2012年05月26日

グリーンランド研究 − 植民地時代 −

1721年に、グリーンランドはスカンジナビア人により再び植民地にされます。

デンマーク連合国のノルウェー人宣教師ハンス・エゲデは、キリスト教への信仰が薄れていたスカンジナビア居住地に再び信仰を広めるためにグリーンランドへと渡りました。
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△ ハンス・エゲデの布教の様子

現在の首都・ヌークにその拠点を置いたハンス・エゲデの使節団は、布教だけではなく貿易所を拠点にイヌイット住民やオランダ人とも交易を行いました。
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△ ハンス・エゲデ牧師の頃のヌーク

ハンス・エゲデの使節団は18世紀を通しグリーンランドの西の海岸沿いに多くの貿易拠点を開拓していきました。
1774年には国の貿易管理機関としてロイヤル・グリーンランド貿易機関が組織され、貿易における価格の管理が行われるようになりました。

さらにハンス・エゲデ使節団や他の使節団は、人々のライフスタイルをより耐久性のあものに変えることを命じられました。そしてこの使節団とロイヤル・グリーンランド貿易機関による貿易ルートの拡大は、グリーンランドに角材や板といった木材を購入することを可能にし、建物の壁や屋根には木が使われるようになりました。
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△ 半木造住宅

多くの木造住宅が続けざまに作られていきますが、壁はまだ厚い芝に覆われていました。
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△ 半木造住宅の内部

この居住形態の変化は次19世紀のグリーンランドの住宅に大きな影響を与えています。

19世紀に入ると、教育機関の整備、世界初の植民地現語での新聞の発行、各地域からの代表により運営される地方自治体制の整備などにより国の文化は様々な形で高められていきます。
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△ 1861年に刊行された現地の新聞

さらにデンマーク語の普及もさる事ながら、現地語であるグリーンランド語は文字という形態を与えられ、教育や宣教活動などを通して残されていきました。
posted by Coyama at 18:57| グリーンランドのこと

2012年05月25日

1800年代 − イギリスとの戦い ー

第一次コペンハーゲン大火災からの復興が続く中、1795年から1801年の間にデンマークの商人たちはヨーロッパで起きたナポレオン戦争を利用し、ヨーロッパ諸国との貿易などで多くのお金を稼ぎました。 デンマークはこの当時、フランス側とイギリス側のどちらに加勢することもなく中立の立場にいました。
しかし1801年、大英帝国海軍が巨大戦艦を引き連れてコペンハーゲンを襲撃します。
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△ 1801年のコペンハーゲン沖の戦いの様子

当時のヨーロッパでは最大規模と言われるこの海上戦でデンマーク艦隊は破れ、デンマークはナポレオン率いるフランス軍には加勢せずイギリス側を支援する制約を交わしました。
しかし1807年、大英帝国は大艦隊を率いて再びコペンハーゲンを攻めます。この時クリスチャン7世王とデンマーク軍隊はユラン半島に滞在しており、イギリス軍はその隙をついたため、コペンハーゲンでは戦闘の準備が出来ていませんでした。
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△ 1807年のコペンハーゲン襲撃の様子

この時代のコペンハーゲンはすでに街全体が巨大な要塞と化していました。街の周囲は屈強な城壁で囲まれ、攻め落とすのは容易ではありませんでした。イギリス軍は大砲やロケット弾を駆使して一気に街を爆撃し、多くの家が破壊され、多くの住民が殺されました。
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△ 1807年のコペンハーゲン襲撃の被害

結果デンマークは降参し、イギリス軍はデンマークにある戦艦のすべてをイギリスに持ち帰りました。この後、デンマークが巨大海軍を持つことは二度とありませんでした。

1807年からナポレオン戦争にフランス側として参戦していたデンマークは、1813年にはスウェーデン軍によりユラン半島を侵攻されます。
敗戦したデンマークはノルウェーの全領地をスウェーデンに割譲することとなります。
さらにバルト海航行のための通航税も廃止させられました。

この時ノルウェー領であったアイスランドやグリーンランド、フェロー諸島は、デンマークの領有として残されました。

この敗戦条約締結の知らせを受けたノルウェー副王クリスチャン・フレデリック(後のデンマーク王クリスチャン8世)は反乱を起こします。
そしてノルウェーは1814年5月17に独立を宣言し、クリスチャン・フレデリックが国王に選出されました。しかしスウェーデンはノルウェーの独立を認めず、王太子カール・ヨハンが軍を率いてノルウェー軍を屈服させました。クリスチャン・フレデリックは王位を捨てて出国し、8月には条約が締結されて、ノルウェー王にはスウェーデンのカール13世が即位しました。これ以降1905年までノルウェーはスウェーデンと同君連合となりました。

ナポレオン戦争での敗退により、それまでデンマーク大国が治めていた土地は激減し、デンマーク大国はデンマーク、スレスヴィグ、ホルステン、アイスランド、グリーンランド、そしてフェロー諸島だけの小さな国になりました。
さらに穀物の主要輸出国であったイギリスは自国保護のための関税を引き上げたため、デンマークの農村は衰退して商業も不振となり、デンマークの紙幣はその価値を失い、国のすべての銀行が破産しました。
posted by Coyama at 22:45| コペンハーゲンの都市史

2012年05月24日

グリーンランド研究 − ヨーロッパ文明 −

その後もアイスランドやニューファンドランド周辺の北大西洋海域は優れた漁場として利用され、北欧やイギリスなどから多くの漁船がやってきていました。

1570年代と1580年代にMartin FrobisherとJohn Davisの2人のイギリ人がグリーンランドとカナダの間の海を航海し、ヨーロッパ人がカナダのエスキモー住民と接点を持つきっかけとなる北西ルートを開拓しました。
ちょうど同じ頃、オランダ人が西グリーンランドの海域にホッキョククジラが多数生息していることを発見し、クジラの脂とクジラのひげの貿易市場を開拓していきます。
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△ ヨーロッパの捕鯨船による捕鯨の様子

しかしこの行動はヨーロッパの各国で海域権論争を巻き起こし、特にデンマークの王はノルウェーの海として知られていた北大西洋地域の歴史的統治権を主張しました。

そしてこれを機に、1605年からデンマーク−ノエウェー連合国(すでにスウェーデンは脱退)は再びグリーンランドの開拓を始めます。しかしオランダ人は捕鯨活動を続け、その行動は規制される17世紀の終わりまで続きました。
posted by Coyama at 22:26| グリーンランドのこと

2012年05月23日

1700年代 − 王立芸術アカデミーの設立 ー

1754年、デンマーク王立芸術アカデミーがクリスチャン宮殿に設立され、フレデリクス地域計画などを手がけたニコライ・エイトヴェドが初代校長に就任します。
しかしニコライ・エイトヴェドは就任まもなくして亡くなってしまい、新たにフランスから連れてこられたニコラス-ヘンリー・ジャーディン(Nicolas-Henri Jardin)が校長となりました。ニコラス-ヘンリー・ジャーディンの就任により、デンマークには当時のヨーロッパ諸国での建築の主流となっていた古典主義に遅れることなく、建築にそれらの要素を取り込むことが出来ました。
アカデミーでのニコラスの教育はBernstorff宮殿やSølvgade barracksなどによって広まり、フレデリクス教会のような数々の建物に投影されていきました。
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△ Sølvgade barracks(1765-71)現在はDSB(デンマークの鉄道会社)の本社として利用されている

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△ ニコラス-ヘンリー・ジャーディンによるフレデリクス教会の図面

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△ 現在のフレデリクス教会

アカデミーでのニコラス-ヘンリー・ジャーディンの役割は、新しい古典主義の様式をデンマークに伝えるという意味で非常に重要でした。この新鮮で鮮麗さを与える古典主義様式は一般の設計者や施主らによって多く取り入れられるようになり、街の隅々に古典主義の基礎を根付かせました。
このニコラス-ヘンリー・ジャーディンの作ったコペンハーゲンの潮流は19世紀の終わりまで長く続くことになります。
posted by Coyama at 21:47| コペンハーゲンの都市史

2012年05月22日

グリーンランド研究 − スカンジナビア文明 −

バイキングの時代、北欧の人々は北大西洋の西へ勢力を拡大し始めました。そして985年に最初のスカンジナビア人・赤毛のエリック(Erik the Red)がグリーンランドに移住します。

赤毛のエリックは960年頃に父親が殺人の罪でノルウェーを追放され家族でアイスランドへとやってきました。しかし982年に赤毛のエリック本人が近隣とのトラブルで相手を殺してしまい、その処罰としてアイスランドの西にあるとされる未確認の氷河におおわれた大きな島の調査を命ぜられました。
この頃のバイキングはアイスランドとノルウェーやデンマークとの間を頻繁に行き来していました。しかし遭難や漂流する船も多く、その中の一隻がある時アイスランドから西に流され、未確認の島(グリ−ンランド)を発見しました。赤毛のエリックはそれを調査するよう命ぜられたのです。
赤毛のエリックは3年をかけてこの島を調べ、アイスランドへと戻ってきました。

アイスランドに戻った赤毛のエリックは、自らがグリーンランドの指導者となって新しい居留地を作ろうと考え、移住希望者を募集しました。この時、氷河と岩ばかりで植物はほとんど生えていない土地に、よりよいイメージを与えて移住希望者を増やそうとする赤毛のエリックの思惑により、この国はグリーンランド(Greenland)「緑の国」と名付けられ、それが今日に至っています。

こうして985年に赤毛のエリックに引き連れられ最初のスカンジナビア移住者がアイスランドから25隻の船でグリーンランドに向かいましたが、厳しい航海の末に無事に目的地に着けたのは14隻だけでした。
彼らが最初に定住したのはグリーンランドの南の現在のQassiarsuk(カシアースク)という場所であり、彼らはこの地をBrattahildと名付けました。
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△ Brattahildの村様子

現在カシアースクの村の外れにはこのBrattahildの跡地があり、1961年には当時建てられていたとされる”Erikの農場”と”Thjodhildur教会”が再現され、現在は観光スポットとなっています。
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△ 再現されたThjodhildur教会

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△ 再現されたEric the Redの住居

その後Brattahildには新しい移住者が次々と到着しましたが、その中には途中で難破して漂流する船もありました。
ある船はグリーンランドに着く前、西にかなり流され、そこで新たな別の大きな島(カナダ諸島)を見つけます。その報告を聞いたBrattahildの長男のLeif Ericsonは、997年にこの新しい土地を目指して冒険に出ます。
彼は現在のバフィン島を発見した後、さらに南下をしていきます。その後Leif調査団は「ヴィンランド」と名づけた場所まで行き、そこに今後の拠点とする基地を築き、1000年にグリーンランドへと戻りました。

帰還後、Leif Ericsonは160人の男女を連れてヴィンランドの基地に移住し、さらに新たな土地を求めて南下を始めます。しかしすでに北アメリカに暮らしていたネイティブアメリカン民族と遭遇し、両民族の間で激しい戦闘が起り、その結果Leif Ericsonとその一団はヴィンランドの基地を放棄し、グリーンランドへと引き返したのでした。

この記録はFlateyjarbokと呼ばれるアイスランドの最古の歴史書に記されています。
その約5世紀後、アメリカ大陸を発見したとされるクリストファー・コロンブスは1477年にアイスランドへ赴き、このFlateyjarbokの記述を元にしてアメリカ大陸へ渡り、そしてその存在をヨーロッパに紹介しました。

赤毛のエリックのスカンジナビア居留地は、経済的にはアイスランドやノルウェーとの繋がりに依存し、産業は農業とアザラシ漁を中心に組織されていました。先住民であるイヌイットともセイウチのキバやイッカクのキバなどの交易を行い、それらはヨーロッパに高い価値で取引されていました。

1124年にはスカンジナビアの居留地にカトリックの宣教師が赴任し、1261年にはスカンジナビア居留地は正式にノルウェーの一部となりました。
そして1397年にデンマークがノルウェーやスウェーデンと連合を組むと、ノルウェーが所有していたグリーンランドを含む北大西洋地域はデンマーク王国の統治下におかれることになりました。この当時の関係が、現在もデンマーク領グリーンランドとして続いているのです。

こうしてスカンジナビア居留地は徐々にその規模を大きくしていきますが、15世紀に気候の激しい変動があり北大西洋地域の気温が急激に下がりました。そのためスカンジナビア人のグリーンランドでの生活は困難となり、彼らはアイスランドなどへ戻りました。
ただしイヌイットのテューレ民族はその後も生存し、グリーンランド全土にその勢力を拡大していきました。
posted by Coyama at 22:43| グリーンランドのこと