2012年04月06日

僕がデンマークへ行く決心をしてから12年、実際に暮らしてから10年が経とうとしています。

10年前の出発の前日、僕は父方の実家へ行き、祖母への別れとご先祖様のお墓に手を合わせてきました。
今の自分があるのは彼らがあってのことですから、そんな気持ちをどうしても渡欧する時に持っていきたいと思ったからです。
僕は宗教もなく特別な信仰も持ってはいませんが、それでもやはりどこかでご先祖様には見守っていてもらいたいと、当時もそうでしたし今でも思っています。

一昨年に99歳で他界した祖母は、当時はまだ元気で、90歳を過ぎてからも茅ヶ崎市にある自分の畑で野菜などを育てていました。祖母にとっては僕は12番目の孫なのですが、僕のことをいつもかわいがってくれていました。

それでも最低2年は日本に帰らないと決めた覚悟の渡欧でしたので、もしかしたらその日が最後の別れになるかもしれない。祖母もそんな僕の覚悟を知っていたのか、さすがに別れ際に祖母の涙ぐむ姿を見た時は、つらくて涙をこらえるのが大変でした。

出国の日は2002年の9月3日。とても暑い日でした。
その日は朝8時に母に車で茅ヶ崎駅まで送ってもらいました。
その時はシベリア鉄道で向かうと言う一般とは違った渡欧でしたので、成田空港で見送りというのはありません。一応羽田空港からの出発でしたが、見送りはありませんでした。

母とは茅ヶ崎駅で別れました。もともと僕がしばらくは日本に帰らないことは話していましたので、母ともしばらく会うことはありません。僕の母も強い女性ですが、さすがに別れ際に涙を悟られないようにしていた運転席での母の後ろ姿は今でも覚えています。
僕は走り去る車に親不孝を詫びると共に、涙をこらえていました。

そんな涙は、デンマークに行ってからも何度も何度も流れました。

思うように進まぬデンマーク語の習得、アカデミーから突きつけられる入学までの数々の難題、デンマークで出会う人々のやさしさと冷たさ、未来への不安。それらに何度涙したかわかりません。

それは季節が冬に向かい、暗く、寒くなればなるほど、ひとり涙して眠れなくなる日々が増えていきました。
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そして3月にアカデミーから6月末の面接を言い渡されてからは、授業以外は部屋にこもり勉強する日が続きました。ひどい時には食事にすら姿を見せない僕の行動に、共に寮生活をする周囲の友人たちからは心配され、非難すらされていました。
それらとデンマーク語が思うように上達しないという板挟みの生活に、毎夜流れ出る涙を止めることが出来ませんでした。

6月に入り、いよいよアカデミーとの面接を控えた中で、僕を含む語学学校の生徒は全員で1週間の研修旅行に出かけました。
その旅行の間、生徒たちはデンマークの家庭にホームステイをします。
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2人1組で各家々に振り分けられるのですが、僕のパートナーはクラスでも嫌われ者のブルンジ人Dでした。

ちなみに10年経った今でも仲の良いブルンジ人のクラスメイトがいますので、決して国民性が嫌われる要因ではなく、人間個人の資質に問題がありDは嫌われていました。

そんな研修旅行中のある朝、集合場所へ向かうため2人で道を歩いている途中、そのDは僕にこんなことを言って来ました。

「お前気づいてるか?おまえのデンマーク語はひどくて家族は誰も理解していないぞ。だから俺が話さないといけないんだ。お前は大学に行くと言ってるけど、そんなんで大学に行っても意味がない。これはおまえの問題なんだ、言ってることわかるか?」と。
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誰が見ても彼のデンマーク語のほうがひどく、気にすることではないのですが、さすがにその言葉は僕のこころに重くのしかかりました。

その日の夜、ホームステイ先の家族を集めて語学学校のパーティーがありました。
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パーティー会場に着いた時から、周りの僕に対する興味を感じました。どうやら仲の良い友人たちが、それぞれの家庭で僕のことを話のネタにしていたらしいのです。

語学学校が始まった頃、言葉も満足に話せない僕でしたが、それでもBarで毎晩のように飲んで踊っていました。
僕はお酒には強く、よく飲みます。そしてそんな僕が語学学校で最初に覚えたデンマーク語が「もちろん」という意味の『selvfolgelig(セフリ)』。

飲み続ける僕に、みんなが「ノブヒロ、もっと飲むかっ?」と聞くので、いつも「セフリ!」と答えていました。
それがとても面白かったらしく、その先もずっと、それが口癖として定着してしまいました。

そんな話題が各家庭でされていたらしく、僕の自己紹介の時にはどこからともなく「セフリ、セフリ!」とデンマーク人の家族たちから声があがっていました。

この夜、各国の生徒たちがそれぞれ出し物を披露することになっており、僕ら日本人は日本の歌を披露することになっていました。ちなみに歌は「上を向いて歩こう」です。

その歌を披露する前に、僕は他の日本人の了承を得て、少しデンマーク語で前置きのスピーチをさせてもらいました。
その内容は、なぜみんなが僕のことを「セフリ」と呼ぶのか。

それは「セフリ」が僕の最初のデンマーク語だったから。みんなが僕に「飲むか?」と聞いてくるから、いつも答えはもちろん「セフリ」だったんだ、と。

そんなスピーチの最後に、僕はみんなに問いかけました。

『今夜は僕からみんなに質問があります。日本の歌を一緒に歌ってくれますか?』と。

その問いに、会場の全員が一斉に答えてくれました。

『セフリッ!(selvfolgelig!!!)』
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そして『見たか、これが俺のデンマーク語だっ!』と、心の中でDに向かい中指を立てました。
あの瞬間、ずっと緩んでいた涙腺が引き締まった、そんな気がします。

そんな試練の9ヶ月間、共にデンマーク語を学んできた仲間にアメリカのシアトル出身のモニカという親友がいます。
モニカはカルゥ国際語学学校へ来る前にIPC(International People's College)というデンマークにある別の語学学校に通っていました。
どちらの学校もデンマークの語学学校の中では日本人には有名な学校です。

ある日興味があったので、モニカにカルゥ国際語学学校とIPCの違いについて聞いたことがありました。

モニカ曰く、IPCはとてもいい学校なのですが、残念ながらそこではデンマーク語は上達しません。ほとんどが英語で生活し、英語は上達するらしいですが、デンマーク語を学ぶには適していないのだそうです。
ただし、授業では様々な場所へ出かけ、いろんなデンマーク社会を見学することができます。デンマークに関する知識などが楽しく学べるのだそうです。そして学校で催されるパーティーなどのイベントなども工夫されていて楽しいものばかり。
だから最終日にはみんなが別れを惜しんで抱き合って泣くのよ、と。

カルゥ国際語学学校はデンマーク語を学ぶにはとてもいい学校だそうです。しかし学校の周辺には何もなく、不便な場所にあり、生活はとても退屈です。授業でもあまり外に出ることがなく、学校のイベントも単調で毎回同じ、工夫がないのでとても退屈です。
生活などは全てデンマーク語ですので、デンマー ク語を学ぶには良く、その授業プログラムに関してもとても良い。ただし学校生活は退屈で、長くいられるような場所ではありません。
だから最終日にはみんなが「やっと終わった、二度と来ないわ」と笑顔で去るのよ、と。

『カルゥ国際語学学校とIPCを足して2で割ればとても良い学校になるわ』とモニカは言っていました。

そんなカルゥ国際語学学校での最終日、9ヶ月の荷物と想い出の詰まったモニカの大きな重たいスーツケースを、僕はバス停まで運ぶのを手伝いました。
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サマーコースのために引き続き学校に残る僕とはそこでお別れでした。

やっと終わった、と笑顔で話すモニカに、いいなぁと俺も早く解放されたい、などと話しながらバスを待ちました。
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バスが到着し、重いスーツケースをバスに積み込むのを手伝った後、ハグをして別れました。

バスが出発しようとした時、窓越しにモニカは僕に投げキッスをくれました。その時、それまで笑顔だったモニカの目からひとすじ、涙がこぼれました。

そして次々溢れ出る涙を袖で拭うモニカの仕種を最後に、バスは走り去って行きました。

笑顔で去ると言っていた彼女が流した涙。それが僕との別れに対してのものなのか、9ヶ月の長い生活の想い出から来るものなのかはわかりません。
ただ、どちらにしても心の底から湧き出た本物の涙だと思っています。

僕がデンマークに渡ったことで得たものは、国籍や国民性などは関係なく、人の気持ち、人の励まし、感謝の心、それがどんなに暖かいか、どんなに他の人の心に響くものかということを知ったことです。
そしてその経験はその後デンマークで手に入れた様々な知識や技術以上に大切な僕の財産になっています。
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あれから10年。いろんなことを乗り越えて僕も少しは強くなったと思うのですが、それでも壁にぶつかることが多く、今でも悔しかったり苦しくて涙が出そうになることがたくさんあります。
それでも日々希望を忘れず笑顔で前向きに進んでいる。その原動力となっているのは、過去の経験なんだと思います。

いい笑顔があるように、いい涙もある。僕はもういい涙しか流したくはないんです。

僕はあの時、親友モニカが僕にくれたひとすじの涙を、一生忘れません。
posted by Coyama at 19:22| 思ったこと・感じたこと