2012年05月14日

自力本願と他力本願

「自力本願」とは、読んで字のごとく、『自分の力で事を成す』という意味で、時代の流れの中で作られた俗語だそうです。
しかしこの言葉は、この世の全ての事における基本的なことだと僕は思います。

一方でその対義語のような意味で「他力本願」という言葉を使う方もいるのですが、「他力本願」というのはそもそも『他人の力で事を成す』という意味ではありません。
ここらへんは結構多くの人が勘違いをしている部分だと思います。

僕の周りにも「自分のモットーは他力本願です」と言っていた人が何人かいました。
その人たちが使われていた他力本願は、聞いていると『自分ではなく他の力によって事を成す』という間違った意味で使われていて、他人の尽力をあてにして自分自身で努力をしようという姿勢があまり見られませんでした。
結局のところそのような人たちには『本願成就』は訪れませんし、実際も訪れてはいないように感じています。

そもそも「自力本願」の俗語とは違い「他力本願」というのは仏教用語で、その人が何かを成そうとする際に、本人の努力の上に阿弥陀仏の加護があって成就する、といったような意味です。

そのように考える事で、仏への感謝の気持ちを呼び起こすわけです。
これが「自力本願」だと思っていると『全ては自分の実力の賜物だ!』と驕り高ぶるようになり、人は堕落をしていくことから、「教え」として編み出されたのが「他力本願」という考えなのではないかと推測します。
このことは他には「天は自ら助けるものを助ける」という言葉でも知られています。

つまりは「自力本願」であろうが「他力本願」であろうが、「本願成就」を願うのであれば必要とされるのは『自分の努力』なわけです。

僕は特にこれといった宗教は持ちませんが、この仏教の「他力本願」の考えは、僕がこれまで生きて体感してきた中で、考え方としては間違いではないと思っています。

『自分ではなく他の力によって事を成す』という意味の言葉では、「棚から牡丹餅」ということわざがあります。「棚から落ちてきた牡丹餅が、ちょうどあいていた口に落ちておさまること」という事例から『思いがけず幸運が舞い込む』という意味で古くから使われていることわざです。

世の中のことは全て偶然ではなく必然だといいますが、自分で努力をすることなく他人の力でなんとかしようと企む考えで言えば、本来「他力本願」ではなく「たなぼた」のほうが正しい言葉の使い方になるのではないでしょうか。

兎にも角にも、自分自身の努力なしに物事は前には進みません。
また阿弥陀仏としての『他力』があるとしても、個人的には非科学的なそのようなことが毎回毎回起こるものだとは僕は思っていません。
もし阿弥陀仏だとか神様仏様だとか、そのような都合のいい人(?)が存在するのであれば、そもそもこの地球上に悲しい事件や事故など存在しないと思うからです。

神様や仏様への信仰を否定するつもりはありません。ただ、それらを100%信頼するのではなく、話半分程度に信頼し、自分が今生きているこの世では、何か本願を成就したければ、全ては自分の努力次第、と思う方がよいと僕は思っています。

そして本願成就をした際には、それは自分自身の努力もさることながら、多くの人の助けがあって成ったものと感謝をし、そのような人々に出会わせてくれた偶然と言うか必然に感謝する対象として、偶像である神様仏様にとりあえず感謝をしておく、といったぐらいの信仰でよいのだと思います。

でないと『なぜ自分はこんなにも努力しているのに神様仏様は助けてくれないのだ!』と寺に火を放つ不届き者も出てきてしまうでしょうからね。

そういったわけで、僕自身が思う事は、日々是精進。切磋琢磨。すべては自分の努力次第。
焦らず慌てず腐らずに、他人の力をあてにはせず自らの努力を日々重ねる。自分はそんな人間であり続けたいと、切に願っています。
posted by Coyama at 20:34| 思ったこと・感じたこと