2012年05月23日

1700年代 − 王立芸術アカデミーの設立 ー

1754年、デンマーク王立芸術アカデミーがクリスチャン宮殿に設立され、フレデリクス地域計画などを手がけたニコライ・エイトヴェドが初代校長に就任します。
しかしニコライ・エイトヴェドは就任まもなくして亡くなってしまい、新たにフランスから連れてこられたニコラス-ヘンリー・ジャーディン(Nicolas-Henri Jardin)が校長となりました。ニコラス-ヘンリー・ジャーディンの就任により、デンマークには当時のヨーロッパ諸国での建築の主流となっていた古典主義に遅れることなく、建築にそれらの要素を取り込むことが出来ました。
アカデミーでのニコラスの教育はBernstorff宮殿やSølvgade barracksなどによって広まり、フレデリクス教会のような数々の建物に投影されていきました。
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△ Sølvgade barracks(1765-71)現在はDSB(デンマークの鉄道会社)の本社として利用されている

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△ ニコラス-ヘンリー・ジャーディンによるフレデリクス教会の図面

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△ 現在のフレデリクス教会

アカデミーでのニコラス-ヘンリー・ジャーディンの役割は、新しい古典主義の様式をデンマークに伝えるという意味で非常に重要でした。この新鮮で鮮麗さを与える古典主義様式は一般の設計者や施主らによって多く取り入れられるようになり、街の隅々に古典主義の基礎を根付かせました。
このニコラス-ヘンリー・ジャーディンの作ったコペンハーゲンの潮流は19世紀の終わりまで長く続くことになります。
posted by Coyama at 21:47| コペンハーゲンの都市史

2012年05月21日

1700年代 − 農民解放 ー

18世紀の終わり頃、デンマークの大半を占めていた農民たちは自由を求めるようになり、1788年に王は拘束法を禁止する新しい法律を作ります。いわゆる農民解放です。
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△ 1794年の農民解放のパレードの様子。白馬にまたがっているのはクリスチャン7世王。その後ろに見えるのが農民解放を記念したオベリスク。現在もコペンハーゲン中央駅の北側で見ることができる。

この新しい法律により、それまでは生まれた土地に縛られていた農民たちが、移住を自由に行うことが出来るようになりました。そして彼らはそれまでの土地から離れ、郊外に開拓した自分達の土地に住むようになります。
数年後、ほとんどの農民たちがデンマークのあちこちに自身の土地を開墾し、自分達の土地を所有していました。
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△ 18世紀頃の農家の住宅

そして多くの農民たちが学校へ行くようになり、読み書きを学びました。現在のデンマークの主食となっているじゃがいもの育て方を学んだのもこのころでした。
自由を与えられた農民たちはより稼ぐようになり、彼らの生活は向上しました。これによりデンマークの国自体も向上していきました。

さらにこの時期にはデンマークは世界各国に植民地を持っており、これらの貿易によりコペンハーゲンの組合は大金を稼いでいきます。
そしてそれらの利益により、首都のコペンハーゲンには多くの巨大建築物が建てられていったのです。
posted by Coyama at 22:55| コペンハーゲンの都市史

2012年05月19日

1700年代 − 火災後の都市の変化

大火災の後、街は再建されて数々の建築が作られていきます。1749年には建築家ニコライ・エイトヴェド(Nikolai Eigtved)の指揮によりフレデリクス地域(Frederiksstaden)が完成ました。
ニコライの特徴であるエレガントなロココ様式の美しい都市計画と建物はコペンハーゲンの新しい特徴となり、現在の王族の住まいであるアメリエン宮殿やアマリエ通りなどにその姿を残しています。
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△ 現在はデンマーク王室の住居であるアメリエン宮殿

また火災後、都市の区画のいくつかが整備されました。

特に現在市庁舎広場から旧広場へ抜けるストロイエと呼ばれるメインストリートやノアポート駅からランドタワーに向かう手前にあるKul広場はこの時に整備されたものです。
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△ 1728年の第一次コペンハーゲン大火災後の都市の変化。濃い茶色が1728年前、橙色が1728年以降。旧広場の西側地域やKul広場はこの時期に整備された。

また18世紀中頃には東欧との海外貿易を行うためにコペンハーゲンの港は大規模な拡張を行い、バルト海への貿易の入り口となっていきました。
さらにこの頃、コペンハーゲンの要壁の外の北の土地には広大な森があり、狩りの土地として王族や貴族たちに利用されていました。
そして貴族たちはこの自然の中に数々の美しいサマーハウス(別荘)を建設していきました。
posted by Coyama at 22:54| コペンハーゲンの都市史

2012年05月17日

1700年代 − 第1次コペンハーゲン大火災 ー

1700年にフレデリック4世王により都市の西のバルビュ(Valby)丘陵にサマーハウス(別荘)が建設されました。
その後10年の間にこのサマーハウスは変貌を遂げ、そこは美しいフレデリクス庭園に囲まれたフレデリクス宮殿となりました。
ここは現在は一般に開放され、公園として家族連れや観光客で賑わっています。
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△ 1750年頃のコペンハーゲン。街の西郊外にあるのがフレデリクス宮殿

コペンハーゲンの街は1703年にフレデリクス地域にオペラハウスが完成した頃から芸術文化都市として花開いて行きます。

しかし1728年に第一次コペンハーゲン大火災が起こります。
これによりそれまで築き上げられてきたコペンハーゲンの都市と一般の人々の暮らしは、たった数時間で破壊されました。
この大火はそれまで主流であった街の多くの半木造の建物を飲み込みました。
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△ 1728年の火災消失エリア

この大火災は都市に教訓を残し、それ以降の建物は火事を防止するよう規制がされるようになり、大火災の後に建てられた新しい建物はコペンハーゲンの体系を変えました。
建物のファサードは半木造から漆喰とレンガに変えられました。
この当時に建てられた切り妻屋根を持つ高く家のいくつかは現存しています。
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△ 現存する1728年以降に建てられた住宅(左から4番目と5番目)
posted by Coyama at 23:45| コペンハーゲンの都市史

2012年05月16日

1600年代 − デンマークとスウェーデンの戦い/絶対王政 −

ロスキレ条約の後、再起を試みたフレデリック3世王はネーデルランド(オランダ)と再び同盟を組みます。しかしこの動きを察知したスウェーデンのカール10世王は1958年の暮れにロスキレ条約を破棄して再びデンマークへ侵攻します。そして1659年7月17日、スウェーデン軍がコスーア(Korsor)に上陸し、軍を西へ進めコペンハーゲンを包囲します。

しかしこの時、フレデリック3世王は降伏せずに同盟を結んだオランダやブランデンブルグ、ハブスブルグからの援軍を信じて待ち、コペンハーゲンを死守することを選択します。そして堅い意思を誓ったフレデリック3世王の下でデンマーク軍とコペンハーゲン市民は一丸となりコペンハーゲンの街を死守するのです。
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△ 1659年のコペンハーゲンの攻防の様子

やがてオランダの援軍が到着し、スウェーデン軍は撤退を余儀なくされます。
こうしてデンマークはスウェーデン軍の侵略からコペンハーゲンを守り切りました。

そして1660年2月13日、カール10世の死去により、後に北方戦争と呼ばれるバルト海一帯を巻き込んだこの一連の戦争は終結を迎えます。1660年4月にはコペンハーゲン条約が結ばれ、デンマークはロスキレ条約で奪われたトロンハイムとボーンホルム島を返却されます。
しかしこの時、スコーネ地域は取り戻すことが出来ませんでした。これによりデンマークの首都であるコペンハーゲンは国の最東の街となりました。
そしてこれ以降、この東のスウェーデンとの国境の位置は現在まで変わることがありません。

コペンハーゲン条約が結ばれた1660年、先の戦いでデンマーク軍とコペンハーゲン市民を指揮してコペンハーゲンを死守したフレデリック3世王の支持率は圧倒的に高まりました。そしてこれを機にフレデリック3世王は貴族、教会、市民からそれぞれの代表を集めた大規模な集会を開き、今後のデンマークの政治の方針についての議論がされました。ちなみにこの時は農民の参加は許されませんでした。

当然のことながらデンマークの貴族たちは自分達へのより強い権力を求め、税の免除を考えました。しかし会議の召集の段階で結論は当初から決まっていました。それは当時フランスより持ち込まれた絶対君主制度の導入でした。
絶対君主制度とは国の王が政治、教会、軍隊、裁判所のすべてを統括する制度で、別名、独裁政権とも呼ばれています。 度重なるスウェーデンとの戦争や、スウェーデンとポーランドの王位継承問題などが誘因となり、貴族から次王の決定権が奪われ、そして王の世襲はつねに前王の一番上の息子がなることに定められました。
多くの国民は支持率の高いフレデリック3世王1人がすべての決定権を持てば国が平和になるだろうと考え、この制度には賛成でした。
そしてここに、1865年まで続くデンマーク王室の絶対王政が誕生するのです。
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△ 1660年の絶対王政宣言式の様子。右に見えるのがコペンハーゲン城

またデンマーク連合国のなかでも重要な位置を占めていたスレスヴィグ公国とホルステン公国の大きな事務局がコペンハーゲンに設置されました。この2つの公国からデンマーク政府に出向してくる貴族も多く、上層部の職員のほとんどはホルステン公国から出向してきている貴族でした。そのため当時のコペンハーゲンの重要な機関ではデンマーク語とホルステン公国が使用するドイツ語の両方が使われ、王室でもドイツ語が使用されていました。

1683年にはコンゲンスニュー広場にシャルロッテン宮殿が建設され、1696年にはクリスチャンハウンにデンマークで最初のバロック様式のVor Frelsers教会が建設されます。ちなみにこの時の教会にはまだ現在のような塔はありませんでした。現在の塔が付け加えられるのは半世紀後の1752年のことです。
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△ 1696年設立のVor Frelsers教会。塔の上部は1752年に増設されたものです。
posted by Coyama at 21:37| コペンハーゲンの都市史