2012年04月23日

これからの「地域」を考える

(※後日要修正)
地産地消と言う言葉があります。
これは簡単に言えば地域で生産された様々な生産物や資源をその地域で消費すること。これにより地域の中で経済が回り、かつ遠方への輸送を抑えることでエネルギー消費の削減にも繋がるなど、これからの世の中で求められている重要な考え方だと思います。

しかし一方で、この「地」である地域が、これからの日本では非常に深刻な問題を抱えてくるものでもあります。

◇人口の減少
現在日本の人口は増加から減少に転じて久しく、国立社会保障・人口問題研究所の調べでは日本の人口は今後も減り続けると予測されています。
その予測には出生数と死亡者数の状況に応じて複数の予測が立てられていますが、今から23年後の2035年では人口は約1億700万人〜約1億1,600万人になると予測されています。2012年現在から23年の間に2,000〜1,000万人が減少することになります。
人口推計.jpg

しかしそこにある課題は人口減少だけではなく、出生高位・死亡中位の予測での65歳以上の高齢者の数の割合は、現在の24.2%から32.4%へ、15〜64歳の生産人口の数の割合は現在の62.8%から55.9%になるといった問題があり、日本には世界でも例のない人口減少社会・少子高齢化社会が到来すると言われています。
このことはすでに多くの人が知っていることではありますが、実はこれは日本全体での予測であり、各地域でのことはあまり扱われてはいません。

どういうことかというと、確かに日本の人口は減少していくわけですが、それでも定期的な流入から都会の人口の数はあまり変わらず、減少は地方都市から急激に問題化されていくだろうと予測されていることです。
つまり2035年に今より1,000〜2,000万人が減少するであろうその減少数は、日本全国ではなく主に地方都市にかかってくるということです。

現在僕は縁あって長野県小諸市と関わりがありますが、その小諸市は現在人口約44,000人。これが国立社会保障・人口問題研究所の予測では2035年には5,000人減の約39,000人になると予測されています。
ただし生産人口は約60%から約55%へ減少、高齢者人口は約28%から約34%へ増加となり、人口が減るだけではなく高齢者の割合が増えることになります。
ただしここには前述の"都心はあまり人口が変わることなく地方都市の人口減少が進む”ということは考慮されていないため、それ以上の人口減少が起こると言われています。

一説には38年後の2050年には日本の人口は9,600万人になるとも言われ、減少する3,000万人が地方都市にかかってくるとなると、その人口は2050年には半減する言われています。
その計算でいくと小諸市などは2050年には20,000人いるかいないかとなります。
さらに就業人口は大都市の10%減に比べて地方都市では30%以上減少すると言われており、特に人口流動は高齢者ではなく生産世代がほとんどと予測されますので、小諸市などの地方都市の高齢化率は50%を越えると予測されます。

このことがより現実味を帯びているのは、福島第一原発事故による影響で出産率の低下がさらに進むであろうということです。
食への不安、環境への不安、出産後の子どもたちの未来の不安を考えると、複数の子どもの出産を控えてしまうことを考える家族も少なくありません。

◇将来の地域が抱える大きな課題
極端な例えかもしれませんが、前述のように小諸市の人口が2050年に20,000人となり、その半数が高齢者などという構成社会になった時に、地方都市での地産地消というのはその「地」が人間レベルでの行動範囲である地域だけでは成り立たなくなります。これはすでに切迫した課題になってきていると思います。

現在小諸やその周辺でも家業を引き継いだり新規就農で農業を営まれている若い人たちも多くいるわけですが、そのような方々の将来にも上記のような問題が差し迫ってきているため、最近では生産だけではなく加工や販売までをも加えた第6次産業といったことが注目され、模索されてきています。

ただし地方都市が抱える問題のもう一つ重要なポイントとして、前述のように高齢化の問題も含まれてきます。
今の20〜30代の若い世代が地方都市でどのように経済活動を行っていくかは重要な課題ですが、例え高齢になるまで無事に生き抜けたとしても、老後に待っているのは若者が少なく高齢化した活力を失った街での生活、ということも十分に考えられます。

そのため今の日本・これからの日本を考えていく時に、「地域産業」と「地域医療・介護」の両方を同時に捉え、さらに「都心との繋がり」を含めて対応していかなければ、半世紀後の日本の地方都市は逼迫した状況に落ち入る可能性が大きいだろうと僕は考えています。

「そういうものはあなたが考えなくてもなんとかなるものよ。」という意見も多いと思います。
しかし過去のそういった人々の考え方の結果が、現在の年金問題や某電力会社を始めとする既得権益の保持体質に繋がっていると、僕は感じています。

◇起業した狙い
このような状況を打破するひとつの解決策として、ICTなどを活用した地域の境界を越えての「地」の中で経済や物流を巡回させる新しい地産地消の形が求められてくるのではないかと僕は考えています。
昨今のインターネットの普及やFacebookなどのSNSが普及してきたことなどにより、「地域」というものの境界は人間的な行動範囲から広がりつつある可能性を持っています。

僕が起業を決意し、これから事業展開を考えていることは、上記の問題に対する解決案の一つを探っていきたいことと、そこにビジネスチャンスがあると考えているからです。
また建築や都市計画を専門として学んできた人間として、都市のあり方、都市の繋ぎ方、コミュニティのあり方などを考えた新しい形での地産地消やスマートコニュニティといったもののあり方を考え、提唱していきたいという思いもあります。

おそらく今僕が考えていること、やろうとしていることに対してまだ理解を示してくれる人は今の日本には少ないだろうと感じています。僕にはまだその考えをうまく人に伝えることが出来ず、また考えだけではなく現実に形にしなければ、理解は得られないだろうということはわかっています。

会社として目指しているのは上記のような課題に対しての解決策となれる事業ですが、個人的には、美しい自然を保った日本の地方都市の環境と、若者たちが夢を叶えるために学習や飛躍のできる都心の環境とを繋げた、明るくよりよい日本の未来を、子孫たちに残してあげたいと願っています。
そのためにも、とにかく小さくてもいいから、少しでも早く形にしていければと思っています。
posted by Coyama at 19:27| 会社のこと

2012年03月12日

自分が信じること

先月末から1ヶ月程、知り合いの設計事務所のお手伝いをしています。未熟なため役に立っているのかどうかはわかりませんが、人手が足りなくて困っているということで、出来る部分でということで期間限定でお手伝いをさせていただいてます。
結局週の時間の半分がそちらに奪われてしまうので、当初予定していた自分の会社のことがなかなか進まず、悩ましい部分もあるのですが、僕には困っているという人を見捨てることはできず、きっと経営者には向いていないんだろうな、と最近思っています。

でも人からどう言われようと、僕にはやっぱり「困っている」「助けてよ」と言う人を無視できないのです。
その時に自分がとった行動は、きっといつか自分が逆の立場になった時に、巡り巡って自分が誰かからされることになる、と思うからです。

もちろん見返りを期待して手伝うわけではありません。
ただ「忙しいのでごめんなさい」と見捨てたら、きっといつか僕が困って誰かに助けを求めた時に、人から「忙しいのでごめんなさい」と断られるのだと思います。

それもいいけど自分のことが先、どうやって食べていくのか?、事業のメドも立っていないのに作ったばかりの会社を潰す気なのか!と言われても、たかだか1ヶ月のことです。それで潰れるくらいなら、自分はそれまでの器だということです。

従業員や家族がいたら別ですが、今はまだ僕一人ですので、潰れても犠牲になるのは僕一人。
そこで会社と自分を潰して後悔するのと、あの時手伝っておけば良かったなと後悔をするのと、考えたら後者の方が今の僕にとっては後味が悪いと感じたわけで、今なら自分が犠牲になればいいだけのことなので、それ自体は僕には大したことではないのです。

今から12年前の2000年4月、大学から大学院に進学をした僕は、所属していた研究室の部屋で、ひとりの世の高い中国人留学生と出会いました。
彼の名は劉さん。劉さんはその年から大学院生として、同じ研究室に入学してきたのです。
はじめて会った時の事は今でも覚えています。もともと中国人留学生が入学してくるという話を聞いていた僕は、大学からの延長で勝手も知っていたので、僕の方から劉さんに話しかけました。その時はまだ劉さんは日本語も完璧ではなく、常に日本語−中国語の辞書を持ち歩いていました。

そんな劉さんは、その後僕と一緒に2年間の大学院生活を送り、授業の課題も一緒にやったりしました。
そして劉さんは2年間の最後に日本語で書かれた1冊の修士論文を提出しました。これを見せてもらった時、僕はとても感動しました。
中国人の劉さんが書き上げた1冊の日本語の修士論文。

僕の修士論文も2年間の労力を詰め込んだものではありますが、劉さんの論文には苦労と努力という面では負けるかもしれません。

そんな劉さんとの出会いが、その後僕がデンマークに渡る際に、まずはデンマーク人が話すデンマーク語を習得して、それからデンマークでの勉強を進める、という決心をさせたのです。

劉さんが日本へやって来たのは、僕と出会う2年前の1998年のことです。当時劉さんはたしか29歳、日本語はまったく話せず、日本に来ている実のお姉さんを頼り、日本へとやって来ました。
中国では建築大学を卒業し、設計事務所へ就職。しかし日本での設計を勉強してみたくなり、日本へやってきたのだそうです。

最初の1年間、劉さんは中華料理店で働きながら、東京・大久保の日本語学校へ通い日本語を勉強しました。

そして翌年、東京電機大学へ研究生として、入学を許されました。

そこで当時、東京電機大学でも講師をしていた僕の恩師と出会いました。そんな恩師の授業を受け、劉さんは恩師の元で本格的に勉強したいと思い、翌年の2000年4月、法政大学大学院へ正規の大学院生として入学してきたのです。

そしてそこで、僕と机を並べることになったわけです。

その後、劉さんは苦労しながら大学院での勉強と自身の研究を進めていき、みごとに2年間で大学院の修士過程を修了しました。

そして大学院が終わる頃には、僕と劉さんはとてもよい友人になっていました。

そんな僕と劉さんとの一番の想い出は、プロ野球の『巨人戦』です。

大学院1年の時、劉さんは毎日のように研究室のテレビで熱心に巨人戦を見ていました。日本に来てから、当時はほぼ毎日のように放送されていた巨人戦を見て、劉さんは巨人ファンになったのだそうです。特に清原和博選手のファンでした。

ところが、そんな大の巨人ファンの劉さんは、まだ一度も球場で野球を見たことがありませんでした。

そこで、僕は劉さんを巨人戦に連れて行く約束をしました。この頃には僕はデンマークへ渡る決意していたので、他国で学び奮闘する劉さんが他人事には思えなくなっていました。そんな劉さんに、もっといろんな日本を見てもらいたい、そう思いました。

そして翌年の大学院2年の時、僕たちは計7回、巨人戦を観戦に行きました。東京ドーム2回、神宮球場3回、横浜球場2回です。

僕もそこまで連れて行くつもりはなかったのですが、4月に初めて劉さんを東京ドームへ連れて行った時、生まれて初めての野球場を目にした時の劉さんの歓声と笑顔、子供のように目を輝かせ、その空気に感動していたのを見て、僕は嬉しく思いました。そしてその年、できる限り連れて行ってあげよう、と思ったのです。
jingu008.jpg

そのなかでも得に想い出深いのが、2001年7月14日の東京ドーム、巨人対広島戦です。

その日は両軍貧打で1対1のまま延長戦となりました。まったくいいところのない巨人打線に、劉さんはメガホンをたたき過ぎて壊すぐらいのイライラする展開でした。

この日のチケットは僕の叔父からいただいたものでした。座席は1塁ベースやや後方の前から2列目で、1塁ベースを駆け抜ける選手たちを目の前で見ることができました。そして劉さんの大好きな(僕も大好きな)清原選手も、目の前で見ることができました。
kiyo2.jpg

そして試合は延長11回、すでに僕たちの前の座席に座っていたご夫婦が帰宅したので、僕たちは最前列へ席を移していました。そんな最高の座席で観戦する中、1アウト満塁で清原選手の打席が巡ってきました。

ヒット1本でサヨナラ。そんな展開でした。

そして、その打席、清原選手の打った打球は、僕たちの目の前でアーチを描き、ライトスタンドへ飛び込みました。11回裏、サヨナラ満塁ホームランです。

揺れるような球場の大歓声。そんな中で僕と劉さんは、フェンスにしがみついて清原選手の名前を何度も何度も叫んでいました。

僕が日本を離れる2002年8月に、僕は劉さんと2人で飲みました。劉さんは卒業後は設計事務所でアルバイトをしていましたが、ビザの関係でいつまで日本にいれるかはわからないと言ってました。その後は中国へ帰り、二度と日本へは来ないと思う、と言っていました。ですので、それが僕と劉さんのお別れの盃でした。

その飲みの席で、やはりその巨人戦の話になりました。あの試合は、劉さんの日本での一番の、そして人生でも一番の想い出なのだそうです。僕はそんな想い出のお手伝いができたことを、とてもうれしく思いました。

その後、僕がデンマークに渡って生活をしていた時に、僕はいろんな人から助けていただき、そして楽しい思いをたくさんさせていただきました。
世界中の友人たちから胴上げをしてもらったり、デンマーク人家庭のクリスマスに招待してもらったり、サッカー場に連れて行ってもらったり、大使公邸でパーティーをしたり、コペンハーゲンで新年の花火を自分で打ち上げたり、そして家を設計させてもらったり。

きっと僕が劉さんにあの頃していたことが、巡り巡って自分に返ってきたのだろうな、と感じることがよくありました。

そして僕もデンマーク語を習得し、デンマーク語で現地の建築大学で学びました。その後デンマーク語で仕事をして作品を残すこともできました。
今でもそのことは、間違った選択ではなかったと思っています。

当時、英語が出来れば十分、デンマーク語で学びたいと理想を言ってもそう簡単なことじゃないと言われながらも、僕がそれを行うことが出来たのは、劉さんという、見本になってくれた友人を知っているからです。

そしてそんな劉さんとの付き合いの中から、自分が他人にしたことが、いずれ自分に戻ってくるということも学びました。

だから僕は人から何を言われようと、困っている人から助けを求められたら、それが自分が正しいと信じられたら、出来る限りのことはしよう。そう思うのです。
そして見返りなど求めず、本心でそういうことが出来ていれば、いつか僕が困った立場に落ち入っても、きっとどこかで誰かが助けてくれる。そう信じているのです。
posted by Coyama at 23:56| 会社のこと

2012年01月25日

百円札の使い方

今日は会社の経理のことで税理士さんに会いにきました。
いくら自分でやることは勉強になるとはいえ、結局何もかも自分一人で行っていくには無理がありました。
任せられる部分は人に任せる。そういったことも大事です。

自分でやろうと思えば出来ないことではないけれど、時間も限られてきます。
確かにお願いすることにはお金がかかるかもしれませんが、その分自身が余計なことに手を煩わされる時間を減らし、仕事に有効なことを行える時間を増やせれば、トータル的には金銭もプラスになっていくもの。
そう考え、知り合いの方に相談して知人の税理士さんを紹介していただきました。

小山家の家訓の中に「百円札の使い方」という話があります。

大正4・5年の頃、僕の祖父がまだ10歳の頃に曾祖父から教えられたお金の使い方。

僕の実家のある現在の神奈川県茅ヶ崎市、そこにある当時の円蔵村ではどこの家でも養蚕が盛んで、子どもまでがかり出され、一家総動員で桑摘みなどをしていたのだそうです。
そして収穫したまゆの売り渡しが済むと、蚕棚を壊して大掃除をし、畳を入れて広くなったように思える座敷で、家族全員くつろいで養蚕祝いをしたのだそうです。

そんな楽しい食事が終わった時、お酒を飲んでご機嫌な曾祖父は祖父兄弟を前に並んで座らせ、こう言ったのだそうです。

「お前たち、百円札を見たことがあるか?ないだろう。百円札にお目にかかれるのは春と秋の養蚕を売った時と、自作米と小作米をまとめて売る時ぐらいで、それ以外はないからな。」
「この百円札は年に二回か三回位しか見られない。明日は銀行に行ってしまう。それだから今のうちによく見ておけよ。」
そして曾祖父は祖父兄弟の前に百円札を並べました。

当時祖父たちのお小遣いは一銭か二銭の銅貨。お祭りの時に五銭の白銅貨を貰うようなことがあると、それこそ鬼の首を取ったかのように喜んだものだそうです。そんな時代だから百円札となると、子ども心にはその価値の大きさは想像もつかなく、目の前に並べられても恐れ多くてただ目を見張るばかり。

そんな祖父たちに、曾祖父はこう言いました。
「お前たちにこの百円札をあげよう。誰でもいい、欲しい者にあげるぞ?」

しかし兄弟の誰一人として、欲しいと言い出すものはいない。兄弟顔をそれぞれ見合わせながらも、無言のまましばらく時が流れました。
そんな祖父達を見て、曾祖父が切り出しました。
「貴様達は意気地がないな、俺ならすぐこの金を貰って、すぐ使ってしまう。お前達の中で、この百円札を使う勇気のある者はいないのか。わっはっは、この意気地なしめ!」

曾祖父の言葉は徐々に大きくなり、顔はお酒で真っ赤になり、熱気を増してきたそうです。
「お金はタンスの肥料ではないぞ。しまっておくものではない。使うためにあるものだ。だから使うのだ。」
「ただし、ただしだよ、その使い方には三通りある。どんな使い方か、わかるか?」

もちろん子どもにはそんなことがわかるわけがありません。
もじもじしている祖父兄弟を、しばらくじーっと見つめていた曾祖父は、こう言葉を続けました。

「第一の使い方。これは百円を百円以下の価値に使う使い方だ。これは馬鹿でも出来る。例えば無駄遣いをする、賭け事をして負けてとられる。なくしてしまう。すられる。酒に溺れる。女にとられる。競馬に狂う。こんな使い方は人間として下の下だ。まぁ人間の屑だな。こんな使い方をしたら百円札が泣くぞ。こんな使い方はするな。」

この話を聞いて祖父は子ども心にも、なるほどそうであるなと思ったそうです。

「第二の使い方。これは百円を百円相当の価値に使う使い方だ。これは普通の人なら誰でも出来るものだ。世間一般の使い方だ。例えば百円の品物を百円で買うのであれば、あたりまえのことである。人間として中の中だ。」

なるほど、この使い方なら子どもの自分にも出来るな、と祖父は思ったそうです。二銭の鉛筆を二銭で買えばいいし、五銭のノートを五銭で買えばよいわけだ、と。

「さて、第三の使い方だ。これは百円を百円の価値以上に使う使い方だ。これはなかなか難しい。誰にでもできるわけではない。例えば有利な株式への投資とか、値上がりを予想しての不動産の買収とか、優秀な機械器具を購入しての能率の増進、優良な図書による学力の向上、などなど。これはその人の頭の問題だ。こういう使い方をしてこそはじめて、人の上に立つことが出来るのだ。口で言うことはやさしいように思えるが、実際にこの使い方が出来る人は、人間として上の上だ。」

当時の祖父にはまだこの第三の使い方はわかったようなわからないような、しかし子ども心にもそれが一番よいということを思ったのだそうです。

「お前達には今はよくわからないだろうと思うが、大人になればきっとわかる時が来ると思う。金銭の使い方に三通りあるということだけは、しっかりと覚えておいてほしい。使い方の三方法をな...。」

曾祖父はそう言って百円札を祖父兄弟の前から手に取り、「ご先祖様のおかげである」と仏壇に供え線香をあげ鐘をたたき、合掌礼拝をしました。
その時の曾祖父の後ろ姿を、祖父は晩年までずっと忘れなかったそうです。

その後時は流れ祖父も家庭を持つにつれ、この金銭の使い方三原則の戒めが、強く脳裏によみがえり、日常生活の指針となり、自分の子ども達にも言い伝え、心の糧となるように心がけていると、昭和36年に、当時56歳の祖父がそうやって書き残したものを、孫の僕は平成24年となった今でも読んでいるのです。

会社を作ってしまった今、僕がこの先に行っていくことにも、常にこの金銭の三原則を戒めとして、心の糧になるよう心がけていきたいと思っています。
posted by Coyama at 23:23| 会社のこと