2012年06月06日

人を見たら「水戸のご老公」と思え

人間は長年生きてくると、自身の経験から導く考えが「正しい」と思い込むようになってしまいます。
それは先入観や謝った認識に繋がることもあるのですが、悲しいかな本人はそれには気づくことがないのです。
そのようなことが、年を取れば取るほど起きてくるのが人間です。

確かに、経験や自信は大切なことです。
しかし時にそれが失敗に繋がることもよくあります。

「自分が思っていることは正しい。それは今までの経験から導きだした結論だから。自分はそれを経験しているからわかっている。」と思う人は今も昔もとても多いです。
そしてその考えも、その目論みも、正しいことではあります。

しかしそれは「100%」正しいわけではありません。

たぶん「自分の考えは80%正しい」と思うくらいが、本来はちょうど良いのだと僕は思います。

「100%正しい」と思い込んでしまっている人間ほど、たちの悪いものはありません。

例えば、先日も書いた「種を蒔けば実を収穫出来る」という過程にも、100%はないのです。
「連作障害」という言葉があります。トマトやナスなど、その年栽培した土地で翌年も同じ野菜を栽培すると作物が病気にかかりやすくなることを言います。
これらは野菜によって異なるわけですが、全ての野菜がそうなるわけではありません。
しかしそのことに最初に気がついた人はすごいと思います。専門家ではなくても農家でも経験としてそのようなことを知っていたと思うのですが、そこがすごいな、と。

何がすごいのかというと、そのことを知るには、かなりの年月を要するということだということです。

人間の考えからいけば、「畑にトマトを植えました。」「おいしい実がなりました。」「評判でした。」「よし、翌年もトマトを作るぞ!」となる。
そして作ってみたら、「ん?去年とどうも様子が違うぞ?」「なんでだろう?」

「たまたまこの年は不作だったんだな。天候も不順だったし。」「翌年は経験を活かして最初の年のようなトマトを作るぞ!」

翌年、「あれ?うまくできない・・・」「なんでだろう・・・?」

こんなことを繰り返したのでしょう。そしてなんだかわからないけどトマトやナスは毎年同じ場所で作らない方がいいということを知るのに、気の長い年月をかけたのだと思います。もしかしたら1代ではなく何代も語り継がれてようやく知られたこともあると思われ、そこがすごいと僕は思うのです。

そんな中で、文明が進みやがて科学的に証明されたのが「連作障害」というもの。
これは「種を植えれば実がなる」という考えを覆すことになったわけです。

さらにこの経験から、「野菜は毎年同じものを植えない方がいい」という考えになると、中にはそうでもない野菜もあるわけで、『「野菜は毎年同じものを植えない方がいい」という考え』も100%正しい意見ではないのです。

世の中は、実際にはそのようなことで溢れています。

そしてそこに生きる多くの人たちが、自分たちの多くの経験から、100%自信と確信を持って真実を言い当てることが出来るようになるとき、大抵の人は残念ながら寿命が来て死んでしまいます。

ちなみに人は生まれてきて必ず死ぬというのも、100%正しい考えではないと、僕は思います。
もしかするとこの世には死なない人間がいるかもしれないからです。それが間違いだとは100%言いきれません。
常識的に「人は100%死ぬのだ」と言う人もいるでしょうが、実はこの世のどこかには縄文時代や大航海時代から生き存えている人もいるかもしれない。本人がそのことを黙っていれば誰にもわからないのです。

世の中には真理は常に2つあります。逆もまた真なり、です。

だから「自分の考えは100%正しい」と思い込むのはよくないと、僕は思います。
50%とはいかなくとも、「自分の考えは80%は正しい。ただし20%の例外もある。」と常に思っていた方がいい。

その20%はどういう働きをするかと言ったら、「謙虚」に繋がります。

『100%正しい思想』の人間は「なんだこの老いぼれじじい」と邪険にする。
『80%正しい思想』の人間は「しょうがないじいさんだな。おい、大丈夫かい?」と気にかける。
20時45分、葵の御紋と共にじいさんの正体が明らかになったとき、『100%正しい思想』の人間は激しく後悔するのだが、後の祭り。
『80%正しい思想』の人間は「えぇぇぇ!あぁ、粗相をしなくてよかった。」とホッとするのです。

何が言いたいのかというと、人間という生き物は年を取れば取る程、先入観や経験から来る自信で他人に対し決め付けでものを話すようになるということです。

『老いぼれじじい』はただの『ちりめん問屋の隠居』かもしれない。しかしごくまれに『水戸のご老公』ということもある。
人生でたくさんのじじいに出会うなかで、『水戸のご老公』に会う確率はほとんどないかも知れないが、知らいうちに『水戸のご老公』と会っていても粗相のないように、『じじいは100%ちりめん問屋の隠居だ!』ではなく『じじいは80%ちりめん問屋の隠居だと思うが20%はもしかすると水戸のご老公なんてこともあるかも』と親切に接しておくよう心がけておくとよいのです。
なんなら『じじいはみな「水戸のご老公」かもしれないから、出会うじじいには親切にしよう。』『じじいを見たら「水戸のご老公」と思え』、いや、年とってからあのようなことをしているくらいだから実は若い頃から似たようなことをしていたかもしれないわけで、『人を見たら「水戸のご老公」と思え』なんて思うのが一番いいかもしれません。

それを簡単に言い表すと『自信を持つことは大事だが、常に謙虚たれ』ということで、僕自身は常にそう思う人間でありたいと思っているのです。
もちろんこの僕の考えも、80%程度の信憑性しかないかもしれず、20%は全然違うのかもしれませんが。
posted by Coyama at 18:08| 思ったこと・感じたこと

2012年06月01日

種を蒔く

昨日のブログに書いた記事。
http://faelles-design.sblo.jp/archives/20120531-1.html
考えてみると「種をまいて、育てて、収穫する」というのは何も植物の栽培に関してだけではなくて、人間の人生そのものにも言えることだな、とふと思いました。

植物に限らず、何事もまずは種を蒔かなければ実は成らない。

種があっても、アスファルトやコンクリートの上では芽は出さない。

土があって、そこに種を蒔いても、水をあげなければ芽は出ない。

芽が出ても、手をかけ育てなければ大きくならないし、根も張らない。葉も茂らない。

実がなっても、収穫されなければ誰の喜びにもならずに枯れてしまう。

単純なサイクルのようで、でもその過程には様々な障害があって、そう簡単にはいかないことも多い。

発芽率が悪かったりすると、いくら水をあげても芽は出ない。
種の段階で、撒いてすぐに鳥の餌になってしまうこともある。
芽が出ても、人に踏まれて潰れることもある。水が多すぎて根が腐ることもある。
肥料が足りなくて十分に大きくなれないこともある。
虫に葉を喰われて枯れてしまうこともある。
強風に煽られ途中で折れてしまうこともある。
うまく受粉しなくて、実をつけないこともある。

人間と同じ。
だから育ったものは、尊いのだと思います。

人生はそう簡単になんでもうまくいくわけではありません。

それに植物も人間も、自分一人では育つことや実をつけることは出来ないのです。

芽が出ても、それは自分が芽を出したのではなくて、土と水と太陽のお陰なんです。
なんでも種を撒けば芽が出るわけじゃないのです。冬の間は、芽が出ないでしょ?
でも春になると、芽が出るんです。それは空気や土を暖めてくれる太陽や気候のお陰。

しっかり根を張って伸びていけるのも、土と水と太陽のお陰。
花が咲いて受粉して実をつけられるのは、風と虫のお陰。

育つ過程は千差万別。思うように育つこともあれば、思うようにならないこともある。

ただし、唯一『絶対』の決まり事があります。
それは「種を蒔かなければ芽は出ない」ということです。
種も蒔いていない土地に、どんなに水をあげたって植物は芽を出さない。

その植物の成長過程が人間の何に似てるのかと言ったら、たぶん「夢」なんだと思います。

芽を出すのも、育つのも、実るのも。
そして収穫される「夢」もあれば、世に知られることなくひっそりと枯れている「夢」もある。
でもそんな枯れた「夢」でも、種をこぼして、新たな人の新たな「夢」の芽を出すこともある。

植物も、人間も、人生を生きていくために大事なことは、「夢」でもいい、「目標」でもいい、「希望」でも「願望」でもなんでもいい。
まずは種を蒔くことだと、僕は思うんです。
posted by Coyama at 23:23| 思ったこと・感じたこと

2012年05月31日

食べられない時の食いつなぎ

ブログを書いている時間がない時や気が乗らない時は、基本的にコペンハーゲンの都市史や他の書き溜めてある記事になります。先週10日近くそれらが続いたのは、ずっと長野県に行っていたからです。

長野では仕事の準備などをいろいろと行っていたのですが、そのうちの3日間は友人の米農家の田植えの手伝いをしていました。
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もともとこれからどうやって食べていくかを検討しなければいけない中、ある人から「例えばお米は知り合いの米農家の田植えでも手伝って現物支給でもらってくるとか。」と言われたので、本当に実行してみました。

1日手伝ってお米10kg。3日で30kg。
一人暮らしではこれで半年分のお米になります。

朝8時半から始めて18時まで。労働を価格に置き換えるとなんだか割に合わない気もしますが、そもそも自分が食べるお米の栽培に関われるというのは贅沢なことです。
ちなみに人間一人が一年で食べるだいたいのお米の量が60〜70kgで、つまりは米1俵60kgというのは、お米1年分なのだとか。
その60kgのお米を自分で作れるかと言ったら、それも出来ません。
田植え3日、稲刈り3日、計6日手伝うと、1年分のお米になって、少なくともお米があればなんとか生きていけます。
365日のうちの6日間で1年分のお米が手に入るというのは、割がいいのか悪いのか。良い方なのではないでしょうか。

そもそも「食えないのであれば、なんとかして食べていくことを考えろ!米は農家の手伝いをしてもらって来い!」と言われ、それを本当に実行出来る人が世の中にどのくらいいるか。
まさかそれを言った人も本当に僕がそれをするとは思わなかったと思います。

それに将来、もし僕の人生がうまく進んで事業が成功するようなことがあれば、いいエピソードになるじゃないですか。
『最初の頃は食えなくて、お米は知り合いの農家の田植えを手伝って、現物支給で食いつないでいました。』なんて。

農業だなんだというのは僕が目指している建築とはまったく異なるものだと思う人も多いと思いますが、基本的に僕の興味は世の中にあるもの全てを覗いてみたい・体験してみたいということですので、田植えの手伝いも僕にとってはやりたいことの一つです。

現場に入って自身で体を動かすということは、書物を読んだり机上で考える以上に大きなことが見えてきます。

頭の中で計画を立てることは簡単なことです。

種をまいて、育てて、収穫する。

この3つの行程は言葉にすると簡単ですが、実際にはいろいろと深いものが関わってきます。
それは体験しなければわからないことです。

僕は子どもの頃、親から「茶碗はご飯粒を残さず食べなさい。農家の人に申し訳ないこと。1粒でもご飯粒を粗末にすると、目が潰れるよ。」と躾られました。
だから茶碗のご飯粒は残さず食べますが、でもそれは頭の中だけのことで、実際に農家の人がどのような苦労をしてそのお米を作っているのかなんて、農業に携わらなければわからないことです。
そして今の時代、都会に暮らす多くの人は、そのことを知ったり体験したりする機会はあまりありません。

きっと大根は種をまいて土から生まれてくるのではなく、最初から自然とスーパーに置かれているものだと思う子どもたちも中にはいると思います。

お米が育つ田んぼには様々な生き物がいるということも、知っている人は都会では少ないのかもしれません。

僕も生まれ育った家の近くに田んぼはあったのですが、ザリガニぐらいしか頭の中の記憶にありません。

今回手伝いをした時には、シマヘビをよく見かけました。
特に手伝いをした日は天気もよく気温も高かったので、蛇たちも活発に動き出したようで、周囲の人も「今年はよく見るなぁ」と言っていました。
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そしてそんなヘビですが、神様の使いと言われていて、ヘビをみかけるのは吉兆なのだそうです。

でもそんな神様の使いも、田んぼの脇の畦の草刈りの際に、よく気がつかずに刈り払い機で切ってしまうのだとか・・・

なんだかとりとめのない話ではありますが、要はそういう経験は都会に住んでいるとなかなか知ることが出来ないことですし、人が生きている中で一生そのようなことに関わらずに死んでいく人は多いわけで、僕はとても貴重な経験をさせていただける環境を持っていることを、ありがたく感じているのです。
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ちなみに僕が手伝ったり普段から食べているお米は、こちらから購入ができます。
http://www.goto-chi.com/seisansya/yoda.htm

いい値段がする、いわゆるブランド米なわけですが、そう考えるとやはり贅沢ですよね。
だから今日もご飯をいただく時には、作ってくれた農家の人に感謝の気持ちを込めて、手を合わせていただきたいと思います。
おいしいお米を、ありがとうございます。
posted by Coyama at 21:50| 思ったこと・感じたこと

2012年05月29日

ストレス耐性

以前ある人が「海外で暮らした経験のある人間の強みはストレスに強い事だ。」と言っていたのですが、僕もその通りだと感じる事がよくあります。

ただ海外で暮らした経験と言っても、短期間ではなく少なくとも1年以上四季を体験して暮らし、かつ僕が以前書いた4タイプの中の“Bタイプ以外の人たち”が当てはまることだと思います。
http://faelles-design.sblo.jp/archives/20120403-1.html

つまり自分の力で異国の地で生きた人。

見知らぬ土地では当然ながら自分から動かなければ誰も助けてはくれません。生まれ育った土地や国で、生まれたときから当たり前のようにある社会の恩恵システムや保障も、異国の地では黙っていては受けられないことが多くあります。
だから生きていくために、自分の人生を前に進めるために、嫌でも自ら動かなければなりません。

そしてそれが言葉が通じようが通じまいが、文化が似ていようが違っていようが、人と人とが関わりを持つという事は、そこには必ず何らかの問題や労力が生じる事になり、それがストレスとなることが多々あります。
その時にそのストレスに負けているようでは、とてもその先にその土地や国では生きていけません。

その人が旅人であれば違う土地へ行けばいい。
しかしその場から移動することのできない何らかの理由のある人は、自らの意思と力で解決しなければ、前に進む事が出来ないのです。
だから異国の地で生き抜いた経験のある人たちは、多少の心労ではへこたれない、善かれ悪しかれストレスに上手に付き合う術を知るようになるのだと、僕は思います。

善かれ悪しかれと書いたのは、それが時にポジティブ思考であることもあれば、ネガティブ思考になる場合もあるからです。
後者の場合は極力人との付き合いを避けるようになってしまったりといったことがあり、そのような人たちに僕は過去に多く出会いました。
人と接するという事は常にトラブルを伴うわけですから、余計なことを抱えたくないと思う人も多く、わからないことではありません。

あまりグダグダ書いても読みづらくなるので簡潔にまとめていきますが、逃げ場のないところで逃げずに生きた人はその後ストレスに強くなる。退路のない地で苦境や逆境を乗り越えた経験のある人は、その後の人生で多少のことでは諦める事なく、前に進む選択肢を選ぶ。やってやれないことないのだということを、身をもって知っているから。
僕は自身の経験からもそう感じています。

ただ、今30代後半の僕が最近感じるのは、20代で夢を追い求めていた人も、30代では現実に目を向けるようになる、ということです。
難しい問題です。人はどこかで見切りをつけなければならない、ということも正しい選択だと思います。

そこで方向転換をするか、諦めずに挑み続けるか、どっちが正しいかは、誰にもわからないことです。
全ては自分が決めること。

ただ一つ、確実に言えることは、諦めても諦めなくとも、人はいつか寿命が来たら必ず死ぬということです。

それは明日かも知れないし、60年70年先かもしれませんが、その最期を迎える時にそれまでの人生を振り返って、「あの時にああしていればよかった」などと後悔することなく、「楽しい人生だった。やれることをやれるだけやった。我が生涯に一片の悔いなし!」と笑顔で死ねたら、どんなに数奇な人生も捨てたものではないと僕は思います。
そして僕は是非そういう生き方・死に方をしたいと思っています。

そのために、僕は今もこの先も、どんなに逆境にあろうが苦悩してもがこうが、自分が決めたことから逃げることはしませんし、自分が信じたことにとことん挑み続けます。

それともう一つ、逆境や苦難を乗り越えた経験のある人間は、それが自分を成長させる最良の教材だということをよく知っている。

この考えを青臭い若者の考えだと思う人もいることでしょう。でも僕は若いのだから言いますよ。
今言っておかないと、もう二度と言えなくなってしまいますし、今言わなければ、いつか死ぬ時に「よい人生だった」と笑って死ぬことができないと思いますのでね。
posted by Coyama at 22:12| 思ったこと・感じたこと

2012年05月28日

挨拶と礼節

デンマークに滞在していた時の事。ある教育施設の食堂で友人とランチをしていた際、以前に数回お会いしたことのある若い日本人女性が同席をしてきました。
拒む理由はありませんので彼女を加えて談話をしていたのですが、会話の中で僕が翌週に別の友人と久々に食事をするということを話すと、彼女は自身の人脈を広げたいのでその場に同席をしてもいいかと迫ってきました。

その後彼女からは頻繁に確認の連絡があるので、僕は先方の友人に許可をもらいランチに同行させました。
DSCF6078.jpg

当日、僕と友人と共にランチに同席をした彼女は、最後に僕の友人と、目的であった連絡先を交換して別れました。

しかし事前にしつこく僕に何度もメールや電話で僕に確認をしてきた彼女は、その後はまったくの音信不通。お礼の一言もありませんでした。

人からの世話ではなく自らお願いをし、それをしてもらったら、結果がどうであれ「ありがとうございました」と一言でもお礼をするのは人としての礼儀だと思います。

聞くところによると僕の友人も、その後彼女からは1度も連絡はなかったようです。
おそらく自身が思い描いた事と違ったのでしょうね。

ただ、「おはようございます」や「こんにちは」といった、会った時の挨拶。
「ありがとうございます」という感謝の言葉。
「ごめんなさい」と素直に言える謝罪の言葉。
例えどんなにすごい技術や才能を持っていようと、人としての基本的な挨拶や礼儀が出来ないようであれば、決してその人生は豊かにはならないと、僕は思っています。

そんな経験から、僕自身は「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」を素直に言える、そんな人間でいたいと常々思っていますのと、そのようなことに気づかせてくれた前述の女性に「ありがとう」と、感謝しているのです。
posted by Coyama at 23:08| 思ったこと・感じたこと