2012年04月02日

生涯安定と諸行無常

先日電車に乗っていた時に、隣に座っていた全身黒づくめの就職活動中らしき学生さん2人が、理想の就職先として真剣に話しあっている会話の中で、次の3条件をあげていました。

・ある程度自分の時間を持てる就労体制
・経営的に安定した企業
・ゆとりある給与

きっとこれは彼らだけではなく、最近の若者や大人たちの多くが望む理想のような気がします。

しかし「安定」って何なのでしょうか。
そもそも昔から「安定」なんて人生があったのでしょうか。

今現在、この日本で「安定」した人生が当たり前のように生活をしている人たち。

学校に通い、大学へ進み、企業に就職。安定した収入や福利・厚生・社会保障。

でもそれって、否定するつもりはないのですが、考えてみると戦後を生きてきた先人たちの知恵の結晶による社会システムであり、それに乗せられて生きているだけなのではないでしょうか。そして生まれたときからそれが当たり前になって育ってきているのだから、そのこと自体に疑問を抱くことがない。
すでに今の時代には僕が書くこの記事の内容すら何を言っているのか理解できない人も多いと思います。

地球が誕生してから今までの長い長い期間の中で、今を生きている我々の肉体ががこの世に存在をする期間は、本当にごくわずかな期間でしかありません。自分から見ると自分が生きている人生が全てだけど、地球から見たら人間一人の人生なんて蚤の糞程度のものかもしれないですし、それよりも小さいものなのかもしれません。

もっとも肉体が滅んでも魂は輪廻し続けるなどいろんな宗教的な考えもあるとは思いますが、それらも本当かどうかはわからないことですので、その話はここでは考えないことにし、ここでは肉体が滅んだら人間の生涯は終わる、という前提条件での話にしたいと思います。

今の世を生きる中で、会社に所属して仕事をして会社から給料をもらう。その稼いだお金で生活をする。生活用品を買う。生活に必要なインフラの使用料を払う。税金を払う。教育費を払って子どもを育てる。

でもこれって本当に当たり前のことなのでしょうか。

例えば1000年前の平安時代、そこには会社も大学もなかったわけです。
そのころの人々はどのように考え、どのように生活をしていたのでしょうか。

人間そのもの自体はそんなに変わらないのではないかと、僕は思っています。「そのもの」というのは、楽しい時には笑い、悲しい時には泣き、若い頃は夢を持って活力旺盛で、人を愛し、人の親となり育て、歳をとったら後輩の指導者となる、といった“人間的”な部分のことです。
1000年経って文明や技術、生活環境は変わったものの、人間の本質というものはあまり変わっていないと僕は思います。

そんな時代の人たちから見た1000年後である今の社会は、文明などを抜きにして“人間として”はどのように見られているのでしょうか。

生まれ育ち、勉学に励み、いい大学、いい会社に勤め、結婚し、働いて給料をもらい、家族を養い、出世とともに給与も上がっていき、時に海を渡って異国の地での見聞を広げ、引退し余生を楽しんで最期を迎える。

そこにあるのは「生涯安定」。
先人の人間たちが苦労して作り上げてきた理想の社会なのかもしれず、結構なことだと思います。

ただ、僕は特別な宗教は持ちませんが、これは表現しがたいのですが、よくわからない「何か」に対しての信仰はあります。
それを人は「神様」と呼んだりするわけですが、僕の場合は「神様」なのかはよくわかりませんが、とにかく「何か」はこの世だかそこらへんの空間に存在しているのではないかと思っています。

そう考えているのは僕だけではないから神様や妖怪などがあちこちにいるわけで、そんな「何か」に対して何千年も前から人々が自分たちの経験から積み重ねてきたことを人々にも伝えていこうとしたものが、世界各国に散らばる様々な「教訓」や「言い伝え・伝説」であり「宗教」であり「教典」なのだと思います。言い方を変えれば「先人たちの知恵」とも言えると思います。
それらの内容は、時に偏ったものもありますが、大抵は的を得たことを後世に伝えていると僕は感じています。

仏教にある「諸行無常」や「天上天下唯我独尊」などという言葉も、間違っているよりも正しい確率の方が高いということは、これまで生きてきた多くの人たちの実証から想像ができるものです。

なので「生涯安定」が信仰になっているような今の時代に、僕は一抹の不安を感じるのです。
僕には「安定」というものが生き方の指針として一般化された世代が、今の日本の世の中を動かしているように見えています。「世の中そんな人ばかりではない」と言われもするのですが、確かにそうではない人もいると思いますけど、圧倒的に「生涯安定」が身に付いてしまった大人たちが多くいるように思え、そんな大人たちに育てられた子どもたちが今の時代に若者となって生活をし、さらに人の親となって子を育て「生涯安定」の信仰へ導いていっている。

そこにある信仰は「こうでなければいけない」「こうあるべき」「こうだ」を推奨し、そして「そうではないもの」を排除する世の中。

「諸行無常」。そう人間らしく言える人間が、今の時代に減っているように僕は感じます。

人は一人では生きてはいけません。育っていく中で先人の背中を見て育ちます。先人の誰もが「生涯安定」を唱え実践し生きていたら、後輩は先人と同じその道を唯一の「道」と信じて進むしかありません。

ある年齢になったら小学校へ進学し、横並びの中で競いながら生きていく。受験のために塾に通う。中学、高校と少しでも偏差値と言う数字の高い学校を目指す。
それは最初は自分たちの意思ではなく、親である先人たちが自分たちの人生経験から「生涯安定」のためにはより高い学歴や職歴を得ることこそが人の道だと説いているからではないでしょうか。やがてそれが気がつくと本人の意思にもなっている。
そして「生涯安定」をめざし、大学進学、就職、結婚や出産・子育てをし、「生涯安定」は次の世代へ受け継がれていく。

否定はしません。それはそれで正しいことだと思います。
でも、「人生それだけでもねぇだろ!」と生き抜く背中を後輩に見せる人も必要なのではないかと僕は思うのと、“そういうことを言う人たちがいても間違いじゃないよね”という人たちがいる社会や世の中でなければ、後輩たちのためにならないのではないかと、僕は感じています。

もっともその少数派がおかしな信仰や政治観を持つことも問題ですが、なんだかうまくは言えないのですが「諸行無常」と生き様で示してくれるような、そんな大人たちが今の「生涯安定」の世の中には必要とされているのではないかと、僕は思うのです。
この考えが正しいのかどうかも今の僕にはまだわかっていませんし、言いたいことをうまく表現できるための経験も知識も持っていませんので、主張するつもりはなく、今はただ自分の頭の中で、グルグルと考えていると言った状態です。

ただ少なくとも、「生涯安定」は人生指針の基本ではないと僕は思います。やはりどんな世の中でも「諸行無常」であり、そうでないと人間は成長していきません。

「諸行無常」の中で人生を生きていく。それは言葉ではなく、生き様で示していくしかないのかなとも思っています。

マハトマ・ガンジーさんの言葉に、こんな言葉があります。
「世界を変えたければまず自分がその変化になりなさい。たとえ一人きりの少数派であろうとも、何百万の仲間がいようとも。」

未熟なため出来るかどうかはわかりませんが、未来の子どもたちによりよい社会を残すために、小さくてもいいので自分がその“変化”のひとつになりたい。僕はそう思っています。
posted by Coyama at 22:32| 思ったこと・感じたこと