2012年06月10日

1800年代 − 要塞都市からの解放と発展 ー

スレスヴィグ、ホルステンとの国境問題は結局解決せず、デンマークとの間に再び戦いが始まりました。戦いはその後3年間続き、結果デンマークが勝利しました。
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△ 1850年の兵士の帰還。旧広場の様子

そして1852年に、ついにコペンハーゲンを覆っていた城壁は街の拡大のために開かれました。
これにより都市は拡大していくのですが、1853年の夏にはコレラの大発生が起こりコペンハーゲンでは約5,000人の住民が亡くなりました。
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△ 1853年、コペンハーゲン郊外のコレラ患者隔離所

この頃、デンマーク王立芸術アカデミーの校長を勤めたM.G.ビンデスボウル教授は独創的な建築家でした。
彼の最初の単独設計であるトーバルセン美術館の古典様式はC.F.ハンセンのものとは異なりカラフルかつ官能的で、それは古典主義の終わりへのアプローチとなりました。

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△ トーバルセン博物館

1856年に完全に防壁はその機能を失います。
そしてコペンハーゲンは防備を固める要塞としての役割から解放されました。

ここから、コペンハーゲンの街は新たに郊外へ向けて急激な発展をしていくのです。
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△ 1800年のコペンハーゲン。完成された要塞都市

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△ 1857年の西門の様子。街を囲っていた防壁を取り除いている様子が分かる。

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△ 19世紀の要塞都市コペンハーゲンの鳥瞰図

コペンハーゲンの都市史 −ひとまず完ー
posted by Coyama at 20:17| コペンハーゲンの都市史

2012年06月08日

1800年代 − 無血革命 ー

1848年にはついにスレスヴィグ=ホルステン公国の国民の不満が爆発し、デンマークとの戦争になりました。最初はデンマーク軍が勝利していましたが、不利になったスレスヴィグ=ホルステンはドイツと同盟を組み、ドイツ・スレスヴィグ=ホルステン連合軍はユラン半島を制圧しました。
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△ 1848年のスレスヴィグ=ホルステンとの戦い

この戦いにおいてはイギリスが仲介に入りひとまず解決はするのですが、この紛争を解決する能力を絶対王政が持っていないことにデンマーク国民の怒りは頂点に達しました。
そして1848年3月21日、コペンハーゲンの市議会議員と1万5千人の市民が大挙して王宮におしかけ、1月に即位したばかりのフレデリック7世王に政治の開放と自由憲法の制定を要求しました。
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△1848年3月21日のクリスチャンス宮殿までの市民デモ。右の建物の最上階は哲学者グルントヴィの住居であり、窓から彼が覗いている。

これによりフレデリック7世王は絶対王制を廃止することを承諾し、民主主義政治を導入することを決めました。
こうして無血革命のもとに1849年6月5日にデンマークに自由憲法が施行され、デンマークは絶対王政から立憲君主制の民主主義国家へ生まれ変わりました。
これによりフレデリック7世王は国に対する権力を失いましたが、それでも彼はデンマークの王であることに変わりはありませんでした。
posted by Coyama at 23:54| コペンハーゲンの都市史

2012年06月04日

1800年代 − 黄金時代 ー

デンマークでは1815年以降の時代を、国が裕福になった『黄金時代』と呼んでいます。この黄金時代に、デンマークは数多くの素晴らしい人物を排出しました。
世界的に有名な作家、H.C.アナセン(Andersen)もこの時代の人物です。ちなみに日本では「アンデルセン」の名で知られる彼ですが、デンマーク語の発音は「アナセン」となり、デンマークではイニシャルを含めて「ホー・シー・アナセン」と呼ばれ今でも親しまれています。
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△ コンゲンス公園にあるH.C.アナセン(アンデルセン)の銅像

また詩人であり聖職者であり教育者であり哲学者でもあるN.F.S.グルンドヴィ(Grundtvig)は多くの賛美歌をつくり、今でもデンマークの教会で毎週日曜日に歌われています。そして彼の教育や福祉の理念は現在でもデンマークの思想の基礎となり、デンマークの精神として根付いています。
他にも哲学者のソーレン・キアケゴードや音楽家のカール・ニールセンもこの時代の人物です。

この頃のコペンハーゲンの人口は約30万人となり、すでに防壁に囲まれた都市の人口密度は限界に達し、多くのスラムが生まれていました。また1830年代にはヨーロッパの多くの国々で市民革命が起こります。多くの国々が民主政治になり、王と領主たちの独裁政治は排除されていきました。
デンマークには市民革命こそありませんでしたが、当時のクリスチャン8世王は市民と農民を議会に参加させることを決めました。
これは彼らが政治に参加をし、王に直訴が出来る場でもありました。そしてこのような議会はスレスヴィグやホルステンでも開かれました。

当時、スレスヴィグとホルステンの両国はデンマーク王によって統治されていました。しかしホルステンの人々はこれに不満があり、自分達で自分達の国のことを決めたいと思っていました。
一方でコペンハーゲンの住民にも不満が多く、多くの集会がコペンハーゲンで開かれていました。

また1830年代には西欧諸国で産業革命が進行し、デンマークの貿易も利益を上げていきます。さらに1846年にイギリスへの高額な関税が廃止されて自由貿易が行われるようになると、農作物の輸出によりデンマークの農民の生活も向上していきました。

1843年にはコペンハーゲン市民への娯楽施設としてチボリ遊園地(TIVOLI)が防壁の外側に建設されました。
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△ 開園当初のチボリ遊園地のアトラクション

この遊園地はその後防壁が取り払われて都市が拡大する中でも住民たちの反対により取り除く事ができず、現在でも世界最古の遊園地としてコペンハーゲンの都市の中心に残り、デンマーク国民の憩いの場として利用されています。

また街にあったJ.C.ヤコブセンのビール醸造所は、1846年にValby地域へと移転しました。それが現在のカールスバービール工場です。この優秀で美しい建築様式をあちこちにちりばめた建物は産業時代の企業経営の象徴となりました。

そして1847年にはデンマーク最初の鉄道がコペンハーゲン-ロスキレ間に開通しました。 
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△ 最初のコペンハーゲン駅

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△ 最初の路線(ロスキレ−コペンハーゲン)
posted by Coyama at 21:31| コペンハーゲンの都市史

2012年05月27日

1800年代 − C.F.ハンセンの都市再建 ー

第二次コペンハーゲン大火災以降の街の再建はC.F.ハンセン(1756-1845)によって指揮され、古典主義様式が建築の主流となりました。
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△ C.F.ハンセン

C.F.ハンセンはコペンハーゲンの他にもホルステン公国の建設大臣として多くの建物を設計し、またデンマーク各地の多くの教会の設計も手がけました。

しかしナポレオン戦争の被害は都市の再建に大きな影響を与えました。財政難により建設事業には厳しい予算が設けられ、再建には廃材を再利用する必要がありました。
古典様式の二代目クリスチャンス宮殿(1884年に消失)は、以前のバロック様式の宮殿の残骸をそのまま使用して建てられました。

昔の教会群があった地域にはVor Frue 教会(1811-29)が建てられ、火災で破壊され市庁舎があったニュー広場にはシティホールと裁判所(1805-15)が建てられました。
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△ シティーホールと裁判所

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△ 裁判所

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△ Vor Frue教会

C.F.ハンセンの建築物は各災害の記念碑的なイメージで建てられ、その古典主義建築はデンマークを国際的な都市に引き上げました。
また彼は長生きをし、1845年に彼が亡くなるまで次世代の育成に大きな影響を与えました。
posted by Coyama at 20:49| コペンハーゲンの都市史

2012年05月25日

1800年代 − イギリスとの戦い ー

第一次コペンハーゲン大火災からの復興が続く中、1795年から1801年の間にデンマークの商人たちはヨーロッパで起きたナポレオン戦争を利用し、ヨーロッパ諸国との貿易などで多くのお金を稼ぎました。 デンマークはこの当時、フランス側とイギリス側のどちらに加勢することもなく中立の立場にいました。
しかし1801年、大英帝国海軍が巨大戦艦を引き連れてコペンハーゲンを襲撃します。
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△ 1801年のコペンハーゲン沖の戦いの様子

当時のヨーロッパでは最大規模と言われるこの海上戦でデンマーク艦隊は破れ、デンマークはナポレオン率いるフランス軍には加勢せずイギリス側を支援する制約を交わしました。
しかし1807年、大英帝国は大艦隊を率いて再びコペンハーゲンを攻めます。この時クリスチャン7世王とデンマーク軍隊はユラン半島に滞在しており、イギリス軍はその隙をついたため、コペンハーゲンでは戦闘の準備が出来ていませんでした。
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△ 1807年のコペンハーゲン襲撃の様子

この時代のコペンハーゲンはすでに街全体が巨大な要塞と化していました。街の周囲は屈強な城壁で囲まれ、攻め落とすのは容易ではありませんでした。イギリス軍は大砲やロケット弾を駆使して一気に街を爆撃し、多くの家が破壊され、多くの住民が殺されました。
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△ 1807年のコペンハーゲン襲撃の被害

結果デンマークは降参し、イギリス軍はデンマークにある戦艦のすべてをイギリスに持ち帰りました。この後、デンマークが巨大海軍を持つことは二度とありませんでした。

1807年からナポレオン戦争にフランス側として参戦していたデンマークは、1813年にはスウェーデン軍によりユラン半島を侵攻されます。
敗戦したデンマークはノルウェーの全領地をスウェーデンに割譲することとなります。
さらにバルト海航行のための通航税も廃止させられました。

この時ノルウェー領であったアイスランドやグリーンランド、フェロー諸島は、デンマークの領有として残されました。

この敗戦条約締結の知らせを受けたノルウェー副王クリスチャン・フレデリック(後のデンマーク王クリスチャン8世)は反乱を起こします。
そしてノルウェーは1814年5月17に独立を宣言し、クリスチャン・フレデリックが国王に選出されました。しかしスウェーデンはノルウェーの独立を認めず、王太子カール・ヨハンが軍を率いてノルウェー軍を屈服させました。クリスチャン・フレデリックは王位を捨てて出国し、8月には条約が締結されて、ノルウェー王にはスウェーデンのカール13世が即位しました。これ以降1905年までノルウェーはスウェーデンと同君連合となりました。

ナポレオン戦争での敗退により、それまでデンマーク大国が治めていた土地は激減し、デンマーク大国はデンマーク、スレスヴィグ、ホルステン、アイスランド、グリーンランド、そしてフェロー諸島だけの小さな国になりました。
さらに穀物の主要輸出国であったイギリスは自国保護のための関税を引き上げたため、デンマークの農村は衰退して商業も不振となり、デンマークの紙幣はその価値を失い、国のすべての銀行が破産しました。
posted by Coyama at 22:45| コペンハーゲンの都市史