2012年06月20日

グリーンランド研究 − グリーンランドの都市/Aasiaat(アーシアート) −

1759年にハンス・エゲデの息子のニールスにより、オランダの捕鯨船の違法な捕鯨を防ぐのが目的でこの町から125km南の地点に居留地・Egedesmindeが建設されました。やがて1763年に居留地は現在のアーシアートの位置に移されました。
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△ 現在のアーシアートの町

アーシアートのは「クモ」という意味で、それはコミューネのシンボルマークにも使われています。

アーシアートはディスコ湾の南に位置し、とても美しい群島「千の島々」の先端に位置しています。島の多くは保護地域に指定され、貴重な鳥の生活の観察や、町の建設目的でもあったクジラの観察をすることができます。

町は北グリーンランドの中学校、ビジネススクール、そして養護学校を持っており、美術館とコミュニティセンターが併設された施設もあります。
posted by Coyama at 22:54| グリーンランドのこと

2012年06月19日

こもなみ倶楽部

昨年2011年6月24日に書いて「あしたのまち・くらしづくり活動賞」に応募した「こもなみ倶楽部」に関するレポートです。
結果、振興奨励賞をいただきました。
書いたのは僕ですが、内容を実行したのは多くの人たちです。人が集まり、ものが動けば、必ず結果は出ると思います。

*****以下レポート*****

■ きっかけ
 「小諸にアパートや農地を相続しましてね。」 2008年秋、杉並区に暮らす相続人のその一言から『こもなみ倶楽部』の活動は始まった。華やかにイメージする遺産相続とは異なり、アパートは2008年に起きたリーマンショックを引き金とするいわゆる「派遣切り」の影響で借主が退去して全室が空室になり、農地や山林は30年以上も管理を放棄されて荒れ放題。相続はしたものの、使い道に困っていた。
 その話を聞いて興味を持った東京の有志数名は小諸を訪問し、相続したアパート、農地、山林を見学。2009年1月には相続人と“遊子”数十名が訪問し、小諸市内の温泉旅館で風呂上がりの浴衣姿でお酒を酌み交わしながら、今後それら休眠資産を使って何が出来るかを深夜遅くまで話し合った。
 その白熱した議論の中から、東京から出向いた都会の人間が地方の小諸で何かを行っていくには、まずは地域の人たちの信用を得ていくことが重要だが、そのためには何か核となる行動が必要だろうと考えた。そこで手始めにあの荒廃農地を再生してみたら、小諸の人にもその変化が目に見えやすいし、自分たちでも行えることではないかと考え、2009年の春から月に1回程度小諸を訪問し、アパートに寝泊まりをしながら荒廃農地の再生に取り組み始めたのである。
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△ 2009年4月の農地の様子

 このような都会と地方を繋ぐ活動は日本全国でも多く試みられている。しかし最初は盛り上がるものの大抵1〜2年で情熱が冷めたり仕事や生活環境の変化で自然消滅してしまう活動が多く、それが小諸やその周辺で将来立ち上がるであろう後輩の活動に影響を与えることは避けたいと考え、まず3年継続することを第一の目標に掲げた。そこには、活動が長続きせず終息してしまうことで地元の人が「どうせこういうのは長続きしないんだよ」という前例を植え付けその後の協力に消極的になってしまうことを避けたり、内部では活動を率いる先輩が途中で投げ出すことなく続ける姿を後輩に示していくことで、未来の活動を担う若きリーダーを育てていく大人としての責任があるという、まちづくり活動への想いがあった。
 当初は「小諸〜杉並ミートアンドマッチングプロジェクト」という名で始まった活動は、いつからか「こもろ」と「すぎなみ」を掛け合わせた「こもなみ」と呼ばれるようになり、きちんと責任ある活動を行っていくために2009年の夏には事務局が構成され、月1回程度の会合を開いて活動を組み立てていく『こもなみ倶楽部』が誕生した。

■1年目
 小諸での1年目となる2009年は、とにかく荒廃農地の再生にかかった1年だった。当初は農地を覆う藪を刈り取れば畑として再生できるだろうという安易な考えだったが、取り組んでみると大地一面に張ったクズの根に大苦戦。さらに棚田の中の整備がされていない農地のために、田植えの時期になると上層からの水が農地に染み出てきて雑草の成長を助け、夏には人の背丈を上回るまでに成長する状態だった。
 クリスマスリーフや編み籠などに使われるクズの蔓も、30年以上放置をすると人の腕よりも太く成長し、草刈りと称した作業にはチェーンソーやつるはしが登場。その様子は草刈りと言うよりも「開墾」と言う言葉がふさわしい状況だった。
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△ クズの根との戦い

 あまりに先の見通しが立たないその状況に、まずは農地の半分を開拓し、そこで蕎麦を栽培することにした。蕎麦は荒れ地でも育つと聞いたのと、地元の農業委員会が荒廃地対策として蕎麦の種を2年間は無償提供してくれると聞いたからである。
 この年は、なんとか農地の半分を開墾し、蕎麦の種をまき、収穫し、製粉して蕎麦を打つ体験を行った。
 またこの年の夏から、小諸側のメンバーが月に1回程度、杉並区の商店街で産直品販売を開始し、東京側ではその販売の手伝いをするようになった。普段東京から小諸へ行くといろいろと助けてくれる人たちに、東京では手伝いという形でお返しする体制ができた。そして東京側の参加者は、販売する立場から、販売の難しさや販売する商品への知識を学ぶきっかけを得る体験に繋った。
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△ 都心の商店街での野菜販売

■2年目
 2010年冬、近隣の方の好意で農地に重機が入った。これで今年は草刈りに悩まされず、農地一面を利用することができると喜んで迎えた春、参加者が目にした農地は、整備されていない畔から決壊した水で泥沼と化していた。
 こうして2年目はまず水路の整備から幕を開けた。この農地は元は田んぼだったため、田んぼの構造を把握。農地にこれ以上水が入らないように畔沿いに膝下まである深い溝を100メートル以上も人力で掘り進め、水を側溝へ導いた。そして乾いている部分で野菜と蕎麦を栽培し、夏にはわずかながら収穫を楽しむことができた。
 また現地サポーターの手引きで田んぼや梅林の管理もすることになり、田植え・稲刈り・脱穀などの米作り体験や、梅の剪定から梅酒造りといった活動も行った。
そして秋、我々の農地がある地域に、劇的な変化が起こる。それは我々の農地に隣接する耕作放棄地にも重機が入り、うっそうとした林が整地され、この地域に美しい棚田の風景が戻ってきたのである。
 長い間、棚田の中心にあった相続人の農地と隣の農地は、耕作を放棄して以来その地域の景観を損ねてきた。それが我々の再生活動に刺激されたのかどうかはわからないが、隣の農地で10メートル以上に伸びきった放棄林が切り取られ、見晴らしのよい風景が復活し、棚田の下から望む景色の中に、耕作放棄地の木々や草で隠されていた浅間の山々が姿を現したのである。
 これこそが活動の生み出した結果であり、最初は遠くから見ていた地域の方々と、気が付くと会話が生まれるようになっていた。
さらに3年目の継続に向けた課題を抱えていた時、『こもなみ倶楽部』の活動は2010年のトヨタ環境活動助成プログラムに採用され、関係者の士気が一気に高まった。
 その年の暮、農地で収穫した蕎麦を自分たちで打って食べようと行った蕎麦打ちの会場で、たまたま居合わせたご近所の方に活動の話をしたところ、重機や耕運機を使って整地をしてくれることになり、3年目の活動に大きな希望の光が差し込んだのである。

■3年目
 2011年、ついに活動は当初の目標であった3年継続を達成する見通しになった。冬から春にかけて農地には重機が入り、水路整備と農地の耕作が行われ、ついにあの耕作放棄地は立派な畑に姿を変えた。3年前に背丈以上の草々に覆われた農地を前に途方に暮れていたあの頃に比べると、そのすがすがしい景色に一同感激。浅間山から吹き下ろされる風がより一層心地よい。
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△ 2011年4月の農地の様子

 3年目を迎えるにあたり、より地元の人たちとの連携を強めていこうと、作業の始まる前の2月に、小諸市内の温泉旅館で地元の人を交えた討論会を設けた。そこでは「助成金は今年限りで使い切るのではなく先々の活動に使えるものに投資する」、「自分たちで生産したものを自分たちで販売し、種代・苗代は自分たちで稼ぐ」など様々な意見と人間関係が構築され、3年目の計画が整った。
 そして活動に必要な先々まで残るものとして、自動車を購入し、現地に常駐することにした。これにより参加者は都心から車を出さなくとも高速バスや新幹線で好きな時に小諸へ行き、現地で行動ができるようになったのである。

■多世代が集う場
 この活動に参加した最年少は2歳、最高齢は76歳。東京からはこれまで200人近い人が参加をし、小諸で関わった人たちを加えると関係者は400人を優に越える。その活動の場には常に、子どもから20代、30代、40代、50代、60代、そして70代と、多世代の集う場が自然と生み出されている。そして自然を教師にし、自然から学んでいるため、参加者の中での年功序列や上下関係は存在しない。みな自然の前では平等の立場であるのも『こもなみ倶楽部』の特徴と言える。
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△ 多世代が集う場

■これから
 「うちの子が小諸に行くまで続けてください。」 命を宿す大きなおなかを抱え、杉並での小諸の産直販売に顔を出した事務局員の奥方が、おなかをさすりながら販売をしている我々にそう言った。
 都会に暮らすとなかなか触れられない自然から学ぶことのできる場所が、小諸に出来つつある。2011年8月に杉並で誕生する予定のその新しい命が、いつか『こもなみ倶楽部』の活動に参加し、小諸の大自然の中で両親やその仲間たちと共に土や水、緑や風や太陽の光に触れ、そして自然の中で生きる生物や小諸の人々に触れられたら、それはまさに“小諸〜杉並ミートアンドマッチング”そのものである。
 活動を始めた時に掲げた3年継続の目標が達成できた今、我々の次なる目標は、これから生まれてくる子どもたちに、自然から学び、人に触れ、なにより楽しむ場を残していくことにある。
 この3年間、小諸〜杉並ミートアンドマッチングプロジェクトとして始まった『こもなみ倶楽部』は、相続した空室だらけのアパートの活用と、30年以上耕作放棄された農地の再生を通し、様々な出会いや経験を生み出してきた。そこで得た人間関係と体験は、例え『こもなみ倶楽部』の活動がこの場で終わりを迎えたとしても、それぞれの中にずっと残っていくものとなっている。
 だが『こもなみ倶楽部』はまだ終わらない。これからも東京と小諸の間で、明日のまちや暮らしを豊かにするため、活動を続けていく。
 そのために重要なことが何かを『こもなみ倶楽部』は知っている。それは「楽しむ」こと。楽しいから活動が続いていくのだ。
 決して嬉しいこと、容易なことばかりではない。自然を相手にし、そして人の集まりである。時には自然からの厳しい試練や体を酷使するつらい作業もあり、また人間同士の意見の相違から思うように進まないこともある。でも、それらも全て楽しむことが、活動を継続させ、明日の夢を創り出す大事な要素ではないかと思う。

 いろんなことがあるけれど、自然に感謝をしながら、多くの人たちと、昨日を楽しみ、今日を楽しめたら、きっと明日も楽しめる。
 それが『こもなみ倶楽部』。
posted by Coyama at 22:03| 「食」と「農」のこと

2012年06月18日

ブログのタイトル

ブログを始めて150日目。そういえばこのブログのタイトルについて説明したことはなかったので、ここに書いておきます。

もともと僕が10年前にデンマークへの渡欧を決意したきっかけは、冗談でもなんでもなく2000年8月20日のサザンオールスターズ茅ヶ崎ライブでした。
僕はあの日あの場所にいました。
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生まれてからずっと過ごしてきた故郷茅ヶ崎を大学進学を機に離れて4年、当時は東京で暮らしていたのですが、生まれ育った故郷茅ヶ崎はいつでも僕の心の中にありました。
もちろん今でもあります。

あの日、僕の人生で最も熱かった夏の日に、ライブの最後で、桑田佳祐さんが僕にこう言いました。
『茅ヶ崎をよろしく頼むよ!』
それが僕がデンマーク行きを決意したきっかけです。
100mぐらい離れていましたが、たぶんあれは僕に向かって言っていました。
そして僕はそれを受けて、愛する茅ヶ崎を守るため、まずは世界を見に行って、いつか日本を変えよう、そう思いました。

それから2年かけて準備を進め、2002年9月3日に僕は日本を発ちました。
その朝、僕は茅ヶ崎市の実家から羽田空港へ向かいました。羽田空港から関西国際空港へ向かい、そこからロシアのウラジオストックへ飛行機で向かいました。
先の何も見えない不安だらけの出国でしたので、羽田空港で飛行機を待っている間に涙が止まらなくなり、思わずトイレに駆け込みました。
成果を挙げられなければ二度と日本の土は踏まないと強く心に誓ったからです。
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関西国際空港へ向かう飛行機では、僕の席は機体右の窓際でした。
なぜデンマークまで陸路で行くのに、そこだけ飛行機だったのか。きっとそれは神様が用意した粋な演出だったのだと思います。
羽田空港から関西国際空港へ向かう飛行機は、茅ヶ崎上空を通過します。
羽田空港を発って数分後、僕の席から晴れ渡った眼下に見えてきた故郷茅ヶ崎を見て、再び涙が溢れ出てきました。
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そんな時に、機内ラジオからは桑田佳祐さんの歌が流れてきました。

「ROCK AND ROLL HERO」より
ロックン・ロールで Up Up と行こうじゃない Until we die.
艶っぽいショーを人生のために Ah…begin.
ノッて行こうぜPop Pop「死のう」は辛い 夢見たい
青春の同志よ 沈黙は愛じゃない



デンマークに到着して3ヶ月後、僕はクリスマスを本場のヨーロッパで迎え、デンマーク人の友人の家でとても素敵な時間を過ごさせていただきました。
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3ヶ月ではまだまだデンマーク語での会話能力も十分でなく、楽しさと、なかなか意志を伝えられない苦しさに悩んでいた時に、聞いていたのも、やはり桑田佳祐さんの歌でした。

「素敵な未来を見て欲しい」より
愛する誰かを守りたい
不安だらけの世の中だけど
見えない翼を広げたい
明日未来へ羽ばたくために


そして王立芸術アカデミー建築大学より6月末の面接試験を言い渡され、苦しみ始めたデンマークの長い冬。
授業以外は語学学校の寮の部屋に隠り、デンマーク語の勉強に没頭し、周りの友人から『もっと外に出ないとダメだ!』と非難されていた頃、やはり支えられたのも桑田佳祐さんとサザンオールスターズの歌でした。
あの頃は毎晩のように語学が上達しない苦しさともどかしさで、涙で枕を濡らしていました。
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デンマーク語での面接を経て運良くアカデミーへ受け入れてもらい、コペンハーゲンに移り住んで、アカデミーへ通う道すがらずっと聞いていたのも、やはりサザンオールスターズの曲で「涙の海で抱かれたい〜SEA OF LOVE〜」でした。
異国の地でも「やっぱ夏はサザンだな。あぁ、また夏が来るんだな。」と、あの頃は挫けそうになるといつも曲を聴き、気持ちを高ぶらせていました。

「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」より
振り向きもせず 夏は去くけど
また太陽は 空に燃えるだろう
さよなら僕の いとしの Angel
我が身は枯れても 愛は死なない


その頃の僕はコペンハーゲンの郊外に住んでいて、アカデミーへは電車で通っていました。
なので今でもその曲を聴くと、電車の窓から見えてくるコペンハーゲンの街並が頭に浮かんできます。
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アカデミーのバスツアーで行ったオランダで、海外で学ぶ外国人としての厳しさを味わった時にも、帰りのバスの中で、僕は涙をこらえながらサザンオールスターズの曲を聴いていました。
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「雨上がりにもう一度キスをして」より
「時間よ情熱の灯は消さないで」 青春は二度と帰らない
振り向かないで 涙をふいて 明日へと翔び立とう
あの頃は風まかせ 明日へと翔び立とう


そして一つの目標を達成し、日本への帰国の前に向かったグリーンランドの地で聞いていたのも、やはりサザンオールスターズの歌でした。
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「君こそスターだ」より
夜空の花火はもう消えた 祭りは燃え尽きた,Yeah…
だから生まれ変わらないと 歩いていかないと 太陽が照らす道を

うねりくる波に 乗るための勇気を 僕に与えてくれ
行くあてのないほどに つれぬ世の中だけど
頑張る君と 生きた時代に万歳

白いカモメとケセラセラ
新しい旅が始まる



あれから8年が経ち、その間もいろいろなことがありました。デンマークにも何度も行けました。
つらいことや苦しいこともたくさんありましたが、思い返してみると、あの語学学校の寮の部屋で流したような涙は、その時以来流していません。

たぶん乗り越えた先にある何かを、体験して知っているからなのかもしれません。

今、とりあえず先も何も見えない不安の中で、それでも何かをしなければいけない・何かをしたいと思い、よくわからないままに書き続けているこのブログのタイトルには、実はそんな過去の経験と、今の気持ちと、未来への希望が込められているのです。

「明日晴れるかな」より
在りし日の己れを愛するために 想い出は美しくあるのさ
遠い過去よりまだ見ぬ人生は 夢ひとつ叶えるためにある
奇跡のドアを開けるのは誰? 微笑よもう一度だけ
君は気付くでしょうか? その鍵はもう きみの手のひらの上に

why baby? Oh, tell me. 「愛」失くして「憎」も無い?
見て見ないようなフリ その身を守るため?
Oh, baby. You're maybe. もう少しの勝負じゃない!!
くじけそうな Feeling 乗り越えて One more chance.
posted by Coyama at 21:45| どうでもいいこと

2012年06月17日

グリーンランド研究 − グリーンランドの都市/Maniitsoq(マニトソク) −

この町は1755年にKangaamiut(カンガーミウト)コミューネが所有する居留地として建てられましたが、1782年に現在のManiitsup(マニトスップ)コミューネに移されました。

マニトソクとは「ごつごつした場所」という意味で、町はその名の通り西海岸のマニトソク地域の特徴ある美しいフィヨルドに囲まれています。
また美しい群島にも囲まれ、グリーンランド住民がコテージやキャビンなどを建て、自然を楽しむ憩いの地となっています。
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△ マニトソクの港

この地域には4000年以上前に先住民がいたとされ、たくさんの出土品があります。植民地時代からある町の4つの建物は現在は博物館になっており、この土地で見つかった絵画、彫刻、象牙の彫刻、骨や石鹸石、その他手工芸品などの豊富なコレクションが陳列されています。

この町は実際にはいくつかの島々と岬に分かれていて、数えきれないくらいたくさんの階段で建物が繋がれています。
現在は4000人が暮らす町の主な産業はエビとカニです。
しかし伝統的なオットセイ狩りと捕鯨も、自治区の持つ3つの居留地の住民たちには、まだまだ重要なものとなっています。
posted by Coyama at 22:36| グリーンランドのこと

2012年06月16日

人、求む。

昨年の秋に、僕は福島県の飯舘村を訪問しました。
福島第一原発の事件で避難地域に指定された福島県の村です。

飯舘村では地元の農家の方を訪問し、いろいろと話を聞かせていただきました。
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そしてその村で除染活動を試みている人たちから、汚染をどう除去するか。地表の土を剥いだり、放射性物質を吸い上げる植物を育てたり、落ち葉をかき集めたりと、さまざまな考えを聞かせていただきました。
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それらの内容は確かに効果があるのかもしれませんが、実際に村内を巡って広大な地域を目にするとその広大な地域をどうしていくのかという思いになり、関係者の熱意を感じる一方で、風車に挑むドン・キホーテのような非現実的なことのようにも思えてしまいました。
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そしてこの「非現実的」という考え自体が、現代日本人の証のようにも感じました。僕はいつから物事を「非現実的」「現実的」と分けるようになってしまったのでしょうか。

現実的な考えは、汚染されたのだから住民は避難し、村を捨てろ、ということだと思います。
非現実的な考えは、なんとか住民が村に人が戻るよう、努力をしよう、ということだと思います。

「臭いものには蓋をする」という姿勢であれば、現実的な考えでよいのだと思います。

この「非現実的」というものと「夢」というものは似ていると思います。
人はあの夜空に浮いている月に行こうと思い、そして宇宙船を開発し、長い年月をかけ月に行けた。
水平線の先には新たな大地があると思ったから、人は旅に出た。
病気は治せると信じて、治療法を見つけてきた。
これらの行為は、「夢」であり、きっと当時の人々には「非現実的」に写ったことでしょう。

飯館村や福島原発周辺のことは、その土地だけの問題ではなく、日本全体のことだと僕は思います。
もしその土地に戻るように努力をしようという、植え付けられた意識の「非現実」的なことを誰かがしようとしなければ、それはこの国で今後起こることに対して、国民はいつも見て見ぬふりをする、出来ないからと諦める選択をすることになる、ということだと僕は思います。

例えば、あなたの子どもが病気になったら、それは病気になったから仕方がない。はい、おしまい。と言うことです。
これは決して飛躍し過ぎの考えではないと思います。

昨年、知り合いの喫茶店の看板犬に病巣が見つかりました。
飼い主は必死にその犬の延命を願い、またその喫茶店を訪れる常連客の誰もが、その犬の延命を願って治療費や薬代の寄付を申し出ました。僕もその中の一人です。
このことを現実的に考えたら、「たかが犬」、「年老いた犬」、ということになり、犬に対して寄付をすることもない、といういことになるのでしょう。実際、僕と共にその喫茶店を訪れている方の多くは、寄付には消極的でした。

でも実際にそこには、現実的ではない、「人の思い」というものがあると、僕は思っています。
最後の最後まで、出来ることを出来る限りしてあげようという、飼い主や周りの人の「愛」がある。

その出来事を通して感じたのは、愛なき人は、それが犬であろうが人であろうが、決して募金などはしない、ということです。
助かるか助からないかもわからない、現実的ではないことに、自分の身銭を切ることはしないからです。

きっと原発事件で汚染された福島を見捨てるということは、それと同じことだと僕は思います。
遠く離れた土地のことだし、広義のために狭義は仕方のないことだ、と。

今の日本は、残念ながらそう考える多くの“愛なき”人で溢れています。

飯舘村でお会いした農家の方が、このようなことを言ってました。
「津波で流され、何もかもなくなったのであれば諦めがつく。でもそうじゃない。我々には除染あってからの復興なんだ。」

しかし人間は強いなと感じたのは、続いた次のような言葉でした。
「過ぎてしまったことは仕方がない。前を向いていかないと。最近ようやく笑って話が出来るようになった。それまでは本当に無愛想だった。」

その方から最後にいただいた名刺には、次のようなことが書かれていました。
原発事件の前に作った名刺だそうです。
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*****
地球の贈り物 大自然の恵みを大事にする
山のこだわりや
農家 ○○○○
*****

○○○○の部分にはその方の名前が入っています。素敵な名刺でした。
しかしそんな名刺に書かれていた文言も、あの日以来一変してしまった。

名刺に書かれている、地球の贈り物、大自然の恵みを破壊したのは、原発も津波でもない。人間です。
そして本来、人間という生物そのものも、地球の贈り物だったはずです。

「来年の為に花を植える、20年後の為に木を植える、100年後の為に人を育てる。」という言葉があります。
今の日本に必要なのは、“非現実なこと”に挑む「人」、“夢”を追う「人」だと僕は思います。
そして必要ないのは、「夢では食べていけない」とか「現実を見ろ!」と唱える、飾り立てた花を愛でる人たちです。

お金がなければ食べていけないという理論は、飯館村では通用しません。
お金があったって食べていくことの出来ない現実が、そこにあるのです。
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真に身についた学問にするには、自分自身にあてはめ、深く思い考え、そしてゆったりと学ぶこと。
福島の原発事件ことは、遠い異国のことではなく、日本で起きていることです。
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今の日本人の多くの方々は、失礼ですがもう少し、知見を広げ学んだ方がよいと、僕は思います。
posted by Coyama at 22:34| 思ったこと・感じたこと