2012年03月12日

自分が信じること

先月末から1ヶ月程、知り合いの設計事務所のお手伝いをしています。未熟なため役に立っているのかどうかはわかりませんが、人手が足りなくて困っているということで、出来る部分でということで期間限定でお手伝いをさせていただいてます。
結局週の時間の半分がそちらに奪われてしまうので、当初予定していた自分の会社のことがなかなか進まず、悩ましい部分もあるのですが、僕には困っているという人を見捨てることはできず、きっと経営者には向いていないんだろうな、と最近思っています。

でも人からどう言われようと、僕にはやっぱり「困っている」「助けてよ」と言う人を無視できないのです。
その時に自分がとった行動は、きっといつか自分が逆の立場になった時に、巡り巡って自分が誰かからされることになる、と思うからです。

もちろん見返りを期待して手伝うわけではありません。
ただ「忙しいのでごめんなさい」と見捨てたら、きっといつか僕が困って誰かに助けを求めた時に、人から「忙しいのでごめんなさい」と断られるのだと思います。

それもいいけど自分のことが先、どうやって食べていくのか?、事業のメドも立っていないのに作ったばかりの会社を潰す気なのか!と言われても、たかだか1ヶ月のことです。それで潰れるくらいなら、自分はそれまでの器だということです。

従業員や家族がいたら別ですが、今はまだ僕一人ですので、潰れても犠牲になるのは僕一人。
そこで会社と自分を潰して後悔するのと、あの時手伝っておけば良かったなと後悔をするのと、考えたら後者の方が今の僕にとっては後味が悪いと感じたわけで、今なら自分が犠牲になればいいだけのことなので、それ自体は僕には大したことではないのです。

今から12年前の2000年4月、大学から大学院に進学をした僕は、所属していた研究室の部屋で、ひとりの世の高い中国人留学生と出会いました。
彼の名は劉さん。劉さんはその年から大学院生として、同じ研究室に入学してきたのです。
はじめて会った時の事は今でも覚えています。もともと中国人留学生が入学してくるという話を聞いていた僕は、大学からの延長で勝手も知っていたので、僕の方から劉さんに話しかけました。その時はまだ劉さんは日本語も完璧ではなく、常に日本語−中国語の辞書を持ち歩いていました。

そんな劉さんは、その後僕と一緒に2年間の大学院生活を送り、授業の課題も一緒にやったりしました。
そして劉さんは2年間の最後に日本語で書かれた1冊の修士論文を提出しました。これを見せてもらった時、僕はとても感動しました。
中国人の劉さんが書き上げた1冊の日本語の修士論文。

僕の修士論文も2年間の労力を詰め込んだものではありますが、劉さんの論文には苦労と努力という面では負けるかもしれません。

そんな劉さんとの出会いが、その後僕がデンマークに渡る際に、まずはデンマーク人が話すデンマーク語を習得して、それからデンマークでの勉強を進める、という決心をさせたのです。

劉さんが日本へやって来たのは、僕と出会う2年前の1998年のことです。当時劉さんはたしか29歳、日本語はまったく話せず、日本に来ている実のお姉さんを頼り、日本へとやって来ました。
中国では建築大学を卒業し、設計事務所へ就職。しかし日本での設計を勉強してみたくなり、日本へやってきたのだそうです。

最初の1年間、劉さんは中華料理店で働きながら、東京・大久保の日本語学校へ通い日本語を勉強しました。

そして翌年、東京電機大学へ研究生として、入学を許されました。

そこで当時、東京電機大学でも講師をしていた僕の恩師と出会いました。そんな恩師の授業を受け、劉さんは恩師の元で本格的に勉強したいと思い、翌年の2000年4月、法政大学大学院へ正規の大学院生として入学してきたのです。

そしてそこで、僕と机を並べることになったわけです。

その後、劉さんは苦労しながら大学院での勉強と自身の研究を進めていき、みごとに2年間で大学院の修士過程を修了しました。

そして大学院が終わる頃には、僕と劉さんはとてもよい友人になっていました。

そんな僕と劉さんとの一番の想い出は、プロ野球の『巨人戦』です。

大学院1年の時、劉さんは毎日のように研究室のテレビで熱心に巨人戦を見ていました。日本に来てから、当時はほぼ毎日のように放送されていた巨人戦を見て、劉さんは巨人ファンになったのだそうです。特に清原和博選手のファンでした。

ところが、そんな大の巨人ファンの劉さんは、まだ一度も球場で野球を見たことがありませんでした。

そこで、僕は劉さんを巨人戦に連れて行く約束をしました。この頃には僕はデンマークへ渡る決意していたので、他国で学び奮闘する劉さんが他人事には思えなくなっていました。そんな劉さんに、もっといろんな日本を見てもらいたい、そう思いました。

そして翌年の大学院2年の時、僕たちは計7回、巨人戦を観戦に行きました。東京ドーム2回、神宮球場3回、横浜球場2回です。

僕もそこまで連れて行くつもりはなかったのですが、4月に初めて劉さんを東京ドームへ連れて行った時、生まれて初めての野球場を目にした時の劉さんの歓声と笑顔、子供のように目を輝かせ、その空気に感動していたのを見て、僕は嬉しく思いました。そしてその年、できる限り連れて行ってあげよう、と思ったのです。
jingu008.jpg

そのなかでも得に想い出深いのが、2001年7月14日の東京ドーム、巨人対広島戦です。

その日は両軍貧打で1対1のまま延長戦となりました。まったくいいところのない巨人打線に、劉さんはメガホンをたたき過ぎて壊すぐらいのイライラする展開でした。

この日のチケットは僕の叔父からいただいたものでした。座席は1塁ベースやや後方の前から2列目で、1塁ベースを駆け抜ける選手たちを目の前で見ることができました。そして劉さんの大好きな(僕も大好きな)清原選手も、目の前で見ることができました。
kiyo2.jpg

そして試合は延長11回、すでに僕たちの前の座席に座っていたご夫婦が帰宅したので、僕たちは最前列へ席を移していました。そんな最高の座席で観戦する中、1アウト満塁で清原選手の打席が巡ってきました。

ヒット1本でサヨナラ。そんな展開でした。

そして、その打席、清原選手の打った打球は、僕たちの目の前でアーチを描き、ライトスタンドへ飛び込みました。11回裏、サヨナラ満塁ホームランです。

揺れるような球場の大歓声。そんな中で僕と劉さんは、フェンスにしがみついて清原選手の名前を何度も何度も叫んでいました。

僕が日本を離れる2002年8月に、僕は劉さんと2人で飲みました。劉さんは卒業後は設計事務所でアルバイトをしていましたが、ビザの関係でいつまで日本にいれるかはわからないと言ってました。その後は中国へ帰り、二度と日本へは来ないと思う、と言っていました。ですので、それが僕と劉さんのお別れの盃でした。

その飲みの席で、やはりその巨人戦の話になりました。あの試合は、劉さんの日本での一番の、そして人生でも一番の想い出なのだそうです。僕はそんな想い出のお手伝いができたことを、とてもうれしく思いました。

その後、僕がデンマークに渡って生活をしていた時に、僕はいろんな人から助けていただき、そして楽しい思いをたくさんさせていただきました。
世界中の友人たちから胴上げをしてもらったり、デンマーク人家庭のクリスマスに招待してもらったり、サッカー場に連れて行ってもらったり、大使公邸でパーティーをしたり、コペンハーゲンで新年の花火を自分で打ち上げたり、そして家を設計させてもらったり。

きっと僕が劉さんにあの頃していたことが、巡り巡って自分に返ってきたのだろうな、と感じることがよくありました。

そして僕もデンマーク語を習得し、デンマーク語で現地の建築大学で学びました。その後デンマーク語で仕事をして作品を残すこともできました。
今でもそのことは、間違った選択ではなかったと思っています。

当時、英語が出来れば十分、デンマーク語で学びたいと理想を言ってもそう簡単なことじゃないと言われながらも、僕がそれを行うことが出来たのは、劉さんという、見本になってくれた友人を知っているからです。

そしてそんな劉さんとの付き合いの中から、自分が他人にしたことが、いずれ自分に戻ってくるということも学びました。

だから僕は人から何を言われようと、困っている人から助けを求められたら、それが自分が正しいと信じられたら、出来る限りのことはしよう。そう思うのです。
そして見返りなど求めず、本心でそういうことが出来ていれば、いつか僕が困った立場に落ち入っても、きっとどこかで誰かが助けてくれる。そう信じているのです。
posted by Coyama at 23:56| 会社のこと