2012年04月26日

おかしな世の中 −音を出さない車輪ー

先日の京都府亀岡市の心痛ましい事件。18歳の無免許運転をしていた人間が通学途中の小学生たちの列にあろうことか居眠り運転で突っ込んで行き、死傷者を出した事件。
そのニュースを耳にし、心痛ましいでは言い表せないほどの憤りの一方で、加害者たちの言動に不思議さを感じる人も少なくないと思います。
運転をしていた人間の言動にも驚かされますが、さらに同乗していた人間たちがとったとされる行動にも驚かされました。現場にいても慌てる事なく、何事もなかったかのように携帯電話で誰かと話をしていたのだとか。

この問題に対して、ただ「最近の若者がおかしい」では済まされる話ではないと僕は思っていたのですが、そう思っていた矢先に今度は被害者の連絡先を加害者遺族に教えると言う京都府警の失態が取り上げられました。
なんともやるせない世の中だなと感じています。

先日、ある年配の方と話をしていた時に、僕がついここ最近の若者の行動に不思議さを感じると言ったら、「あなたのような若者が『最近の若者は・・・』なんていうのは可笑しいわよね」と笑われました。
僕は逆にそのことに驚きました。

僕の話は「近頃の若者はけしからん云々・・・」のようなものではなく、具体的に、ここ1〜2年で若者の質が変わってきていると感じていることを話しました。
例えば下りのエレベーターに乗っていて地上階に到着し、そこで当然降りる人がいるのにその前に平気で乗り込んでくる若者を何度も目にしている。携帯などを見ながら歩き、ぶつかりそうになったりぶつかったりしてもお詫びの一言も言わない。道を歩いていてすれ違う際に、道の真ん中を歩き避けようとしない。さらに集団で歩いていると対抗者や後ろから来る人がいても道を開けようとしない。
そういう僕からすると少し驚くような変化を、ここ1〜2年の10代20代の若者に感じるようになりました。

いくらいつの時代も若者は傍若無人だといいながらも、ここ数年の若者の質の変化は少しおかしいと僕は感じています。

そのことは漠然と僕の頭の中にあっただけだったのですが、先日ある大学の教授とのお酒の席で、その教授も「ここ1〜2年で学生の質がものすごく変わった。これまでとは考えられないような不可思議なことが多々ある」と話されていて、僕が感じていた事が僕だけが思っているわけではないと知りました。

そこで前述の年配の方との話の中で、たまたまそのようなことを話題にしたのですが、それを聞いてその方が僕に言ったのが「あなたのような若者が『最近の若者は・・・』なんていうのは可笑しいわよね」という返答。

その方はそろそろ仕事を引退して隠居生活に入られる年齢なのだそうですが、僕から言わせていただくと、『あなたたちが今の日本と、今の若者を育てる社会を作ってきた。そういう態度が今の社会問題を生み出してきたのではないか』と僕は思っています。

人の話をよく聞かない。人を見かけで判断する。こういうものだと決めつける。先入観。
口で言っておいて実行はしない。その時の都合でコロコロ変わる。つまり責任感がない。
そういう大人たちが、今の若者の変化の原因のひとつにあるだろうと、その方との話だけではなく、普段からの多くの人たちとの関わりの中で僕は感じています。

またこんなこともありました。
先日長野から高速バスで帰京する際に、車内に音楽プレーヤーから漏れ出た音が車内に響いていました。
僕は車中で読書をしていたのでうるさいなと思いながらも、僕の周囲で音の出どころが確認できなかったので、しかたがなく我慢をしました。

しばらくして途中のパーキングエリアでトイレ休憩となり、席を立つと斜め後方の席に音の原因を作っていた若者が座っているのが見えました。
驚いたのは彼の前後や通路を挟んだ隣にも人が座っていたのに誰も何も言わなかったということです。離れている僕ですらうるさく感じたのだから、近くに座っていた人たちが感じていないわけではないと思います。
僕はその若者のところに行き、寝ていた彼の肩を叩いて起こし、音漏れをしているから少しボリュームを下げてくれるようお願いしました。
彼は普通に、すみません、と言ってボリュームを下げました。

若者に対してはなんてことはありません。よくあることです。それに注意をしたらボリュームを下げた。
驚かされたのは見て見ぬ振り、我関せずと決め込んでいた周囲の人たちの行動でした。

僕が世の中のおかしさに疑問を感じたのは今から12年以上前の大学生時代のことです。
当時神戸の連続児童殺害事件や若者のバスジャック事件、親殺し子殺しなどの事件が目につくようになり、また大学での周囲の人たちと触れている中で、何か漠然とした人間のあり方としてのおかしさを感じ始めました。

一方で大学の卒業論文のテーマとして取り上げた児童施設と高齢者施設との複合施設の研究から、児童と高齢者だけではないその中間にいる人たちを含めた多世代での交流の重要さを感じ、以後多世代交流の研究に挑み続けることになりました。
理想型を求めて都心を調べ、次に修士論文で日本全国を調べ、その結果として海外・デンマークまで行くことになりました。

それから今日に至るまで、常に多世代交流のあり方を模索し続けています。
長野県小諸市での活動も、理解者は少ないですが、僕は最初からその一環で取り組んでいます。

そのような多世代交流を追い求めて行った中で僕が重要視していることは、多世代での交流に重要なのはそこにいる人々がどんな年齢になっても学び続ける姿勢を持っている、ということです。
詳しく書くと長くなるのでそのことは別の機会に書きたいと思いますが、今の日本人の成人の多くは、その「学ぶ姿勢」が欠けていると僕は感じています。

そして学ぶ姿勢を失ってしまった人たちが50〜60代になり、今の社会を動かしている。

『そんなことはない。あなたがそう感じるだけで世の中そんな人たちばかりではない。』という意見もよく聞かれます。
確かに、そうでない人たちもいると思います。しかし学ぶ姿勢を持っていない50〜60代の人たちは今の日本には圧倒的に多いと僕は思います。

その人たちに共通しているのは、僕が思う中では主に下記の2つです。
・学ぶということは偉い人・地位のある人・年上の人からだと思っている
・自分が撒いた種なのに、気にそぐわない芽が出てきたら見て見ぬ振りをし責任を持たない

彼らはまず「『学ぶ』ということを前にして、人はいかなる状況であろうと平等である」という精神を持っていないように思います。
それから自ら事を発しておいて、それが手に余るようになると放り出してしまう。それも何も言わず、いいとも悪いとも言わず、黙ったまま、何事もなかったのように振る舞おうとします。
失敗を認めない、責任を取らない、そこから何も学ばない。だから次に活かせない。
今の日本にはそのようなな50〜60代が増えていると、僕は感じています。

そしてそんな人たちを「先生」や「業界の神様」だと崇めて学ぶ学生たちがいる。
技術は学べるのかもしれませんが、人としての道理は学べないような気が、僕はしています。

そんな人たちを上司や先輩に持つ30〜40代、教師や親に持つ10〜20代の次世代も、きっとこの先同じ道を辿るのだろうと、今の30〜40代、10〜20代人たちを見ていると感じます。

もちろんそんな人たちばかりではありません。
ただ、これでいいのか、と今の日本を疑問に思う人が日本にはどれくらいいるのでしょうか。頭では思っていても実際に行動に移せる人がどれくらいいるでしょうか。
行動というのはなにも社会活動だとか大きな事を言っているのではありません。前述の音漏れに対して少しボリュームを下げるように注意するといった、その程度の小さなことも行動のひとつです。

おかしいことをおかしいと言うことがおかしいと避けられる今の日本。それは民度の低さの現れでもあると思います。
ヨーロッパと日本の大きな違いは、学力でも技術でもなく、大人の成熟度だと、僕は自身の経験から強く感じています。

問題はもっと複雑だと思いますので、必ずしも僕の考えが正しいとは言いませんが、このまま何もしなければ、日本はますますひどくなって行く。先日の亀岡市で起きたような事件は日本で今後もなくなることはないだろうと、僕は感じているのです。

最後になりましたが、今回の事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げ、怪我をされた方々の少しでも早いご回復をお祈り申し上げます。
posted by Coyama at 21:15| 思ったこと・感じたこと