2012年04月10日

1300年代 − 王家の血縁

14世紀頃から、スカンジナビアの王室の中では血縁関係による王位継承が複雑化されていきました。
1299年にノルウェーの王位に就いたホーコン5世王は、デンマーク、スウェーデンの圧力を受けて当時ノルウェーの首都であったベルゲンから両国の支配が届きやすいオスロへと1300年に首都移転を強いられました。
そのホーコン5世王には息子がなく、妻エウファミア妃との間に生まれたインゲボー王女は、1312年に当時のスウェーデンのウィアガー王の弟であり、先王マグヌス3世王の息子エリク・マグヌスン王子に嫁ぎます。
彼女は1316年にエリク・マグヌスン王子との間に息子マグヌス王子を、1317年に娘エウファミア王女を生みます。しかしエウファミア王女を生んだ翌年に夫のエリク王子が、その翌年の1319年に父ホーコン5世ノルウェー王が亡くなります。さらに1318年にはエリク王子の兄でありスウェーデン王であったウィアガー王が王位を廃していました。

そして1319年、直系の男子としてインゲボー王女の息子マグヌス王子がわずか3歳でノルウェー、スウェーデンの両国の王位に就きます。
この時、彼が成人するまでは母であるインゲボー妃が補佐として政治を取り仕切りました。
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△ 1300年前後の王室の関係図

一方で1300年頃のデンマークでは国力が弱まり、財政難のためデンマークはデンマークとドイツの間にあったホルステン公国(現在のドイツ北西部)から多額の借金をしていました。しかしデンマークには返済能力がなかったために、デンマークではホルステンの公王の権限が次第に大きくなり、デンマーク国民の不満は高まっていきました。

1329年にはコペンハーゲンの街はホルステン公国のヨハン伯爵が所有し、彼はコペンハーゲン城に入り政治にホルステンの貴族を配置してその勢力を強めていきました。
1330年には当時のクリストファ2世王がコペンハーゲンを所有しますが、1332年に彼が亡くなると1340年までデンマークは王の不在期間が続きます。この間、コペンハーゲンは借金の形としてホルステン公国の貴族が所有していました。

そのような状況の中で、1340年にヴァルデマー・アテレイ(Valdemar Atterdag)は、国の政治を改革させるためにデンマークで内乱を起こします。彼はその戦いに勝利した後、ヴァルダマー4世王としてデンマーク国を統治し、コペンハーゲンも彼の配下におかれることになります。
しかし彼が在位中にヨーロッパ各地にペストが流行し、デンマークでも全人口のほぼ半分が死亡。これにより国力はさらに激減していくことになりました。
posted by Coyama at 20:03| コペンハーゲンの都市史

2012年04月09日

伝説の日本人女性レポーター

2002年、突如デンマークのテレビ界に謎の日本人女性レポーターが現れ、彼女によるデンマークの有名人たちへのレポート番組が始まりました。
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彼女はそのおかしな発音の英語で、徐々にゲストたちに過激な質問をしていきます。
例えば「あなたはSEXは朝派?夜派?」など。
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「ウシ ヘイク」という名の彼女。番組名もそのまま「USHI HEIKU」です。
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この番組は瞬く間にデンマークで人気となり、賞まで受賞をしてしまいました。

その人気の秘密は、この「USHI」という女性レポーターにあります。

過激であったりおかしな質問をし続けるアジア人の彼女に、ゲストたちもタジタジとなり「なんだこのアジア人娘は、、、」となってきた最後の最後で、彼女はこんなことをゲストに言います。
「私の秘密の写真を見たい?」と。

そして「あぁ、それは見たいねぇ。見せてくれるのかい?」と言うゲストに一枚の写真を渡します。
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そこに写っているのは、例えばこんな写真です。
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意味が分からずどう対応していいかわからないゲストの前で、彼女は「それ、私よ!」と言ってカツラと出っ歯を外すのです。
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「えええっ!???」と驚くゲストたちの反応を見て、視聴者は大喜びするのです。
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この謎の日本人女性レポーターUSHI HEIKUに扮するのは、デンマークの美人タレントAnnette Heick(アネット ヘイック)さんです。 ちなみにHEIKUは彼女の名字を捩ったものだそうです。

実に72人のゲストが彼女に騙されましたが、もちろん番組は1シリーズで終わりです。
番組放送後はUSHIはすでにデンマークでは有名人ですからね。

それにしてもこのUSHI HEIKUの容姿ですが、デンマーク人からしてみたらおもしろいのかもしれませんが、日本人からしてみたら日本人をバカにしているようにも取れるのですが、、、
しかし逆に日本人が外国人に変装して日本人を彼女のレベルのように騙せるかと言ったら、出来る人はそうはいないでしょうから、素晴らしい演技力の持ち主だと言えると思います。

このAnnette Heickさん、その美しい容姿だけでなく頭脳も明晰なまさに才色兼備な女性で、英語のみならずドイツ語、フランス語、イタリア語、スウェーデン語の多国語を操り、さらに言葉だけでなく自分の音楽バンドまで持っているのだそうです。
そして2012年現在も、コンサートを開くなど幅広い活動をされています。

そんな伝説の番組「USHI HEIKU」はYou Tubeで見ることが出来ます。興味のある方は「USHI HEIKU」で検索をしてみてください。
posted by Coyama at 20:49| デンマークのこと

2012年04月08日

1200年代−ノルウェー国の拡大

◇ 商人の港コペンハーゲン

1201年のアブサロン司教の死後、彼が管理していたコペンハーゲンの領地はロスキレ教区の所有となります。この頃にはコペンハーゲンの地にはKøpmannæhafn[クゥプマンネハウン](商人の港)という現在のKøbenhavn[クゥベンハウン]という名の原型が使われており、そこが貿易の場であったことを表しています。
この頃にはコペンハーゲンだけでなくデンマーク各地にも商人の街が築かれていきます。これらのほとんどの街は成長原理に従い、主に市場のある教会の前の広場を中心にその地形に沿って成長していきました。

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△ 1200年から1350年の間に作られた都市

1249年にコペンハーゲンはバルト海の支配を目論むリューベック人により一度略奪されますがデンマークはすぐに奪い返し、その後はロスキレ教区による管理が続きます。
王から正式に貿易と製造のための特権が与えられている間、領域社会の人々は教会とその司教に強く依存していました。しかしこのころの司教はあまり宗教には関係のない地域で権力を持った貴族などが就いていました。


◇ ノルウェーの拡大

一方この頃、デンマークの北に位置するノルウェーでは、ノルウェー国のホーコン4世王が1257年に北大西洋上にあるノルウェー領にある島々(オークニー諸島、フェロー諸島、アイスランド、グリーンランド)がすべて支配下にあるという活動をはじめ、その一環として各地にまで監督官を派遣し、ノルウェーの統治を認め、貢ぎ物を献上するように促します。

1261年にはグリーンランドはノルウェーの統治を認め、その見返りに年間2隻の船をグリーンランドに出す約束をします。1282年にはグリーンランドの司教からローマ教皇へセイウチの牙とホッキョクグマの毛皮が支払われたという記録があります。

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△ Qassiarsukに再現されたThjodhildur教会とEric the Redの住居

この当時のグリーンランドは貿易に関してはトロンハイムの司教を経由していました。当時の船でノルウェーからグリーンランドまでは1週間以上かかりました。グリーンランドには木材はなく、ノルウェーからの定期船に頼っている状況でした。
グリーンランドは主に木材を、グリーンランドからはセイウチの牙の精製品やセイウチの皮、ホッキョクグマの毛皮、イッカクの牙、生きたシロハヤブサなどがベルゲンやトロンハイムを経由してヨーロッパへ輸出されていました。

そしてこの頃になると、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンのそれぞれの王室の中で、それぞれに婚姻関係が築かれていくようになります。
posted by Coyama at 21:45| コペンハーゲンの都市史

2012年04月07日

肛淫矢のごとし

ちょうど10年前の2002年4月7日のこと。
日曜日だったその日、僕は朝の8時に友人女性からの電話で起こされました。
電話の内容は彼氏との別れ話。電話での一方的な話はそこから延々と続き、気がつくと午後4時まで続きました。

その日、僕は夜に予定が入っていたので電話をそこで切り、急いで支度をして当時住んでいた東京都東村山市の家を出発し、神奈川県横浜市へと向かいました。
この日はプロ野球の巨人横浜戦のチケットを手に入れたたため、友人と見に行く約束をしていたのです。
そして待ち合わせ時間ギリギリの午後6時に、僕は横浜スタジアムへ到着し、友人と合流しました。

この友人は高校の時からの同級生なのですが、とにかくお互いよくお酒を飲みます。
野球場で野球を見ながら飲むビールも互いに大好きなのですが、ちょうど1年前に同じく横浜スタジアムへ巨人横浜戦を見に行った時に、その日がビールが美味しい夏にも関わらず大雨で、最初に一杯ビールを飲んだだけですっかり体が凍えてしまい、その後ホットコーヒーが美味しく感じたと言う悔しい経験がありました。
そんな中でその日は4月の初めでありながらも暖かく、絶好の飲み日和でした。

その日我々はイニング1回に500mlを1杯。さらにその日は読売巨人軍が大差で圧勝したため、そのお祝いだと最後にもう1杯飲み、一人ビールを計10杯、2人で20杯程を飲み干しました。

ちなみにその日、僕は朝から友人女性の電話に付き合わされ、朝から何も食べてなく、空きっ腹にビールを5リットル程取り込む形になりました。

最後の10杯目を球場で飲んだ記憶はあるのですが、その次にあるのは関内駅の改札を通過したところで、その後の記憶がしばらくありません。
次に記憶があるのは、JR山手線内の、大塚駅を過ぎたあたりです。

この時点で記憶にはないものの、僕は品川駅でJR根岸線からJR山手線に乗り換えていることになります。
横浜に住む友人とは横浜駅で別れたのだと思うのですが、まったく記憶にありません。

そんな酩酊状態にありながらも、時間は日曜日の午後10時過ぎ、電車を乗り過ごすわけにはいかないと、酔ってもそういうところはしっかりしている僕は寝過ごさないように椅子には座らず、ドア脇のポールに掴まってドア脇のスペースに座席側に寄りかかるようにして立って、外を眺めていました。

するとその時、突然腹部を痛みが襲い、臀部に緊張が走りました。
僕が関内駅の次に記憶があるのはこの部分からです。

緊張はすぐに便意として現れました。しかしそこは山手線の車内。ここで肛門の筋力を緩めるわけにはいきません。
それに朝からの摂取状況でもわかることですが、下半身臀部の感覚から内容物は固形ではなく液体に近いものが予想されました。

「早く次の五反田駅に着いてくれ!」

そう願う僕の思いに応えるかのように、五反田駅ホームの明かりが目に入ってきました。

「もうすぐだ、しっかり!」

しかし残念なことに、激しく押し寄せる便意に僕の肛門筋は勝てず、ホーム到着まで間に合いませんでした。

ちなみによりにもよってその日僕の履いていたズボンは白色でした。

五反田駅のホームに到着し、ドアが開いた瞬間に僕は勢いよく走り出しトイレを目指しました。
そしてトイレの便器でズボンを洗い、下着はゴミ箱に捨て、何事もなかったかのように再びホームに戻り次の電車を待ちました。と、そのように自分では記憶しています。きっとこの間はすごいことになっていたのでしょうが、一応記憶からは抜けています。

そんな電車待ちをしていた時、ズボンの後ろのポケットに入れていた財布がないことに気がつきました。
その中には現金やカード、定期や当時出たばかりのSuicaなど生活に必要な全てが入っていました。
その後トイレなどに戻り探したものの、どこにもありません。
もしかするとズボンを洗った時に便器の中に、、、とも思ったのですが、駅員に聞くとそういう異物が流れた時にはセンサーが働くのであり得ない、との答え。
しかし当然ながら財布がなければ家に帰れません。
そのことを駅員に相談すると、まずは電車に乗って、降りた駅で相談してください、と言われました。

そして次に記憶があるのは、西武新宿線の川越駅。
電車のシートで寝ていた僕は、車内を見回りにきた駅員さんに「お客さん、終点だよ!」と揺り起こされました。
そしてその駅員さんはさらに「これ終電だから。駅はシャッター閉めるので構外へ早く出てください。」と言ってきました。

さすがに夜は冷え込む4月上旬の川越駅で、財布を持たない生乾きのズボンを履いたノーパンの僕は外に放り出されました。

ちなみに当時はまだPASMOはなく、どうやってJR線から西武新宿線に乗り換えたのかは、これも記憶がありません。

その後駅員の薦めもあり、駅前の交番を訪ねました。しかし「うちは東京都と違ってお金ないから。電車が動く朝までどこかで待って。」と冷たい対応。
僕が「どこで待つといいでしょうかね?」と聞くと「その道を200〜300m進んだ先にファミレスがあるから、そこで待ったら?」と。
お金もないのに?・・・

悩んだ僕は、今度はダメ元で駅前に並ぶタクシーの運転手さんに声をかけました。
1台目の人には断られたのですが、2台目の運転手さんが「お兄さんいい人そうだから。明日銀行振込してくれるなら東村山まで乗せてってあげるよ。」と言い、乗せてくれたのです。
その時のタクシー代は約8,000円でした。
運転手さんは部屋の中まで上がり込んで家を確認し、振込先の口座番号を置いて帰っていきました。

時間はすでに深夜2〜3時だったと思います。
僕はズボンを洗濯機に放り込み、熱いシャワーを浴びて眠りにつきました。

翌朝、目が覚めた僕に、前夜の記憶が蘇ってきました。

この時の人間というのは、まずはパニックが襲います。
次に、激しい後悔の念に襲われます。
そしてそれが過ぎると、「諦め」に変わります。やっちまったもんはしょうがない、と。

しかし問題は財布です。その中には運転免許からクレジットカード、銀行や郵便局のカードまで様々なものが入っています。
その日、僕は朝から設計事務所でのアルバイトがあったのですが、午前中は休みにしてもらい、まずはカード会社などへ電話をして利用を止めてもらいました。
そして家にあった通帳とハンコを使って郵便局でお金を引き出し、それを昨夜のタクシーの運転手さんの口座へ振り込みます。

次に警察署へ行き紛失届けを出したのですが、どのような状況でなくしたのかを聞かれたのですが、さすがに応えるのが難しい。さらに「現金はいくら入ってましたか?」という問いにも答えられませんでした。

ちなみにその時一緒に飲んだ友人は数日前にバイクで転倒して腕を骨折しており、ビールを買う時には僕が建て替えてお金を払っていました。
なのでそのまま立替金を返してもらっていなければおそらく財布の中はほとんどお金はなく、返してもらっていると1万円程度入っていたと思い、その友人に電話をかけました。幸いなことにそういう状況にありながら携帯は紛失もなければ水没もしていませんでした。
結果は「返したよ〜」とのこと。一切の顛末を話すと「えぇ!?横浜で別れた時には普通だったけどねぇ」とのこと。

世の中多くの人たちが酒の失敗談を持っていると思いますが、僕も他にも様々な失敗談を持ってはいますが、その中でも一番の失敗談がこの出来事です。
俗にいう「山手線ウンコ事件」。

その半年後に、僕は海外放浪の旅に出ました。
そして旅に出てから2年後の2004年の夏、成田空港に降り立った僕は故郷である神奈川県茅ヶ崎市に戻るべく電車を乗り継いで帰ったのですが、日暮里駅から東京駅の間で山手線に乗りました。
その時に荷物も多かったため、座らずにあの日のようにドア脇に立とうとして気がついたのですが、なんとポールと座席の間に間仕切りの板が出来ていました。
事件の時にはまだ間仕切り板はなく、きっとあの日僕が立っていた横で座っていた人は・・・・

もしかするとあの山手線のドア脇のポールと座席の間の間仕切り板が設置された背景には、僕が絡んでいるのかもしれません。

あれからもう10年。思い出すとあの時僕の肛門を苦しめた痛みはまるで矢のようでした。
まさに肛淫矢のごとし。

当時は僕も大学院を出たての26歳だったということで若さゆえの過ちで済みましたが、お酒ってやはり気をつけなければいけないなと思い、それ以降スポーツ観戦の時に朝から何も食べない空腹の状態でお酒を飲むことはしなくなりました。

ちなみにその事件を期に、僕には怖いものがなくなりました。
世の中の大抵のことは山手線の車内でウンコを洩らしたことに比べたら大したことはありません。

よく人間を大成させる要因には「倒産」「大病」「刑務所入所」「悪女」の4つがあると言いますが、僕は「電車でウンコを洩らす」というのも、大成まではいかなくとも人を成長させる一つの要因ではないかと密かに思っています。

でもやはりそれは他人に迷惑をかけることなので、人にお勧めはできません。
日本の春はお花見の季節でもあります。みなさんもお酒には十分お気をつけください。
posted by Coyama at 20:59| 思ったこと・感じたこと

2012年04月06日

僕がデンマークへ行く決心をしてから12年、実際に暮らしてから10年が経とうとしています。

10年前の出発の前日、僕は父方の実家へ行き、祖母への別れとご先祖様のお墓に手を合わせてきました。
今の自分があるのは彼らがあってのことですから、そんな気持ちをどうしても渡欧する時に持っていきたいと思ったからです。
僕は宗教もなく特別な信仰も持ってはいませんが、それでもやはりどこかでご先祖様には見守っていてもらいたいと、当時もそうでしたし今でも思っています。

一昨年に99歳で他界した祖母は、当時はまだ元気で、90歳を過ぎてからも茅ヶ崎市にある自分の畑で野菜などを育てていました。祖母にとっては僕は12番目の孫なのですが、僕のことをいつもかわいがってくれていました。

それでも最低2年は日本に帰らないと決めた覚悟の渡欧でしたので、もしかしたらその日が最後の別れになるかもしれない。祖母もそんな僕の覚悟を知っていたのか、さすがに別れ際に祖母の涙ぐむ姿を見た時は、つらくて涙をこらえるのが大変でした。

出国の日は2002年の9月3日。とても暑い日でした。
その日は朝8時に母に車で茅ヶ崎駅まで送ってもらいました。
その時はシベリア鉄道で向かうと言う一般とは違った渡欧でしたので、成田空港で見送りというのはありません。一応羽田空港からの出発でしたが、見送りはありませんでした。

母とは茅ヶ崎駅で別れました。もともと僕がしばらくは日本に帰らないことは話していましたので、母ともしばらく会うことはありません。僕の母も強い女性ですが、さすがに別れ際に涙を悟られないようにしていた運転席での母の後ろ姿は今でも覚えています。
僕は走り去る車に親不孝を詫びると共に、涙をこらえていました。

そんな涙は、デンマークに行ってからも何度も何度も流れました。

思うように進まぬデンマーク語の習得、アカデミーから突きつけられる入学までの数々の難題、デンマークで出会う人々のやさしさと冷たさ、未来への不安。それらに何度涙したかわかりません。

それは季節が冬に向かい、暗く、寒くなればなるほど、ひとり涙して眠れなくなる日々が増えていきました。
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そして3月にアカデミーから6月末の面接を言い渡されてからは、授業以外は部屋にこもり勉強する日が続きました。ひどい時には食事にすら姿を見せない僕の行動に、共に寮生活をする周囲の友人たちからは心配され、非難すらされていました。
それらとデンマーク語が思うように上達しないという板挟みの生活に、毎夜流れ出る涙を止めることが出来ませんでした。

6月に入り、いよいよアカデミーとの面接を控えた中で、僕を含む語学学校の生徒は全員で1週間の研修旅行に出かけました。
その旅行の間、生徒たちはデンマークの家庭にホームステイをします。
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2人1組で各家々に振り分けられるのですが、僕のパートナーはクラスでも嫌われ者のブルンジ人Dでした。

ちなみに10年経った今でも仲の良いブルンジ人のクラスメイトがいますので、決して国民性が嫌われる要因ではなく、人間個人の資質に問題がありDは嫌われていました。

そんな研修旅行中のある朝、集合場所へ向かうため2人で道を歩いている途中、そのDは僕にこんなことを言って来ました。

「お前気づいてるか?おまえのデンマーク語はひどくて家族は誰も理解していないぞ。だから俺が話さないといけないんだ。お前は大学に行くと言ってるけど、そんなんで大学に行っても意味がない。これはおまえの問題なんだ、言ってることわかるか?」と。
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誰が見ても彼のデンマーク語のほうがひどく、気にすることではないのですが、さすがにその言葉は僕のこころに重くのしかかりました。

その日の夜、ホームステイ先の家族を集めて語学学校のパーティーがありました。
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パーティー会場に着いた時から、周りの僕に対する興味を感じました。どうやら仲の良い友人たちが、それぞれの家庭で僕のことを話のネタにしていたらしいのです。

語学学校が始まった頃、言葉も満足に話せない僕でしたが、それでもBarで毎晩のように飲んで踊っていました。
僕はお酒には強く、よく飲みます。そしてそんな僕が語学学校で最初に覚えたデンマーク語が「もちろん」という意味の『selvfolgelig(セフリ)』。

飲み続ける僕に、みんなが「ノブヒロ、もっと飲むかっ?」と聞くので、いつも「セフリ!」と答えていました。
それがとても面白かったらしく、その先もずっと、それが口癖として定着してしまいました。

そんな話題が各家庭でされていたらしく、僕の自己紹介の時にはどこからともなく「セフリ、セフリ!」とデンマーク人の家族たちから声があがっていました。

この夜、各国の生徒たちがそれぞれ出し物を披露することになっており、僕ら日本人は日本の歌を披露することになっていました。ちなみに歌は「上を向いて歩こう」です。

その歌を披露する前に、僕は他の日本人の了承を得て、少しデンマーク語で前置きのスピーチをさせてもらいました。
その内容は、なぜみんなが僕のことを「セフリ」と呼ぶのか。

それは「セフリ」が僕の最初のデンマーク語だったから。みんなが僕に「飲むか?」と聞いてくるから、いつも答えはもちろん「セフリ」だったんだ、と。

そんなスピーチの最後に、僕はみんなに問いかけました。

『今夜は僕からみんなに質問があります。日本の歌を一緒に歌ってくれますか?』と。

その問いに、会場の全員が一斉に答えてくれました。

『セフリッ!(selvfolgelig!!!)』
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そして『見たか、これが俺のデンマーク語だっ!』と、心の中でDに向かい中指を立てました。
あの瞬間、ずっと緩んでいた涙腺が引き締まった、そんな気がします。

そんな試練の9ヶ月間、共にデンマーク語を学んできた仲間にアメリカのシアトル出身のモニカという親友がいます。
モニカはカルゥ国際語学学校へ来る前にIPC(International People's College)というデンマークにある別の語学学校に通っていました。
どちらの学校もデンマークの語学学校の中では日本人には有名な学校です。

ある日興味があったので、モニカにカルゥ国際語学学校とIPCの違いについて聞いたことがありました。

モニカ曰く、IPCはとてもいい学校なのですが、残念ながらそこではデンマーク語は上達しません。ほとんどが英語で生活し、英語は上達するらしいですが、デンマーク語を学ぶには適していないのだそうです。
ただし、授業では様々な場所へ出かけ、いろんなデンマーク社会を見学することができます。デンマークに関する知識などが楽しく学べるのだそうです。そして学校で催されるパーティーなどのイベントなども工夫されていて楽しいものばかり。
だから最終日にはみんなが別れを惜しんで抱き合って泣くのよ、と。

カルゥ国際語学学校はデンマーク語を学ぶにはとてもいい学校だそうです。しかし学校の周辺には何もなく、不便な場所にあり、生活はとても退屈です。授業でもあまり外に出ることがなく、学校のイベントも単調で毎回同じ、工夫がないのでとても退屈です。
生活などは全てデンマーク語ですので、デンマー ク語を学ぶには良く、その授業プログラムに関してもとても良い。ただし学校生活は退屈で、長くいられるような場所ではありません。
だから最終日にはみんなが「やっと終わった、二度と来ないわ」と笑顔で去るのよ、と。

『カルゥ国際語学学校とIPCを足して2で割ればとても良い学校になるわ』とモニカは言っていました。

そんなカルゥ国際語学学校での最終日、9ヶ月の荷物と想い出の詰まったモニカの大きな重たいスーツケースを、僕はバス停まで運ぶのを手伝いました。
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サマーコースのために引き続き学校に残る僕とはそこでお別れでした。

やっと終わった、と笑顔で話すモニカに、いいなぁと俺も早く解放されたい、などと話しながらバスを待ちました。
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バスが到着し、重いスーツケースをバスに積み込むのを手伝った後、ハグをして別れました。

バスが出発しようとした時、窓越しにモニカは僕に投げキッスをくれました。その時、それまで笑顔だったモニカの目からひとすじ、涙がこぼれました。

そして次々溢れ出る涙を袖で拭うモニカの仕種を最後に、バスは走り去って行きました。

笑顔で去ると言っていた彼女が流した涙。それが僕との別れに対してのものなのか、9ヶ月の長い生活の想い出から来るものなのかはわかりません。
ただ、どちらにしても心の底から湧き出た本物の涙だと思っています。

僕がデンマークに渡ったことで得たものは、国籍や国民性などは関係なく、人の気持ち、人の励まし、感謝の心、それがどんなに暖かいか、どんなに他の人の心に響くものかということを知ったことです。
そしてその経験はその後デンマークで手に入れた様々な知識や技術以上に大切な僕の財産になっています。
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あれから10年。いろんなことを乗り越えて僕も少しは強くなったと思うのですが、それでも壁にぶつかることが多く、今でも悔しかったり苦しくて涙が出そうになることがたくさんあります。
それでも日々希望を忘れず笑顔で前向きに進んでいる。その原動力となっているのは、過去の経験なんだと思います。

いい笑顔があるように、いい涙もある。僕はもういい涙しか流したくはないんです。

僕はあの時、親友モニカが僕にくれたひとすじの涙を、一生忘れません。
posted by Coyama at 19:22| 思ったこと・感じたこと