2012年02月16日

地縁と慶弔

(※今日の文章はあまり整っていないので、後日徐々に修正します。)

今日書く話は、きっと理解できる人と理解できない人に分かれる内容だと思います。

その内容は「知人や友人のご家族の不幸を知ったとき、あなたはどのような対応をしますか?」ということです。

先日、多摩ニュータウンの知人のご家族に不幸があったのですが、遠方で参列は難しかったため斎場へお花をお送りしました。
その連絡を受けた時に、まだ連絡を受けていなかった別の知人へ葬儀の案内を伝え、その方から周囲の関係者へ伝達をお願いしました。

しかしその方から周囲の方へ連絡をされることはなく、また僕とその方とご家族に不幸があった方とは互いに仕事上での付き合いもありましたので、連名でお花をお贈りしないかとの提案もしたのですが、その申し出はわかりづらく断られました。

気になったので、後日さりげなくそのことを質問してみると「普通はそういうのは何もしないもの。」「他の人に教えても関心はないよ。」との答えが返ってきました。

それからしばらくして、別の関係者の方と話をしていた際にその話をしたところ、「なぜその時に教えてくれなかったのか。知っていればお花や弔電をお送りしたのに。」と言われました。
その話をした方とは僕は直接の連絡法を知らず、先の伝達をお願いした方を経由して連絡が行くと思っていたことと、そのようなことは関心を持たれないので伝達の必要はないと言っていたということをお話ししたところ、その対応にとても驚かれていました。
その反応を見て、やはり僕の感覚は間違っていないんだなと安心しました。

つまりのところ、これは友人知人とその家族へのお祝いや弔いを行うかどうか、という問題なのだと思います。
それは人と人との繋がりとして、当然行うだろうという人と、その必要はないという人と、2種類に分かれることだと思います。
どちらが正しいとも間違っているとも僕は思いません。ただ、行うことが人として当然だと思っている僕にとっては、前述の一件は不思議で仕方がなかったのですが、どうもいろいろな人たちと接していると、多摩ニュータウンなどでは不思議と慶弔への対応は必要ないと思われている人が多いように感じます。
もちろんこれは個人的な感覚ですし、多摩ニュータウンの住民の全員がそうだということではありません。しかし無関心さはどうも他の地域に比べると多く目につきます。

ちょうどそのことを僕と同じように感じられている方と話をしていて、なぜそうなのだろうかという話題になったのですが、もしかするとそこには多摩ニュータウンという地域特性が関係しているのではないかという意見が出ました。

多摩ニュータウンはよく知られているように、高度成長期に都会へ流入する人口の増加に対応するため、郊外の多摩丘陵を切り開いて新たに作られた広大な集合住宅地域です。そしてその当時移り住んで来た人たちの多くは、地方から都心へ出てきた農家の次男や三男の方々が多かったと言われています。

その中には地方都市で昔からあった、いわゆる「地縁」というような密な近所付き合いを嫌って都会に出てきた人たちも多く、冠婚葬祭のような地域での行事を煩わしく思った人たちも少なくなかったと聞きます。
“ニュータウン”と名の付けられた文字通り新しい街では特に、そのような人たちが多く集まり住んだため、普段の軽い近所付き合いはするものの、冠婚葬祭等の「地縁」を必要とするような煩わしい部分は避けられたのではないか。また大規模集合住宅地ゆえに、どこかの家庭でお祝い事や不幸がある度に対応していると大変なので、自然とそれらを避けるようになったのではないか。
また先代から住み続けているわけではないため家族像が見えづらく、お隣さんの姿をしばらく見ないなと思ったら、ご家族の不幸があって郷里に帰っていた。不幸があった話を聞いたのはそれからずっと後のことだった、ということも少なくないと聞きました。

これらはあくまで僕の推測でしかありませんので、正確なものではないと思います。しかし例え慶弔への対応を行わないとしても、冠婚葬祭があった方と次に顔を合わせた時に、その話を事前にどこかで耳にしたら、お祝いや弔いの言葉を一声かける程度のことは「成熟した大人」であれば持ち合わせている感覚かと思います。
しかしそれが出来ない人が意外と多くいると僕は感じています。
そして親がそれを出来ないのですから、当然ながら子もそれを習慣として持ち合わせていないのです。

これは今の多摩ニュータウンを始めとした郊外の大規模住宅地の現状なのかもしれません。

僕自身、様々なところでいろいろな方との付き合いがありますが、多摩ニュータウンに限らず、自身の身内に不幸が会った際、お悔やみの言葉を述べてくださる方と、そうでない方がいます。
ある程度の年齢に達した方ですと、これはもう日々の習慣ですので、どうにも出来ないことだと思います。ただその子どもの世代にまでその感覚が浸透していることに、僕は不安を感じています。

もし知り合いの方のご家族に不幸があったと聞いた時には、「この度は御愁傷様でした。どうぞお気を落とさずに。」程度の声かけはしたいものです。

それが出来ない人と、出来る人がいる。
これはあくまで僕個人の基準ですが、出来る人が「成熟した大人」、出来ない人が「未熟な成人」ではないかなと思っています。
ご家族に不幸があった方を前にして、どのような言葉をかければよいのかは難しいところではありますが、だからといって“何も聞いていないかのように何も言わない”という選択は、僕は間違っていることだと思います。

これを読んで「そうそう」と思う人も、今一度ご自身がきちんとそれが出来ているか、ご注意された方がよいと思いますよ。
posted by Coyama at 23:51| 多摩ニュータウンのこと