2012年05月16日

1600年代 − デンマークとスウェーデンの戦い/絶対王政 −

ロスキレ条約の後、再起を試みたフレデリック3世王はネーデルランド(オランダ)と再び同盟を組みます。しかしこの動きを察知したスウェーデンのカール10世王は1958年の暮れにロスキレ条約を破棄して再びデンマークへ侵攻します。そして1659年7月17日、スウェーデン軍がコスーア(Korsor)に上陸し、軍を西へ進めコペンハーゲンを包囲します。

しかしこの時、フレデリック3世王は降伏せずに同盟を結んだオランダやブランデンブルグ、ハブスブルグからの援軍を信じて待ち、コペンハーゲンを死守することを選択します。そして堅い意思を誓ったフレデリック3世王の下でデンマーク軍とコペンハーゲン市民は一丸となりコペンハーゲンの街を死守するのです。
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△ 1659年のコペンハーゲンの攻防の様子

やがてオランダの援軍が到着し、スウェーデン軍は撤退を余儀なくされます。
こうしてデンマークはスウェーデン軍の侵略からコペンハーゲンを守り切りました。

そして1660年2月13日、カール10世の死去により、後に北方戦争と呼ばれるバルト海一帯を巻き込んだこの一連の戦争は終結を迎えます。1660年4月にはコペンハーゲン条約が結ばれ、デンマークはロスキレ条約で奪われたトロンハイムとボーンホルム島を返却されます。
しかしこの時、スコーネ地域は取り戻すことが出来ませんでした。これによりデンマークの首都であるコペンハーゲンは国の最東の街となりました。
そしてこれ以降、この東のスウェーデンとの国境の位置は現在まで変わることがありません。

コペンハーゲン条約が結ばれた1660年、先の戦いでデンマーク軍とコペンハーゲン市民を指揮してコペンハーゲンを死守したフレデリック3世王の支持率は圧倒的に高まりました。そしてこれを機にフレデリック3世王は貴族、教会、市民からそれぞれの代表を集めた大規模な集会を開き、今後のデンマークの政治の方針についての議論がされました。ちなみにこの時は農民の参加は許されませんでした。

当然のことながらデンマークの貴族たちは自分達へのより強い権力を求め、税の免除を考えました。しかし会議の召集の段階で結論は当初から決まっていました。それは当時フランスより持ち込まれた絶対君主制度の導入でした。
絶対君主制度とは国の王が政治、教会、軍隊、裁判所のすべてを統括する制度で、別名、独裁政権とも呼ばれています。 度重なるスウェーデンとの戦争や、スウェーデンとポーランドの王位継承問題などが誘因となり、貴族から次王の決定権が奪われ、そして王の世襲はつねに前王の一番上の息子がなることに定められました。
多くの国民は支持率の高いフレデリック3世王1人がすべての決定権を持てば国が平和になるだろうと考え、この制度には賛成でした。
そしてここに、1865年まで続くデンマーク王室の絶対王政が誕生するのです。
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△ 1660年の絶対王政宣言式の様子。右に見えるのがコペンハーゲン城

またデンマーク連合国のなかでも重要な位置を占めていたスレスヴィグ公国とホルステン公国の大きな事務局がコペンハーゲンに設置されました。この2つの公国からデンマーク政府に出向してくる貴族も多く、上層部の職員のほとんどはホルステン公国から出向してきている貴族でした。そのため当時のコペンハーゲンの重要な機関ではデンマーク語とホルステン公国が使用するドイツ語の両方が使われ、王室でもドイツ語が使用されていました。

1683年にはコンゲンスニュー広場にシャルロッテン宮殿が建設され、1696年にはクリスチャンハウンにデンマークで最初のバロック様式のVor Frelsers教会が建設されます。ちなみにこの時の教会にはまだ現在のような塔はありませんでした。現在の塔が付け加えられるのは半世紀後の1752年のことです。
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△ 1696年設立のVor Frelsers教会。塔の上部は1752年に増設されたものです。
posted by Coyama at 21:37| コペンハーゲンの都市史

2012年05月15日

首長の器

(※後日要修正)
先日とある在宅医療系のシンポジウムの手伝いをした際、シンポジウムにパネラーとして参加をしていた開催地の首長(市区町村長)の発言に対し、数人の関係者から「あの首長は何もわかっていない!」と憤慨している言葉を耳にしました。

でも僕は、そうやって憤慨している人たちのほうが、何もわかっていない、と思います。
なぜなら多くの首長には最初から聴講者を満足させられるような言葉を発するだけの知識を持っていないからです。

持っていないと言えば語弊があります。もしその首長が首長になる以前に在宅医療に関係する職務に就かれていたのでれば、その方は在宅医療に対する知識を持っていて、きっとシンポジウムなどの場でも聴講者が満足するような意見を述べられたことでしょう。

考えてみればわかる事だと思います。
人一人が持ち得る知識なんて、それほど大した量ではありません。

しかし首長ともなると、前述のシンポジウムのような場を始め様々な分野の場にかり出されて、発言を求められます。
その際に、自分たちが満足のいくような専門的知識を持った発言がもらえるかと言ったら、もらえるわけがないのです。

首長も我々一般市民もあまり人間の器は変わりません。首長だから特別素晴らしい頭脳の持ち主だというわけでもないのです。
例えばあなたが、自分とはあまり関係のない分野の場において発言を求められ、聴衆を満足させられるような専門的な話が出来ますか?
出来ませんよね?
その分野に関しては知識がないんですもの。首長も、それと同じなのです。

ましてや首長にもなると日々の業務をこなしながら、あちこちいろいろな場所にかり出されるわけです。
しかし首長には何か問題課題がある事に対し、一から勉強をしている時間などありません。

今日在宅医療のシンポジウムに参加していた首長は、次に環境関係のシンポジウムに顔を出し、翌日には子育て、翌日には科学技術関係の会合など、様々な場にかり出されるわけです。
そんなに幅広い分野に対してその場その場ごとに気の効いた発言ができる首長など、まずいないと思って間違いはないでしょう。

例えば在宅医療の知識がない首長が在宅医療関連のシンポジウムに呼ばれた時には、首長の下にいる役所の役員が原稿を用意する事になります。
首長はその原稿を事前に受け取り、あとは自分の言葉を少しアレンジさせて話をするだけです。
ですので講演などであればよいのですが、トークディスカッションなどになってくると、とたんに粗が出てきます。

つまり優れた政治を行える政治家は、いかに多くの幅広い分野のブレーンを抱えていられるか、優秀な部下を抱えているか、役所の職員が優秀か、ということになります。
またもちろんそれだけではなく、本人が時にアドリブを効かせられるような人物として、いかに首長になる前に様々な分野に触れ、体験し、学んできたかということが重要になります。

それは何も首長にだけ言える事ではなくて、国の代議士もそうですし、自治体の議員も同じ事です。
特に最近では「若さ=新しさ」といった理論のすり替えで、いかにもそれが革新的なイメージを与えようとする戦略が目につきます。
僕からしてみるとそれらは低能きわまりない戦略に思えてしかたありませんが、それでも世の中には20代30代前半の若手政治家が多く誕生しているのですから、住民もそれなりの低能さ加減だと言われても仕方がない事だと思います。

もちろんその役職に就いてこそ学べることはたくさんあるでしょう。ただしその前に、学んでおかなければならないことはたくさんあると思います。

人生の酸いも甘いも知らず、楽な道を歩み苦労を味わった経験もない人に、政は務まらないと、僕は思います。
これからの時代の政治家は、票に繋がる強者ではなく、いかに弱者に寄り添えるかが求められてくるのではないでしょうか。

そんなことはないと反論する人たちも多いでしょうが、そんなことはあるというのは、平成昭和以前のずっと昔から、それも国内国内に限らず、人類の中で語り継がれてきている通説や教訓ではないかと僕は思います。

もっとも昔は20代や30代前半でも考え方がしっかりしている成人もいましたし、今の時代程に多岐にわたる知識を必要としませんでしたので、若くても中には優れた政を行える人物もいたと思います。
しかし今の時代、首長や政治家たるもの幅広い知識と、多角的に物事を見て対応出来る人格が昔以上に必要とされます。

首長となる人にそれを求めはしません。首長はなりたくてなれるものではないからです。
選ぶのは国民・市民の住民です。

単純に、低俗な住民が選んだ首長は低俗、高尚な住民が選んだ首長は高尚ということです。

そうなると今の東京都民は低俗な住民・・・と思われる方が多いと思いますが、あれは大半が組織票によるものですし、それについては触れずに僕の心に止めておこうと思います。
posted by Coyama at 22:02| 思ったこと・感じたこと

2012年05月14日

自力本願と他力本願

「自力本願」とは、読んで字のごとく、『自分の力で事を成す』という意味で、時代の流れの中で作られた俗語だそうです。
しかしこの言葉は、この世の全ての事における基本的なことだと僕は思います。

一方でその対義語のような意味で「他力本願」という言葉を使う方もいるのですが、「他力本願」というのはそもそも『他人の力で事を成す』という意味ではありません。
ここらへんは結構多くの人が勘違いをしている部分だと思います。

僕の周りにも「自分のモットーは他力本願です」と言っていた人が何人かいました。
その人たちが使われていた他力本願は、聞いていると『自分ではなく他の力によって事を成す』という間違った意味で使われていて、他人の尽力をあてにして自分自身で努力をしようという姿勢があまり見られませんでした。
結局のところそのような人たちには『本願成就』は訪れませんし、実際も訪れてはいないように感じています。

そもそも「自力本願」の俗語とは違い「他力本願」というのは仏教用語で、その人が何かを成そうとする際に、本人の努力の上に阿弥陀仏の加護があって成就する、といったような意味です。

そのように考える事で、仏への感謝の気持ちを呼び起こすわけです。
これが「自力本願」だと思っていると『全ては自分の実力の賜物だ!』と驕り高ぶるようになり、人は堕落をしていくことから、「教え」として編み出されたのが「他力本願」という考えなのではないかと推測します。
このことは他には「天は自ら助けるものを助ける」という言葉でも知られています。

つまりは「自力本願」であろうが「他力本願」であろうが、「本願成就」を願うのであれば必要とされるのは『自分の努力』なわけです。

僕は特にこれといった宗教は持ちませんが、この仏教の「他力本願」の考えは、僕がこれまで生きて体感してきた中で、考え方としては間違いではないと思っています。

『自分ではなく他の力によって事を成す』という意味の言葉では、「棚から牡丹餅」ということわざがあります。「棚から落ちてきた牡丹餅が、ちょうどあいていた口に落ちておさまること」という事例から『思いがけず幸運が舞い込む』という意味で古くから使われていることわざです。

世の中のことは全て偶然ではなく必然だといいますが、自分で努力をすることなく他人の力でなんとかしようと企む考えで言えば、本来「他力本願」ではなく「たなぼた」のほうが正しい言葉の使い方になるのではないでしょうか。

兎にも角にも、自分自身の努力なしに物事は前には進みません。
また阿弥陀仏としての『他力』があるとしても、個人的には非科学的なそのようなことが毎回毎回起こるものだとは僕は思っていません。
もし阿弥陀仏だとか神様仏様だとか、そのような都合のいい人(?)が存在するのであれば、そもそもこの地球上に悲しい事件や事故など存在しないと思うからです。

神様や仏様への信仰を否定するつもりはありません。ただ、それらを100%信頼するのではなく、話半分程度に信頼し、自分が今生きているこの世では、何か本願を成就したければ、全ては自分の努力次第、と思う方がよいと僕は思っています。

そして本願成就をした際には、それは自分自身の努力もさることながら、多くの人の助けがあって成ったものと感謝をし、そのような人々に出会わせてくれた偶然と言うか必然に感謝する対象として、偶像である神様仏様にとりあえず感謝をしておく、といったぐらいの信仰でよいのだと思います。

でないと『なぜ自分はこんなにも努力しているのに神様仏様は助けてくれないのだ!』と寺に火を放つ不届き者も出てきてしまうでしょうからね。

そういったわけで、僕自身が思う事は、日々是精進。切磋琢磨。すべては自分の努力次第。
焦らず慌てず腐らずに、他人の力をあてにはせず自らの努力を日々重ねる。自分はそんな人間であり続けたいと、切に願っています。
posted by Coyama at 20:34| 思ったこと・感じたこと

2012年05月13日

男たちへ

(※後日要修正)
塩野七生さんの著書で「男たちへ」というエッセイ本があります。
『ローマ人の物語』で知られる塩野さんが主にイタリアと日本に両足を置く視点から書かれた「男性」に対しての痛快エッセイです。

別に海外の男性が優れているとは言いませんが、昨日情けない日本の男性たちに何度か遭遇する事があり、このタイトルが頭に浮かびました。

昨日は杉並区某所のイベント会場で小諸の産直販売があり、僕は売り子としてお手伝いに行きました。
僕が住んでいる多摩から杉並へ行くには、一度新宿に出てから丸ノ内線か中央線で折り返す形になります。

そんな丸ノ内線に乗り換えるために待っていたホームでの事。
僕は列の先頭にいて、ドアに向かって左側に立っていました。
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ホームに電車が近づくと降車する人の姿が見えたので、僕は降りる人が出やすいように脇にズレました。
当然僕の後ろに並んでいた人たちも僕に習って横に移動します。

ところが、ドアに向かって右側に立っていたおじさんは、横に避ける事なくドアの前に立ったままでした。
当然降りる人たちの邪魔になります。
本来なら1つのドアから2人が同時に出られるわけですが、ドアが開いてもホームのおじさんが邪魔をしているので片側から1人ずつしかホームに出られません。
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しかも、車内から降りる人が数人いるにも関わらず、なんとそのおじさんはドアが開くとすぐに電車に乗り込み、空いている椅子を小走りで目指して座りました。
さらにそのおじさんの後ろに立っていた別のおじさんも、同じ行動をしました。
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この2人が乗り込んだ時には、まだ降りる人がいましたので僕はホームに立っていたのですが、乗り込んだおじさん側の3人目以降の人は、きちんと降りる人が全員降りるまでホームに立っていました。


その後僕はイベント会場へ向かい、産直販売の手伝いをしていました。

するとそこに、以前数回お会いした事のある方がやってきました。
どうやら会場の別の催し物に参加するために来られたようなのですが、僕を見かけるなり「どうもどうも」と近づいてきて、その方が主催するイベントのチラシを渡してきました。

内容は杉並で行われるチャリティーイベントなのですが、その開催日が27日(日)となっています。
その日は僕が関係している「こもなみ倶楽部」で小諸での活動予定が入っているので、僕はその方に「この日は『こもなみ倶楽部』でも小諸なので残念ですが無理ですねぇ」と言いました。

するとその方は、「うん、だから周りに宣伝しておいて。」と言い、去っていきました。

もしその方が、同じ杉並区で行われている「こもなみ倶楽部」の活動に参加をしてくださったり、周囲に活動の宣伝をしてくださったりと、普段から何らかの交流があるのであれば、「宣伝しておいて」というのはわかります。

昔から日本にある「互助」という行為ですよね。

ただ普段から何も接点もなく、話は知っていても参加もなければ宣伝をしてくれるわけでもなく、しかもイベントが重なっている活動に対して自分たちの活動を宣伝してくれと言う、その考え方が、僕は情けなく感じられました。
チラシを個人的に渡すのであればわかります。しかし重なっているイベントの主催側に対して「周囲に我々の宣伝をしてくれ」というのは、良識のある大人であれば控える言葉でしょう。

いただいたチラシを見るとその方が実行委員として名が出ていました。
失礼を承知で申しますが、僕はそのような方が行うものは、チャリティーイベントでもなんでもない、ただの自己満足イベントにしかならないと思います。

些細なことなのかもしれませんが、いわゆる「自助・互助・共助」の精神を持たぬ人は、人を巻き込む活動を行わない方がよいと僕は思っています。ましてやチャリティーだなんてもってのほかです。

その後産直販売は盛況なうちに終わり、夕方帰路についたのですが、京王線に乗り換える新宿駅で、驚くような光景を目にしました。

僕がホームに着いた時にはまだ電車は来ていなく、ホームで並んで待っていました。
前には数人の人がいましたが、新宿駅は始発という事もあり、これまでの経験から僕の立っている順番ではたぶん座れるだろうな、と思いながら電車を待っていました。
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そしてホームに電車が到着し、乗車とは反対側のドアが開いて中の人たちが降車すると、乗車側のドアが開き、並んでいた人たちが我先にと椅子取り合戦を始めます。
とは言ってもみなさんいい大人たちですから、基本的にはドアに近いところから順に席が埋まっていくわけです。
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僕も順番に乗車し、空いている席に腰を下ろしたのですが、ふと前に目をやると、ホームで僕の後ろに立って待っていた40〜50代ぐらいの女性が僕の斜め前の空いている席に座ろうとしました。

座ろうと席の前に立った次の瞬間、隣のドア側からものすごい勢いで駈けてきた50〜60代ぐらいのおじさんが、なんとその女性を遮ってその席に座り込んだのです。
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一瞬の出来事でしたが、その女性もビックリしていましたが、僕もビックリしました。

僕がその女性に席を譲ってもよかったのですが、その女性はその後気分を害したのか、電車から出て行ってしまいました。
男性は「やった、座れたぜ」と勝ち誇ったような顔で、悪びれる様子もなく座っていました。

西洋ではまず見かけない光景でしょうし、日本でも以前はそれほど見かけなかったですし、僕であればまず年配であろうが年下であろうが女性とはち合わせたら、まず女性に席を譲ります。

どのような状況においても、優先順位というのは、女・子どもが先だと、僕は思います。

男が我先に飛び出す、女性が目の前で座ろうとしていた席を奪う、などということはまず成熟した社会ではありえないことです。

先の丸ノ内線で我先に乗り込んだおじさんたち、互助の精神のないイベント企画者、女性から席を奪った男性。
最近やたらとそのような日本人男性が増えていると僕は感じています。

いわゆる『民度』が低いのだと思います。
僕がデンマークで暮らしていて感じる日本との大きな違いは、『大人の成熟度』の違いです。
僕の周りにも『大人』として成熟しきれていない成人男性は多いです。本当、情けないです。

みなさんもどうぞお気をつけ下さい。
と言うようなことを読んで「そうそう」と思うあなたも、実は自分では気づかずに情けない言動をしていることもあるかもしれませんよ。
時に自分を、客観的に見つめてみる、そんな訓練も大切です。

西洋人が日本人よりも遥かに成熟しているのは、そのような客観的視点を身につけるためのディベートによる訓練の賜物なのかもしれませんね。

こういう事を書くとなんだか情けない気分になり、周囲の成人した日本人男性がみな情けない大人に見えてくるわけですが、必ずしも今の世はそのような情けない日本人男性ばかりではありません。

昨日の産直販売が終わりかけた頃、販売テントに小学校3〜4年生ぐらいの一人の男の子がやってきました。
その手に40円を握り、「40円で買えるものはありませんか?」と我々に聞いてきます。

その日チンゲンサイが1個30円で売っていましたがそれもすでに売り切れており、そもそも40円で買えるものはそれ以外にはありません。

一通り販売テントを眺めた男の子は、母の日用に販売をしていた400円のカーネーションの鉢植えに目を留めました。
一瞬、400円が40円に見えたのでしょうね。
「はぁ〜、400円かぁ、、、」とつぶやきます。

僕はその時、心の中で「残念だけど40円で買えるものはここにはないよ。」と思いました。
ところが次の瞬間、産直の主催者のNさんが「じゃあこのカーネーション、40円でいいから持っていきな。そのかわりちゃんとお母さんにあげるんだよ。」と言ったのです。

当然仕入れ値からしたら赤字になるわけで、商売としては成り立ちません。
しかし、素敵な判断ですよね。
もちろんみなにみなそれを行ったら商売にもなりませんが、市も終わりかけの頃でしたし、内容もとても素敵なことだと思います。

きっとNさんのその粋な判断を、男の子は40円でカーネーションを買ったその時には、全てはわかっていないと思います。
しかしそのカーネーションを母親にあげた時、母親の言動一つで、その男の子の中に差額の360円以上の価値が生まれるものになると思います。

母親が「40円で買ったなんてラッキーね。もうけたわね。」と言うか、感激して「ありがとう」と言うと共に「40円で特別に売ってくれたおじさんにちゃんと感謝をするんだよ。」などと言えるかで、ひとりの未来の日本人男性の成熟度が変わってくると思います。

でもおそらく、その男の子はカーネーションを手にした時に、大きく元気な声で「ありがとうございました!」とお辞儀をして去っていったので、母親はきっと後者のような言葉をその子に伝えてくれる事でしょう。

今日こうしてこのようなことを書いたのは、何も人に対して「男とはこうあれ!」と言いたいわけではなく、昨日出会った上記の情けない日本人男性たちを非難するつもりで書いたわけでもありません。その年齢でそのような行動をとられていたら、残念ながらもう治し用がないですからね。
自分自身に対して、少しでもよい大人になれるよう、思った事を綴ろうと書いたまでです。
人の振り見て我が振り直せ。自分は情けない大人にならないよう、気をつけたいと思います。
posted by Coyama at 20:23| 思ったこと・感じたこと

2012年05月12日

1600年代 − デンマークとスウェーデンの戦い/氷上侵攻 −

デンマークとネーデルランド(オランダ)は強大化するスウェーデンの動きをよく思わず、1657年にデンマークとネーデルランドは同盟を結んでスウェーデンに宣戦布告します。
この時、スウェーデンのカール10世王はポーランドにいたスウェーデン軍をドイツ方向へ向かわせます。
スウェーデン軍は中立の立場をとっていたブランデンブルグ公国を抜け、さらにスレスヴィグ=ホルステン公国を抜けて北上し、一気にユラン半島を制圧します。カール10世と婚姻関係にあったスレスヴィグ=ホルステン公国はこの時スウェーデン軍の侵攻を黙認したとされています。

カール10世がユラン半島を制圧したのは1657年の暮れにかけてであり、すぐに北欧では厳しい冬の季節が訪れていました。
この時、デンマークのクリスチャン3世王は海上での戦いに備え、コペンハーゲン沖で大艦隊を整備していました。しかしこの年、1657年の暮れから1658年にかけてスカンジナビアを大寒波が襲います。そしてデンマークを囲む海は氷で覆われ、デンマーク艦隊は氷に閉ざされました。
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△ 今でも冬になると海が凍る様子を時々見ることが出来ます

1658年1月30日、ユラン半島に停留していたカール10世王率いるスウェーデン軍の戦闘部隊は、なんとその寒波により氷結した小海峡と大海峡の上を島伝いに歩き始め、ユラン半島からフュン島、シェラン島までを一気に渡り切り、2月5日には全軍がシェラン島へ上陸しました。
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△ この海が凍り、そしてその上を歩いて渡ったんだぜぇ〜?ワイルドだろ〜?

そしてシェラン島を西へ移動したスウェーデン軍はあっという間にコペンハーゲンの街を包囲します。
この予期せぬスウェーデン軍の奇襲に、デンマークのフレデリック3世王はなす術がなく降伏をしました。

こうして2月26日にロスキレ条約が結ばれ、デンマークはボーンホルム島とスコーネ地域、ノルウェーのトロンハイムの領地をスウェーデンに譲渡させられたのです。
posted by Coyama at 23:04| コペンハーゲンの都市史