2012年07月06日

わが身をつねって、人の痛さを知れ

先日ノートルダム清心女子学園理事長の渡辺和子さんが書かれた「置かれた場所で咲きなさい」という本を書店で見かけて購入したところ、その中に次のようなお話がありました。

*****以下前述著書より抜粋*****
3歳ぐらいの子どもを連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通りながら語って聞かせています。
「おじさんたちが、こうして働いてくださるおかげで、坊やはおいしいお水が飲めるのよ。ありがとうといって通りましょうね」
同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。子どもに向かって言いました。
「坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」
価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられることがあるのです。

(中略)

「わが身をつねって、人の痛さを知れ」意地の悪い私が、母からよく聞かされた言葉です。

(中略)

「人をつねってはいけない」と、禁止の言葉で教えるのではなく、まず自分自身をつねって、つねられた痛みのわかる人になりなさいということでした。
価値観は言葉以上に、それを実行している人の姿によって伝えられるものなのです。
*****

僕自身が生活し、本当に多くの人たちと関わっていく中で、上記の前者の母親のような方は本当にいるのだろうかと感じています。
きっとこれを読まれている方で「いるわよ」「あなたが出会っていないだけよ」とか、上記の文を読んで「そうそう」だとか「自分は前者的な考えで生きているつもり」と思う人も多いことでしょう。

でも本当にそうですか?もう一度深く考えてみてください。
僕自身も、理屈ではわかっていても、時に上記の分の後者的な考えになる部分があります。
その都度気づいた時には反省をするのですが、おそらく気がつかずに行動をしていることもよくあるのだと思っています。

このことは、以前僕が書いた、大学で見かける学生さんたちと掃除のスタッフの方々の関係に感じていることと似たようなことなのだと思います。
http://faelles-design.sblo.jp/archives/20120124-1.html

また同じく以前に書いた、自分の行動や場を正と捉えてしまい、社会との繋がりが見えていないことにも似ていると思います。
http://faelles-design.sblo.jp/archives/20120322-1.html

僕自身、これからどうなっていくのかはわかりませんが、少なくとも今の世の風潮に流されることなく、まず自分自身をつねって、つねられた痛みのわかる人になりたいと思っています。

前述の著書には他にも数々のよいお話が書かれていました。興味のある方はお手を取り読まれてみてはいかがでしょうか。読んで損のない、素敵な本だと思いました。
posted by Coyama at 20:16| 思ったこと・感じたこと

2012年07月04日

我が物と思えば軽し笠の雪

以前、ふと立ち寄った近所の神社で東京都神社庁の出している今月のお言葉(生命の言葉)が出ていました。

その時の言葉は『我が物と思えば軽し笠の雪/宝井其角』

言葉の意味は「いやいや荷物を持てば、本当は軽いはずのものも重く感じてしまう。人生は心の置きどころひとつで、楽しくもなり悲しくもなる。ものの見方を変え、心を積極的肯定的に向けていけば、難有るもまた有り難しである。」ということ。

なるほど。

この『難有るもまた有り難し』ってのもまたすごい言葉ですね。

そう言えば僕はある時から神社に参った時に、あることを変えました。

それは、神社などにお参りをする時に、賽銭箱にお賽銭を投げ入れて手を合わせて祈るわけですが、以前の僕はその際に「いいことがありますように」「結婚出来ますように」「健康でいられますように」「病気が治りますように」などいつも『お願い』をしていました。

でも、神様がその願いを聞いてくれたとして、その後はどうなるのだろうかとある時思ったわけです。
神様からしてみると、頼まれるだけ頼まれて、叶えたところで叶えたほどの感謝をされず、叶えなかったら責められ恨まれ。
そう考えると神様というのは骨折り損のくたびれ儲け的な職業だなと思ったわけです。

それまで僕は神社の神様というのは手を合わせれば願いを叶えてくれるものだと思い、お賽銭を投げ入れて頭の中でお願いをつぶやいて手を合わせて祈っていました。

ただ、神様の身になって考えてみてからは、お賽銭入れて手を合わせ、「いつもありがとうございます」と一言いうだけにしました。
願いは言わない。無茶は言わない。お礼もできないことへのお願いはしない。

それに神様だって人間と同じで感謝されていると嬉しいでしょうし、でも逆にいつも感謝ばかりされていると「何か困っていることがあるなら力になるよ」とあちらのほうから助けてくれるようになるのではないかと思いました。

まぁそんな計算高さはありながらも、僕はもうあまり神社の神様にあれもこれも頼むのではなく、今生きていられることに感謝だけしようと思い、神社で手を合わせる時にはただ一言「いつもありがとうございます。」と言うことにしたのです。

命あるだけでも良し。そのことこそ感謝に値する。ないものねだりはやめる。

まさに『我が物と思えば軽し笠の雪』ですね。
posted by Coyama at 22:12| 思ったこと・感じたこと

2012年07月03日

グリーンランド研究 − グリーンランドの都市/Narsaq(ナーサク)−

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険しい山の裾野に広がる平原に1830年に貿易港として作られた「Nordproven(デンマーク語で「北の約束」という意味)」の町は、1959年にグリーンランド語で「平原」という意味を持つ「ナーサク」として再組織されました。

現在では1,700人が暮らし、周囲の居留地には370人の人々が羊牧場などをしながら生活しています。
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△ ナーサクの町

ナーサクはグリーンランド唯一の屠殺場があります。グリーンランドで最も古い毛皮商Eskimo Pels社はこの町にあり、会社は二股手袋から毛皮まで幅広いアザラシの加工製品を製造販売しています。
氷原から氷を切り出すGreenland Ice Cap Productions社もこの町にあります。

この町の経済は魚の加工場、羊牧場、そして観光業から成り立っています。
町が氷原に近いため、港の面する大河にはたくさんの氷山が流れ込み、観光ボートが出航する港として適しているのです。
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△ ナーサクの港

またこの街の近くの谷には希少な鉱石が集中しており、地質マニアには黄金卿として知られています。
posted by Coyama at 20:21| 思ったこと・感じたこと

2012年07月02日

知らせ

以前祖父の葬儀の際に、葬儀を行ったお寺の住職が話してくださった話で、「気づき」というか「知らせ」といったようなものがありました。
飛行機の墜落事故で、搭乗予定者が直前になって急に飛行機に乗りたくなくなり、キャンセルをして新幹線に変えて難を逃れた人の話の後、話題はこのころ住職の身近で起きた話になりました。

その日の数日前に、檀家の8歳になる女の子が脳腫瘍で亡くなられたのだそうです。
その2,3ヶ月前の夏のこと、お寺で一日合宿があり、その子も参加をしていたのだそうです。

その夜、住職は参加している子供達40名近くを本堂に集め、電気はつけずロウソク1本を灯し、恐い話をしていました。
それほど大きくはない本堂で、子供が40人も入ればいっぱいになります。

本堂には、天井から人天蓋と呼ばれる黄金色の大きな飾り物のようなものが釣下っています。
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普段お経をあげる台座の上に吊るされた黄金の囲い屋根のようなものですが、その4隅のうちの1本が、怪談中に、下から30cmぐらいのところから切れて落ちたのだそうです。

そしてその下には、その亡くなった女の子が座っていて、頭を直撃したのだと言います。

この飾りも、普通は切れることなどありません。
住職が泣き出したその子の頭をなでた時には、すでに大きなたんこぶが出来ていたのだそうです。

その2,3ヶ月後、その子の親御さんが「最近うちの子はよく転んだりしておかしいんですよ。」と言うので、住職は病院に連れて行くことを薦めたのだそうですが、病院に連れて行った時には残念ながらすでに手遅れだったのだそうです。

住職が言うには、あの時その女の子の頭上に飾りが落ちたのは、早くこの子を病院に連れて行け、という神様や仏様の声だったのではないのか、と。「この子の頭に危険が迫っている」と知らせだったのではないか。
あの時病院に連れて行っていたら、早期発見ができたのかもしれない。それが悔やまれてならなりません、と。

そして、普段何気ないところにそういった「気づき」や「知らせ」はあるんです。それを気づけるか気づけないか。といったことを住職が話していました。

その女の子のご冥福をお祈りするとともに、参考になるとてもよいお話だったと思います。

その後お経が始まると、どこからともなく1匹のハエがやってきて、しばらく喪主で長男である叔父の頭に止まっていたらしいです。僕は飛んでいるのは気がつかなかったのですが、従妹たちは見ていたらしいです。

そのような話をお寺からお墓に向かう時にしていて「あれはきっとおじいちゃんなのでは?」という話になりました。

みなで「いい話だけど、ハエって・・・」みたいなことを話していたのですが、お墓参りの後、移動しようと乗り込んだ車の中に1匹の蚊が現れました。

ハエの話を聞いた後なので、これもそういうものなのかと思ったのですが、その蚊が運転席の叔父の前に飛んでいった時に、、、

『パンッ!』と叔父は手で蚊を叩き潰しました。。。。。Σ(゚口゚;

話の流れから、「それはおじいちゃんの魂が姿を変えて現れていたのでは!?」と言うと、叔父は「蚊じゃねぇか。刺されたらあれだろ?」と一言。

みなさんも没後に姿を変えて親族の前に現れる際には、なるべく蝶などの美しい姿で現れることをお勧めいたします。
posted by Coyama at 23:56| 思ったこと・感じたこと

2012年07月01日

人の記憶

僕は試験などの暗記は得意ではないのですが、人との会話や出来事などはよく記憶をしているほうだと感じています。

結構「あれ?先日はこう言っていたのに?」と次に会った時は前回の会話を忘れていたり、前回言っていたことと違うことを言う人に出会います。
それはやはり記憶に残らないのか、もしくは記憶するまでもなく適当に話をしているのか、僕にはその真意はよくわかりません。
ただ、自身が言ったことを後日忘れているということは、よくあることのようです。

それらを記憶してしまう僕からすると、こっちは言われたことを信用して行動をしますので、困ったものです。

それは最近に始まったことではないように思います。

もう20年近く前の、僕が高校生だった頃。
高校での大学受験対策として、希望者に小論文の特別講座が設けられました。
国語の教師が担当し、『毎日「天声人語」を短く要約する』という課題を行いました。

僕も実は当時歯学部を受験することになっていて、試験で小論文があったため、その特別講座を受けていました。

課題に関しては、ただでさえ短い「天声人語」を、まずは100文字程度に要約する、ということから始め、徐々にその文字数を減らして行き、最後にはタイトルだけにする、ということを冒頭で担当教師が話していました。

なので僕はその通りに、最初は100文字から始め、徐々に文字数を減らしていきました。
そして受験も間近に迫ったある日、僕はついに要約をタイトルだけつけ、提出しました。

するとその直後に、僕は職員室に呼び出されました。そして担当教師は短いタイトルだけが書かれた用紙を僕に見せ、「なんだこれは?ふざけてるのか?」と言ってきました。

僕は最初の授業に担当教師が言ったことを行っただけです。
そのことを話すと、担当教師は「そうだったっけ?」と言い、僕は帰されました。
僕は最初に言われた通りに文字を徐々に減らしていったのですが、どうやらそれをしていたのは僕だけのようで、僕の提出物の文字が徐々に減っていき、最後は短い分だけになったため、不思議に思った担当教師が僕を呼び出したわけです。
そしてその担当教師は、自分が最初に言ったことを忘れていた。

他の生徒も忘れていた人もいれば、覚えていた人もいると思うのですが、減らしていくのは教師から指示があると思い、ずっと100文字要約を続けていたのだと思います。
そんな担当教師は、最初に自分の言ったことを忘れていたので、結局最後までその指示を出すことはなかった。

僕が自主的に最初の言いつけを守り、徐々に文字数を減らして最後はタイトルだけをつける、ということをしなければ、そのこと自体もきっと忘れ去られていたことなのだと思います。

それだけ人の記憶というのも曖昧なのでしょう。

だからといって僕が特に記憶力に優れているというわけではありません。僕もよくいろんなことを忘れます。
だからなるべくいつも、気がついたことなどはメモをとるようにしています。またここ10年近くは日記をつけるようにしてきています。
そして時々それらを読み返しているので、記憶が残り続けているのだと思います。

昨今の政治がどうのなどというつもりはまったくありませんが、今の日本の社会を見ていると、もう少し日本の大人たちは、自分の言ったことにはきちんと最後まで責任をとってもらいたいな、と、そんな出来事を思い出しながら思ったわけです。
posted by Coyama at 19:59| 思ったこと・感じたこと