2012年03月04日

今を嘆くよりも

現在、長野県小諸市にあるカフェ「茶房 読書の森」では3月3日から3月25日まで、「東北 神様たちとの復興展」という人形展が行われています。
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そして昨日3日は、オープニングイベントとして宮城県石巻出身である人形作家のイフンケさんの茶話会があり、僕も参加をしてきました。
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実は僕は3月中にどこかで展示を見にいければいいやと思い、当初3日の茶話会にはいくつもりはなかったのですが、お店の方から「3日は是非来ませんか?」というメールを頂き、強くお誘いいただいたということはきっと何か縁があるのだろうと、参加を決めました。

結果として、行ってよかったと思いますし、逆に行かなかったら後悔していたと思います。

茶話会は13時30分から15時までの90分でしたが、部屋を埋め尽くした熱心な聴講者により話は盛り上がり、15分ほど延長して15時15分に終わりました。

僕はこの日、夜は「茶房 読書の森」に宿泊させていただく事にしていました。行くからには出来る限り、得られるものは得たいと思い、講演者のイフンケさんの話を、夜であればゆっくり聞けるだろうと思っていたからです。
イフンケさんはその日の夜遅くに車で宮城まで帰って行かれたのですが、本当に貴重なお話を伺う事が出来ました。

そして淡々と語るイフンケさんのお話もとても心に響いたのですが、イフンケさんの2人のお子さんたちの話が、本当に僕の心を打ちました。
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被災体験という、哀しく厳しい内容ではありましたが、所々に笑いと暖かさが混じり、とても素敵な夜でした。
昨日あの場所で、僕がああしてお話を聞く機会を得られたことに、今は只々感謝をしています。

そんなイフンケさんの茶話会や夜のお話を伺って感じた多くのこと事は、これから何回かに分けて書きたいと思っています。

その中で、まず茶話会の際に気になった事を書きたいと思います。

茶話会は、会場であるギャラリーは人で埋め尽くされていました。それだけ人々の関心も深かったのだと思いますし、会場からも様々な想いで質問や発言が多く出ていました。

そんな質問の中で、震災後の国や行政の対応の不手際に対しての意見がありました。
また、寄付金を集めたのだが、大手ボランティア組織は信用がならない、どこか本当に支援を必要としているところに直接送りたい、という意見も聞かれました。

それらの意見は他所でもよく聞きますし、気持ちはわかりますし、内容は正しいと思います。しかし非難はしないのですが、僕にはどうにもひっかかるものがあります。

それは、お気持ちはわかるのですが、そんな国や行政、組織や人間たちを作ってきたのは、いい大人であるあなたたちであり、私たちでしょ?ということです。

今回の震災後の様々な対応に対して、憤りの気持ちは誰にだってあります。
でも、今の日本や、震災に対応する日本社会を作ったのは、国でもお上でもなく、私たち国民一人一人です。

お金を集め寄付をすることや、自分たちに何か出来る事はないか、と思う気持ちはとても大事です。

ただ、だったらすべき事は何かを、もっと様々な方向から考えないといけないと思うんです。

僕は思います。国の対応を非難するなら、国を変えればいい。組織や人を非難するのであれば、社会をよい方向へ変えればいい。ただしこれは、今この瞬間に国を変えるという意味ではありません。
残念ながら過去に起きたことはもう変えることはできません。
震災のこと、震災後の数々の対応や状況は、今更どうこう言ったって変えられません。
ただ、これからの未来なら変えることが出来ると思います。

「寄付金を何百万円集めました。でも大手ボランティア組織はいろいろな噂もあり信用ならない。どこに寄付すれば本当に役に立ちますか?」などと被災地の人に相談をしたって、相談された方も困ってしまうと、僕は思います。
被災地の人たちは、みな被災したのは自分たちだけじゃないとわかっているから、自分たちだけがその寄付を受けようだなどと多くの人は思っていないと思います。
それを考えることもなく、困っている人へ直接に有効な支援を、と全体を見ずに送る側の満足的な考えで行動してしまう、多くの日本人が持っているその体質が、そのまま前述の国や行政、組織や人々などの不手際とも言える数々の対応に結びついているのではないかと、僕は思います。

僕はこれまで、デンマークの関係で出会った人たちの中で、デンマークは福祉が進んでいる国だということで福祉を学びたいと留学されたり研究をされている方々に多く出会いました。
しかし僕の周りが特別そうだったのかもしれませんが、その方々とお話させていただく中で「自分の周りに親切に出来ないのに、何が福祉だ」と感じることが多くありました。

またまちづくりなどにおいても、地域の高齢者の見守りなどに熱心な方々の中には、その精神や想いは否定しませんが、実は自身が住んでいる家の隣人を知らない、という方も多くいらっしゃると聞きます。

何が言いたいのかと言うと、大事なことは、まずは自分の足下からではないか、ということです。

もし国や行政、組織などの対応に不満を感じ、嘆きを訴えるのであれば、非難するのではなく、次に災害が起きた時にそうさせないために、自分自身がこれからの人や社会を育てればいい。
何百万の寄付金が集まったのなら、そのお金で未来を担う子どもたちへの、きちんとした判断が出来る心豊かな教育に使えばいいじゃないですか。
イフンケさんのお子さんが同級生から「あなたは被災者だからね」と言われて傷ついた、という話を聞きました。傷つけた子も、きっと悪意があって傷つけたのではないと思います。問題は、その子たちが、今後もそのまま大人になっていくか、きちんとした判断や相手を思いやる発言が出来る大人になるかは、今の社会を担っている大人たちにかかっているのではないかと、僕は思います。

僕が言いたいのは、5年後10年後を変えるといったような話ではありません。
もし300年に1度、大災害が起こる可能性があるというのであれば、300年後には絶対に今回の教訓を生かせるよう、今から何をするべきかを考えることのほうが大事なのではないでしょうか。
もちろん300年後に、今を生きている我々は当然ながら生きてはいません。しかし300年後は300年後の人間がなんとかしている、非現実的だなどと思われるようであれば、それは前述の国や行政、組織や人々と一緒ではないか、と僕は思っているのです。

僕が好きなエピソードの1つに、次のようなお話があります。

*****
これは京都にある、あるお寺の話です。
ある時そのお寺のお坊さんが、小坊主に「この寺もだいぶ古くなってきた。はて、この寺は出来てからどのくらい経っているのだったか?」と聞きました。
小坊主は「はい、400年です。」と答えました。
お坊さんはそれを聞き、「おお。400年とはなかなかのものだ。そういえばこの寺はケヤキの木で作られていると聞いたが、切ってからのケヤキの寿命はどのくらいのものなのか?」と小坊主に訪ねました。
小坊主はその場では答えられず、席を外して調べに行き、戻ってきてお坊さんに、「建物に使われているケヤキ材の寿命は約千年ということです。この寺はできてからまだ400年しか経っていないので、あと600年は安泰ということですね。」と嬉しそうに伝えました。
ところが、お坊さんはちっとも嬉しそうではありません。そしてお坊さんは小坊主にまた質問をしました。
「うちの寺はこれほどの大きさだ。これほど大きな寺を造るにはずいぶんと大きなケヤキの木が必要になるのだろう。もう一度この寺と同じものを建てようとしたら、それに使うケヤキは樹齢どのくらいのものが必要になるのか調べてくれるか?」
小坊主はまた調べに行き、戻ってきて答えをお坊さんに伝えました。
「この寺と同じものを建てる場合、樹齢600年以上のケヤキの木が必要になるのだそうです。」
小坊主の話を聞いて、お坊さんの顔色が変わりました。そしてお坊さんは小坊主に命じました。
「今から寺の林にケヤキの木を植えなさい。」
小坊主は意味が理解できず「どうしてですか?」と聞きました。
するとお坊さんは答えました。
「この寺に使われているケヤキの寿命はあと600年。つまり600年後には建て替えることになる。そしてこの寺を建て直す時には樹齢600年以上のケヤキが必要になる。だから今すぐケヤキを植えなければ、600年後の建て替えに間に合わなくなってしまう。」
それを聞いて慌てて小坊主たちは寺の林にケヤキの苗を植えました。
そして今日も小坊主たちは、600年後の寺の建て替えに備えて、ケヤキに水をあげているのです。
*****

今回の東日本大震災という、これまで誰も体験をしたことのない状況で、誰も正しい答えなど出せないと僕は思います。
仮に、前述でその対応を非難されている国や行政、組織や人々が、それらを非難している他の人々に置き換わったところで、誰もが納得のいく正しい行動は出来ないだろうと、僕は思っています。

それらは人が悪いと言っているわけではありません。問題はもっとその根源にあると思ってのことです。

過去は変えられません。でも未来なら変えられます。
もし今の時代や政府を嘆くなら、変えればいいではないですか。

今から動けば、300年後を変えることは出来ると思います。300年後に、災害が起きても、国民誰もがやきもきすることのないきちんとした対応を行える社会を作ることも可能だと思います。

以前、人間1人にできることなんてしょせん限られたこと、と僕に言った人がいました。そうかもしれません。
でも、たとえ1人でも、始めなければ何も始まりません。
そして、人間1人にできることは限られている、などと思っている人には、未来も今も、何も変えることはできない、と僕は思っています。
posted by Coyama at 23:58| 思ったこと・感じたこと