2012年05月31日

食べられない時の食いつなぎ

ブログを書いている時間がない時や気が乗らない時は、基本的にコペンハーゲンの都市史や他の書き溜めてある記事になります。先週10日近くそれらが続いたのは、ずっと長野県に行っていたからです。

長野では仕事の準備などをいろいろと行っていたのですが、そのうちの3日間は友人の米農家の田植えの手伝いをしていました。
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もともとこれからどうやって食べていくかを検討しなければいけない中、ある人から「例えばお米は知り合いの米農家の田植えでも手伝って現物支給でもらってくるとか。」と言われたので、本当に実行してみました。

1日手伝ってお米10kg。3日で30kg。
一人暮らしではこれで半年分のお米になります。

朝8時半から始めて18時まで。労働を価格に置き換えるとなんだか割に合わない気もしますが、そもそも自分が食べるお米の栽培に関われるというのは贅沢なことです。
ちなみに人間一人が一年で食べるだいたいのお米の量が60〜70kgで、つまりは米1俵60kgというのは、お米1年分なのだとか。
その60kgのお米を自分で作れるかと言ったら、それも出来ません。
田植え3日、稲刈り3日、計6日手伝うと、1年分のお米になって、少なくともお米があればなんとか生きていけます。
365日のうちの6日間で1年分のお米が手に入るというのは、割がいいのか悪いのか。良い方なのではないでしょうか。

そもそも「食えないのであれば、なんとかして食べていくことを考えろ!米は農家の手伝いをしてもらって来い!」と言われ、それを本当に実行出来る人が世の中にどのくらいいるか。
まさかそれを言った人も本当に僕がそれをするとは思わなかったと思います。

それに将来、もし僕の人生がうまく進んで事業が成功するようなことがあれば、いいエピソードになるじゃないですか。
『最初の頃は食えなくて、お米は知り合いの農家の田植えを手伝って、現物支給で食いつないでいました。』なんて。

農業だなんだというのは僕が目指している建築とはまったく異なるものだと思う人も多いと思いますが、基本的に僕の興味は世の中にあるもの全てを覗いてみたい・体験してみたいということですので、田植えの手伝いも僕にとってはやりたいことの一つです。

現場に入って自身で体を動かすということは、書物を読んだり机上で考える以上に大きなことが見えてきます。

頭の中で計画を立てることは簡単なことです。

種をまいて、育てて、収穫する。

この3つの行程は言葉にすると簡単ですが、実際にはいろいろと深いものが関わってきます。
それは体験しなければわからないことです。

僕は子どもの頃、親から「茶碗はご飯粒を残さず食べなさい。農家の人に申し訳ないこと。1粒でもご飯粒を粗末にすると、目が潰れるよ。」と躾られました。
だから茶碗のご飯粒は残さず食べますが、でもそれは頭の中だけのことで、実際に農家の人がどのような苦労をしてそのお米を作っているのかなんて、農業に携わらなければわからないことです。
そして今の時代、都会に暮らす多くの人は、そのことを知ったり体験したりする機会はあまりありません。

きっと大根は種をまいて土から生まれてくるのではなく、最初から自然とスーパーに置かれているものだと思う子どもたちも中にはいると思います。

お米が育つ田んぼには様々な生き物がいるということも、知っている人は都会では少ないのかもしれません。

僕も生まれ育った家の近くに田んぼはあったのですが、ザリガニぐらいしか頭の中の記憶にありません。

今回手伝いをした時には、シマヘビをよく見かけました。
特に手伝いをした日は天気もよく気温も高かったので、蛇たちも活発に動き出したようで、周囲の人も「今年はよく見るなぁ」と言っていました。
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そしてそんなヘビですが、神様の使いと言われていて、ヘビをみかけるのは吉兆なのだそうです。

でもそんな神様の使いも、田んぼの脇の畦の草刈りの際に、よく気がつかずに刈り払い機で切ってしまうのだとか・・・

なんだかとりとめのない話ではありますが、要はそういう経験は都会に住んでいるとなかなか知ることが出来ないことですし、人が生きている中で一生そのようなことに関わらずに死んでいく人は多いわけで、僕はとても貴重な経験をさせていただける環境を持っていることを、ありがたく感じているのです。
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ちなみに僕が手伝ったり普段から食べているお米は、こちらから購入ができます。
http://www.goto-chi.com/seisansya/yoda.htm

いい値段がする、いわゆるブランド米なわけですが、そう考えるとやはり贅沢ですよね。
だから今日もご飯をいただく時には、作ってくれた農家の人に感謝の気持ちを込めて、手を合わせていただきたいと思います。
おいしいお米を、ありがとうございます。
posted by Coyama at 21:50| 思ったこと・感じたこと

2012年05月30日

グリーンランド研究 − 文明開化 −

1818年にはヨーロッパの遠征団が西グリーンランドに新しいエスキモーの居留地を発見しました。
さらに1823年にイギリスの捕鯨漁師たちが、最初で最後の北東グリーンランド人と遭遇しています。
1878年にグリーンランドの地形と地質の調査委員会が組織されると、グリーンランドの全体像が明確になり、1884年にはAmmassalik(アマーサリク)の近くに暮らす東グリーンランド人民族が発見されました。

最も有名なグリーンランド研究家のひとりKnud Rasmussen(1879〜1933)はいくつものエスキモーの文化をまとめあげて文書化した第一人者で、彼の1921〜24年のグリーンランドから太平洋までのそりでのテューレ遠征の記録は、世界的にもよく知られています。

19世紀から20世紀にかけてグリーンランドの文化はさらに急速に発展していきます。
穏やかになった気候によりアザラシ漁は減少しますが、それに変わる新しい魚の産業や羊の放牧が普及していきます。使節団の役割はグリーンランドの教会に受け継がれ、植民地の議会は現地の組織に取って代わりました。

1931年に、ノルウェー国がデンマークの統治権が適用されてなく無人エリアであった東グリーンランドの一部を占領することを宣言しました。しかし1933年にオランダのハーグの国際裁判所は、グリーンランドの全ての統治権はデンマークにあることを認める判決を下します。

1950年になるとグリーンランド議会が国を大きく変える決議書を発行します。
これにより当時デンマークにより命名されていた植民地の名前も現地の言葉へと変えられていきました。
一般的な住宅も単家族の木造住宅が主流になり、現在のテラスハウスの原型が建てられるようになりました。
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△ 最近の住宅の外観

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△ 最近の住宅の内部

植民地時代の古い建物は徐々に取り壊されていきますが、いくつかはそのまま利用され、現在でも使用されているものもあります。

さらに首都のNuukでは大規模な開発が進み、新しく計画されたメインストリートには、1950年〜70年にかけて多くの商店街やサービス機関が建てられ、現在に至っています。
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△ 建設現場の様子
posted by Coyama at 21:22| グリーンランドのこと

2012年05月29日

ストレス耐性

以前ある人が「海外で暮らした経験のある人間の強みはストレスに強い事だ。」と言っていたのですが、僕もその通りだと感じる事がよくあります。

ただ海外で暮らした経験と言っても、短期間ではなく少なくとも1年以上四季を体験して暮らし、かつ僕が以前書いた4タイプの中の“Bタイプ以外の人たち”が当てはまることだと思います。
http://faelles-design.sblo.jp/archives/20120403-1.html

つまり自分の力で異国の地で生きた人。

見知らぬ土地では当然ながら自分から動かなければ誰も助けてはくれません。生まれ育った土地や国で、生まれたときから当たり前のようにある社会の恩恵システムや保障も、異国の地では黙っていては受けられないことが多くあります。
だから生きていくために、自分の人生を前に進めるために、嫌でも自ら動かなければなりません。

そしてそれが言葉が通じようが通じまいが、文化が似ていようが違っていようが、人と人とが関わりを持つという事は、そこには必ず何らかの問題や労力が生じる事になり、それがストレスとなることが多々あります。
その時にそのストレスに負けているようでは、とてもその先にその土地や国では生きていけません。

その人が旅人であれば違う土地へ行けばいい。
しかしその場から移動することのできない何らかの理由のある人は、自らの意思と力で解決しなければ、前に進む事が出来ないのです。
だから異国の地で生き抜いた経験のある人たちは、多少の心労ではへこたれない、善かれ悪しかれストレスに上手に付き合う術を知るようになるのだと、僕は思います。

善かれ悪しかれと書いたのは、それが時にポジティブ思考であることもあれば、ネガティブ思考になる場合もあるからです。
後者の場合は極力人との付き合いを避けるようになってしまったりといったことがあり、そのような人たちに僕は過去に多く出会いました。
人と接するという事は常にトラブルを伴うわけですから、余計なことを抱えたくないと思う人も多く、わからないことではありません。

あまりグダグダ書いても読みづらくなるので簡潔にまとめていきますが、逃げ場のないところで逃げずに生きた人はその後ストレスに強くなる。退路のない地で苦境や逆境を乗り越えた経験のある人は、その後の人生で多少のことでは諦める事なく、前に進む選択肢を選ぶ。やってやれないことないのだということを、身をもって知っているから。
僕は自身の経験からもそう感じています。

ただ、今30代後半の僕が最近感じるのは、20代で夢を追い求めていた人も、30代では現実に目を向けるようになる、ということです。
難しい問題です。人はどこかで見切りをつけなければならない、ということも正しい選択だと思います。

そこで方向転換をするか、諦めずに挑み続けるか、どっちが正しいかは、誰にもわからないことです。
全ては自分が決めること。

ただ一つ、確実に言えることは、諦めても諦めなくとも、人はいつか寿命が来たら必ず死ぬということです。

それは明日かも知れないし、60年70年先かもしれませんが、その最期を迎える時にそれまでの人生を振り返って、「あの時にああしていればよかった」などと後悔することなく、「楽しい人生だった。やれることをやれるだけやった。我が生涯に一片の悔いなし!」と笑顔で死ねたら、どんなに数奇な人生も捨てたものではないと僕は思います。
そして僕は是非そういう生き方・死に方をしたいと思っています。

そのために、僕は今もこの先も、どんなに逆境にあろうが苦悩してもがこうが、自分が決めたことから逃げることはしませんし、自分が信じたことにとことん挑み続けます。

それともう一つ、逆境や苦難を乗り越えた経験のある人間は、それが自分を成長させる最良の教材だということをよく知っている。

この考えを青臭い若者の考えだと思う人もいることでしょう。でも僕は若いのだから言いますよ。
今言っておかないと、もう二度と言えなくなってしまいますし、今言わなければ、いつか死ぬ時に「よい人生だった」と笑って死ぬことができないと思いますのでね。
posted by Coyama at 22:12| 思ったこと・感じたこと

2012年05月28日

挨拶と礼節

デンマークに滞在していた時の事。ある教育施設の食堂で友人とランチをしていた際、以前に数回お会いしたことのある若い日本人女性が同席をしてきました。
拒む理由はありませんので彼女を加えて談話をしていたのですが、会話の中で僕が翌週に別の友人と久々に食事をするということを話すと、彼女は自身の人脈を広げたいのでその場に同席をしてもいいかと迫ってきました。

その後彼女からは頻繁に確認の連絡があるので、僕は先方の友人に許可をもらいランチに同行させました。
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当日、僕と友人と共にランチに同席をした彼女は、最後に僕の友人と、目的であった連絡先を交換して別れました。

しかし事前にしつこく僕に何度もメールや電話で僕に確認をしてきた彼女は、その後はまったくの音信不通。お礼の一言もありませんでした。

人からの世話ではなく自らお願いをし、それをしてもらったら、結果がどうであれ「ありがとうございました」と一言でもお礼をするのは人としての礼儀だと思います。

聞くところによると僕の友人も、その後彼女からは1度も連絡はなかったようです。
おそらく自身が思い描いた事と違ったのでしょうね。

ただ、「おはようございます」や「こんにちは」といった、会った時の挨拶。
「ありがとうございます」という感謝の言葉。
「ごめんなさい」と素直に言える謝罪の言葉。
例えどんなにすごい技術や才能を持っていようと、人としての基本的な挨拶や礼儀が出来ないようであれば、決してその人生は豊かにはならないと、僕は思っています。

そんな経験から、僕自身は「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」を素直に言える、そんな人間でいたいと常々思っていますのと、そのようなことに気づかせてくれた前述の女性に「ありがとう」と、感謝しているのです。
posted by Coyama at 23:08| 思ったこと・感じたこと

2012年05月27日

1800年代 − C.F.ハンセンの都市再建 ー

第二次コペンハーゲン大火災以降の街の再建はC.F.ハンセン(1756-1845)によって指揮され、古典主義様式が建築の主流となりました。
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△ C.F.ハンセン

C.F.ハンセンはコペンハーゲンの他にもホルステン公国の建設大臣として多くの建物を設計し、またデンマーク各地の多くの教会の設計も手がけました。

しかしナポレオン戦争の被害は都市の再建に大きな影響を与えました。財政難により建設事業には厳しい予算が設けられ、再建には廃材を再利用する必要がありました。
古典様式の二代目クリスチャンス宮殿(1884年に消失)は、以前のバロック様式の宮殿の残骸をそのまま使用して建てられました。

昔の教会群があった地域にはVor Frue 教会(1811-29)が建てられ、火災で破壊され市庁舎があったニュー広場にはシティホールと裁判所(1805-15)が建てられました。
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△ シティーホールと裁判所

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△ 裁判所

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△ Vor Frue教会

C.F.ハンセンの建築物は各災害の記念碑的なイメージで建てられ、その古典主義建築はデンマークを国際的な都市に引き上げました。
また彼は長生きをし、1845年に彼が亡くなるまで次世代の育成に大きな影響を与えました。
posted by Coyama at 20:49| コペンハーゲンの都市史