惨殺する「ストックホルムの血浴」事件を起こします。

この事件がきっかけとなり、翌1521年にスウェーデンは反乱を起こしクリスチャン2世王は王位を剥奪され、スウェーデンはカルマル同盟を破棄してデンマークと敵対関係になります。
その後もクリスチャン2世王の悪政は続いたため、1523年にハンス王の弟で当時スレスヴィグ=ホルステン公国の君主であったフレデリック王子が、甥であるクリスチャン2世王から権力を奪って彼を追放し、フレデリック1世王としてデンマーク=ノルウェー王国の王位に就きます。

1530年、ドイツでの影響によりデンマークでもカトリック教会とプロテスタントとの間の対立が深まっていきます。1533年にフレデリック1世王が死去しますが、この時デンマーク参事会は後継の王の選出に難儀し決められずにいました。
そこでフレデリック1世王の息子でありスレスヴィグ=ホルステン公国の貴族であった“オルデンブルグのクリストファー伯爵”がリューベック軍の力を借りてコペンハーゲンを攻めて王位を奪還し、1534年にクリスチャン3世王としてデンマーク=ノルウェー王国の王として即位しました。

この時、クリスチャン3世王の就任と同時にプロテスタント信仰がデンマークに持ち込まれます。そして1536年の宗教改革により、国は教会から財産と教区の管理の権限を取り上げました。
これにより王族の拠点となっていた東海峡沿いの小さなコペンハーゲンの町は、事実上当時のデンマーク=ノルウェー王国(現在のデンマーク王国とスコーネ地域(スウェーデン南部)とノルウェー王国とその属領(フェロー諸島、アイスランド、グリーンランド))の首都(王都)となりました。
ちなみに当時のコペンハーゲンはスウェーデン南部のScania、Halland、Blekingeの地を所有しており、デンマークの中央部に位置していました。

この当時のコペンハーゲンの規模は、教会を中心に築かれていたマルメやネステヴェド、オーデンセ、ヴィボーよりも小さかったため、アブサロンの時代より築かれたコペンハーゲン城を中心とした街の骨格は、王政中心の新しい都市を築くには適していたのかもしれません。

そして1559年にクリスチャン3世王が亡くなり彼の息子であるフレデリック2世王が王位を継ぐと、フレデリック2世王はルネッサンス文化を街の中に持ち込みました。
さらに1574年からはクロンボー城の再建にとりかかり、1585年に現在の形が完成しました。
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△ 現在のクロンボー城

1581年からはクリストファ・ヴァルケンドルフ(Christoffer Valkendorf)市長の指揮の下、コペンハーゲンにおける大規模建物の計画が始まります。

1588年にクリストファ2世王が亡くなると、当時11歳であった息子のクリスチャン4世が王位に就きます。
そしてここから、コペンハーゲンの急成長が始まるのです。
posted by Coyama at 21:12| コペンハーゲンの都市史