2012年04月16日

食べられないなら食べない。

最近仕事もなく収入も0になった僕に対し「どうやって食べていくの?」と心配される声を聞きます。
それはとてもありがたいことなのですが、それを発した後の発言者の言動は大きく2つに分かれています。

一方は、どうにかしてくれようと仕事を与えてくれようとしたり、声をかけてくれたり、一緒になって考えてくれる人。
もう一方は、人ごとなので、当たり障りのない言葉で閉めて、自身は関わらないから自分でなんとかしなさいよ、という態度をとる人。

もともと過去のいろんな経験から、人間には大きく分けて2種類の人がいる、と僕は思っています。

一方は、自身のした苦労と同じようなことを後輩が直面しようとしている時に、自身の経験からも助けになり、その経験も役立ててもらった上で後輩には苦労を打破して先に進んでいってもらいたい。そうすれば自身の過去の苦労も活かされるものだ、と思う人。

もう一方は、自身のした苦労と同じようなことを後輩が直面しようとした時に、それは人間が生きるということはそういうこと・それを乗り越えて人は成長するものと思い込むようにし、自身が苦労したと同じように後輩も人に頼ろうなどと思わず自分ひとりで乗り切りるべきだ・人に助けてもらおうなどと思うのは甘い。と思う人。

前述の2つのタイプとよく似ています。

どっちが間違いでどちらが正しいとも僕は思いませんが、歴史的には昔から後者の方はあまりよい人生を送っていないと思われるのですが、どうも最近の日本は後者の方の人が多いように感じられます。個人的な勝手な推測ですが。

今の時代、どうやって食べていくか、と考え悩む若者や中高年も日本には多いと感じています。世の中全体が少しおかしい。

それで僕自身もこのままでは7月にはどうにもならなくなるわけですが、そんな僕が僕自身に対して思うのは、「食べられないなら食べなければいい」ということです。

食べられないのだから、それは仕方がないことです。

もちろん、人間という生き物は食べなければいずれ死にます。

生きるため・食べていくために必死に行動して、それで食べていけなくて死ぬなら、それは仕方がないことじゃないですか。
そこで本人がやれるだけのことをやり尽くしたのであれば、その結果で死んでしまおうと、本人には悔いはないと思うんです。

後味悪いのはその人の窮地を本人から聞いていて、見知らぬ振りをした人たち。
もっともそういう人は自分の記憶を自分のいいようにすり替えるので、後味悪くもならないのですが。

でも僕から言わせたら、言い方は悪いですがその人は『殺人者』と一緒だと思っています。

もちろん、食うに困っている人が、「困っている」とも誰もに言わず、相談もせず、自分でなんとか道を切り開こうという努力もしなかったということであれば、それは食うに困っていた本人に非があります。

ただし「助けてくれ」と声をあげたのに、その声を聞いた人がいるにも関わらず、聞いた人たちが何もしなかった、知らぬそぶりをしたのであれば、それは言葉を聞いた人に非があると僕は思います。

最近生活に困り役所に相談に行ったにも関わらず残念な結果を迎えてしまった、ストーカー被害で困って警察に相談したのにもかかわらず残念な結果を迎えてしまったという事件などをよく耳にします。当事者から話を聞いた人たちは、その時の状況判断では何も出来なかった・致し方なかったなどと言いますが、僕からしてみたらそれは記憶のすり替えで本当は何か出来た。一緒に考えることや気にかける、声をかけることぐらいは出来たのにしなかった。しなかったというか、そういうことを出来るということすら、その人の貧しい過去の経験から想像すら出来ない、見た目は大人だが中身は未熟な人間だから困っている人の助けになることが出来なかったのだと、僕は思っています。

しかし本当に今の世の中に、
『金のないやつは俺のところへ来い。俺もないけど心配するな。見ろよ青い空、白い雲。そのうちなんとかなるだろう♪』
なんて歌える大人が減りましたね。
昔の人たちはその後に「互いに金がないんだ。食える方法を一緒に考えようぜ!」だったのに、今の人たちはその後に何の言葉も続かない。『我関せず』なんですよね。

かつてマザー・テレサさんが言ったという『愛情の反対は憎しみではなく無関心』と有名な言葉がありますが、そういった格言が世間で知られているのに、気がつかない大人が今の日本にはとても多いように僕は感じています。

ただそれは僕が勝手に思い込んでそう感じているだけですので、もしかすると僕が間違っているのかもしれません。なのでここで書いていることはただの僕の憶測でしかありませんし、自分の考えが常に正しいとも僕は思ってはいません。

それでもとりあえず、僕は今のままでは金銭に困り7月には食べものを買うことが出来ない経済状況に落ち入ります。食べれないならどうするかといったら、食べれないのだから食べません。
食べられない、でも食べなければ生きられない、だから無計画に人からお金を借りるか、盗み奪うのか。昔の日本と違い今の日本社会ではそれは違うと僕は思うので、僕は食べられないなら食べない。
そして食べられずに死ぬのであれば、それでよし、です。自分はそれまでの人間だったということ。
ただし、それでよし、と思えるには、出来るだけのことを自分がしたかどうか、ということが重要だと思います。
助けが必要な時に助けてほしいとちゃんと声に出したか、ということ。
僕ははっきり言いますよ。
僕は今、助けが必要で、助けてほしいと思っています。
これを読んだ人は、その僕の声を聞いたわけです。さて、その後どうしましょうか?

どうにかしてくれようと一緒になって考えてくれますか?
自身は関わらないから、自分でなんとかしなさいよ、と思いますか?

与えるものが何もなくても、声や関心はお金などかかりませんよ。

僕も死ぬ気もありませんし、楽して生きようと思いませんし、自分でなんとかするつもりでいます。
それでも助けが必要なときは助けがいります。

まぁそれは冗談で、このブログを読んだからといってその読んだ人にどうこうしてもらうつもりは毛頭ありません。

現実社会で直接顔を合わせ、僕が困っています・助けが欲しいです、と話した人に対して、上記のことを思うだけです。
そしてこういう状況のときだからこそ、人の本質が見えるということもあります。
こういう機会も人生でそうあるものでもありません。
だから今の自分の周りの人の反応を、しっかりと見ておこうと思うわけです。

それは、何もしてくれなかった人たち・見て見ぬ振りをした人たちを覚えておいて、いつか復讐してやろう、と思うため、ではありません。
そんな状況の時に手を差し伸べてくれた人、気にかけてくれた人、声をかけてくれた人のことをきちんと覚えておき、いつかその人たちに恩を返せるよう以後も努力し続ける人でありたいと思うからです。困った時に与えられた恩を、のど元過ぎたら忘れるような、そんな人間には決してなりたくはないからです。

そしていつか僕は困っている後輩から助けを求められるようなことがあった時に、
「大変だろうけど頑張って。」
ではなく
「大変だね。一緒に考えよう。」
と言えて実行できるような大人になれるよう、今の苦しい状況でも這ってでも前に進み、生き続けようと思っているのです。
それも、いつもニコニコと、元気よく。
posted by Coyama at 22:52| 思ったこと・感じたこと