2012年03月11日

明日に向かって

(※メモ:後日要修正)

今日は東日本大震災の発生からちょうど1年。
被災地の方々にとってみればそんな区切りなどは関係ないことだと思いますし、被災を免れ今日を生きていられる私たちも「1年だから」とか関係なく、日々祈りと感謝と前進を考えていかなければいけないと思っています。

そんなことを考えさせられた今日一日でした。

あの一年前の出来事から、本当にいろんなことが変わっていき、いろんなことを考えさせられました。
そんな中、世の中を眺めている中で、日本の人々が『絆』という言葉を使うようになり、今日もあちこちで目にしたり耳にしました。

とても大事なことだと思いますし、それぞれの取り組みを非難するつもりはないのですが、あえて言わせていただきたいと思うのですが、日本人が発しているその『絆』という言葉の裏に、本当に『絆』はあるのでしょうか。

こんなことを書いたら、反感する人も多いことと思います。
僕も僕の考えが、単なる自分の思い過ごしであればいいと願ってますし、出来れば間違いであってほしいと思っています。

ただ、このようなご時世だから、言葉は悪いのですが時代に便乗した『絆』信仰に走っている日本人が多くないだろうかと、思ってしまうのです。

デンマークにいた頃、デンマーク人だけではなく世界各国のいろんな人たちと出会い、その人たちのコミュニティを覗かせてもらいました。
そこには多くの国が、本当に強い『絆』を持っているな、と感じさせられました。
ヨーロッパだけではなく、韓国や中国など、日本のお隣のアジアの国々の方々からも、同郷の繋がりの強さを感じさせられました。

そんな中で、僕が一番国民同士の『絆』が薄いと感じた国民が、日本人だったのです。

他の国の人たちはそれぞれに同郷のネットワークや助け合いが多い中で、我が日本は、なぜだかそういうことをしないように感じました。
これは僕があくまでデンマークでの経験で感じたことで、他国では日本人の強いネットワークも存在しているかもしれません。
だから一概に日本人が『絆』は薄いとは言いきりませんが、少なくとも僕がデンマークにいた時に接した日本人ネットワークは、同時に接した他国のネットワークに比べて、『絆』が薄いと感じました。

例えば、本当にちょっとしたことなのですが、我々外国人がデンマークの首都コペンハーゲンで住居を探そうと思った時に、留学生などこれからデンマークへ足がかりを作っていく人たちにとっては、とても困難なことです。
でも多くの日本人たちはその困難を自分で乗り越えて、自力で住居探しを行っていきます。

ただ他の国の人たちをみていると、なんだかそういった住居情報がそれぞれのネットワークの中で出回っているように、僕は感じたのです。
故郷から今度来る若者が、住居を探しているようなのだがどこかいいところはないだろうか、と誰かが言うと、同郷人のネットワークで情報が回ってきて、とりあえず足がかりは確保が出来る。
もちろん何から何まで人がやってくれるわけではなく、最初の部分は助けるが、その後来てから先は自身で切り開いていくもの。ただ最初の部分は、大変だろうから助けてあげるよ、と言ったようなことが、先輩から後輩へ行われているような気が、僕にはしたのです。

簡単なことだと思うのですが、毎年日本からもデンマークに留学生がいるわけで、同じ時期に来て、翌年に来る人たちと入れ替わりに帰国していく。だったら部屋が空くわけだから、日本人のネットワークを介して後輩へ情報を紹介してあげれば、後輩たちも行く前からの住居探しでさんざん悩むこともないと、僕は思うのです。

僕の知る限りでは、結構多くの人たちがその住居問題には困っていて、結局日本を出る時にもまだ住居が見つからず、最初の数週間は現地のホテルで過ごして住居探しをしていた、ということをよく聞きました。

その住居のことだけではなく、右も左もわからないで渡った異国で、知らないことはたくさんあるわけです。
でも、住んでいるうちにわかってくることはいっぱいある。

例えば、故郷が恋しくなり日本食材を食べたいのだが、純粋な日本食材は高くて貧乏学生にはなかなか手が出せない。
でも、どこどこのスーパーで売っているなんとかと言う食材は、日本食材に近い、とか、調味料は純正とはちょっと違うけど、ここの店で手頃な値段で手に入る、とか。
逆に日本食材でなくても、現地で安くてお腹いっぱい食べれるお店、日本から客人が来た時に連れて行けるおすすめのレストラン、素敵なカットをしてくれる美容院、親切な店員がいる雑貨店など、教えたからと言って損になるような情報でもないでしょう。

また差し上げます譲りますといった、先輩が後輩へ贈れるものって普通にあると思うんですよ。電化製品とか鍋とか。

それは、もちろんその右往左往すると言う経験も重要なことなのですが、先へ送れることは先輩から後輩へ伝えていっていいと、僕は思うのです。

そういった、日本人のネットワークって出来ないのだろうか、先輩たちが後輩たちへ繋いでいく、人としての、いわゆる『絆』というものが出来ないのだろうか、と僕はデンマークにいた時に感じて、それを作ろうとしました。

あれからもう10年が経ったわけですが、今それがデンマークに出来ていないということは、出来なかった、というのが結果なのだと思いますが、まぁでも今は当時とだいぶ状況は変わっていて、インターネットが発達したりmixiやFacebookといったSNSも活用されていますので、意外と事足りてしまっていることもあるのかなと思っています。

ただそのネットワークを作ろうとした時に、たくさんの日本人の人たちと話をしたのですが、多くの人たちがその必要性を感じてくれなかったことを覚えています。
賛成してくれて協力してくれたのは、1割ぐらいの人たちでした。
半分は、あってもなくてもいい。という人たち。これはわかります。
2割ぐらいの人は、なんで海外に来てまで日本人と付き合わなければいけないの。私は海外に来たんだから日本人以外と付き合いたいのよ、という人たち。これも、僕は好きではありませんが、お気持ちはわかります。
ただ驚いたのは、残り2割の反対の意見の人たちが言った言葉でした。

今でも覚えているのは、上記のようなネットワークがあると後輩たちの役に立つのではないかと、留学されていた年上の研究者の方にお話しした際に、その方は僕にこう言いました。
「なぜ私が人に何か教えなければいけないのか。私の苦労は私の苦労。それを後輩に教える必要はない。人はそうやって成長していくものだから。」

僕はその方々が勘違いをしているのかと思い、研究成果や学んだことを伝えていくのではなくて、日常生活の便利情報や後輩たちに役立つ生活のちょっとした情報だということを説明したのですが、残念ながら先の言葉を繰り返されるだけでした。

他にも「大きなお世話」や「必要性が感じられない」といった意見も多く聞かされました。

結果としては、僕が他国のネットワークから感じた強い同郷人間の繋がりは、僕がデンマークにいた時期に前後する日本人のネットワークからは見出せませんでした。
挑戦をしてみたものの、結局はつくられていくネットワークは、仲の良い人同士、近くにいる人同士、気の合う人同士で固まってしまうという個別の集まりに収まっていき、それが日本人らしいということなのかなと考えさせられました。

ちなみに僕がそんなことをしていたのは、今から10年近く前の2003年前後のことです。

『絆』ということでは、その8年前に阪神淡路大震災が起こり、今の東日本大震災のように日本が一つになり、人と人とが助け合う、『絆』というものがいかに大切か、ということが今と同じように取りだたされていたのではいかと思うのです。阪神淡路大震災を機会にボランティア組織なども多く発達し、それが脈々と受け継がれて今回の東日本大震災の直後にもとても効果のある助けになったと聞きます。

それなのに、阪神淡路大震災の8年後にデンマークで僕が見た日本人の縮図社会には、人と人同士が助け合う、先輩たちが後輩たちへ何かを伝えていくと言う『絆』が、僕には“20代30代の多くの若者が持っていない”と当時感じさせられました。

デンマークの日本人社会が特殊だとも思えませんので、きっとそのことは日本でも同じなのだと思っています。

阪神淡路大震災の後も、復興や助け合いということは多く聞かれたと思います。
そしてその時の教訓は、確かに東日本大震災の時にも活きたと思います。

でも、人の気持ちは、どうなのでしょうか。

今日、『絆』『絆』と言っている人たちは、今だから流行信仰で思い込みで言っていることなのか、心の底から考えてこの先も持ち続けてくれることなのか。

先日、被災された方の話を聞いた時に、その方がこんなことを言っていたことが気になっています。

「今回のことで考えたことをそれぞれの地方の人がそれぞれで活かしてくれるというのが、ひとつの未来に向かってのことだし、それってすごく大事なんじゃないかと思うんです。そうしないと、ただひどいことがありました。何年間かけて戻りました。となってしまって、それだけでは意味がないと思うんです。」

それで僕がデンマークにいた時の日本人留学生社会で感じたこと思い出したわけです。あの頃の若者は、阪神淡路大震災を抱え復興を支えたた日本の国民の、人と人との『絆』を教訓に学べていたのだろうか、と。

そして、今、東日本大震災を機に、日本の人たちが口に出していったり心の中に思っている『絆』は、本当のことなのか、一過性の流行熱のようなものなのか、と考えてしまったわけです。

『絆』を掲げ、活動されている人たちを非難するつもりも批判するつもりも全くありません。心から支持し、応援しています。
その中で、今はその気持ちが本心だろうが流行であろうが、それでいいと僕は思っています。
大事なことは、今はそれが流行で乗っ掛ったことである人たちでも、続けていくことで本心になれるかどうか。
それには本人の気持ちもありますが、周囲の環境や大人たちも重要になってきます。

なんだかまとまりのない文章になっていますが、言いたいことは、今回のことで考えたことを、きちんと未来に向けていこう、ということです。
1〜2年で熱が冷めてしまうことではなく、10年も20年も30年先も心にあるような、そんな芯を持った大人たちを、少しでも多く日本に作っていこうじゃないか、ということです。

多くの方が亡くなり、たくさんのものを失ったことの痛みを、少しでも和らげられることがあるとしたら、それは悲しみからの教訓を活かした未来の日本が、明るく良い社会になっていて、周囲と『絆』を結うことのできる子孫たちが、笑顔で暮らしていることなのではないでしょうか。

ではそれに対して僕自身に何が出来るのかはわからないのですが、とにかく扉は、叩き続けていこうと思っています。

最後になりましたが、東日本大震災やこれまでの天災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げ、被災されたすべての方に、改めてお見舞いを申し上げたいと思います。
posted by Coyama at 23:59| 思ったこと・感じたこと

2012年03月10日

アーカイビングとアーキビスト

(※メモ:後日要修正)

先日、東日本大震災の直後に様々な場面で対応に当たっていた主要機関のいくつかが、議事録や議事概要を作成していない、記録を残していない、ということが発覚し、ニュースになっていました。

今になって発覚したこの問題は、実はとても重大な要素を持った大変な問題だと言うことに、日本では気がついている人はあまり多くないように感じています。

人間の記憶というものは曖昧で、人間という生き物は忘れてしまう生き物ですので、記録というのはとても重要です。

身近なところで、買い物に行くのに、買うべきものをメモを取らずに頭の中だけで記憶して、簡単なことだから忘れっこないと自信を持っているにもかかわらず、いざお店に行ってみると何を買おうとしていたのか忘れてしまった、なんて経験はみなさんも1度は覚えのあることだと思います。

仕事などの打ち合わせでも、「ここをこう修正して」と言われた部分を、忘れるわけがないだろうとメモもしないで頭の中に記憶していても、打ち合わせ後のちょっとした世間話などで頭の中から消えてしまい、修正されないまま次に進んでしまう、と言う経験をしたことのある人も少なくないと思います。

こういう小さなことから、前述の国レベルでの大きなことまで、記録というものは、いつ誰がどのように発言し、どのように決断したのかを、後に知る重要な手だてになります。

この震災後の対応に関しても、とても大きなことではありますが、得てしてその他の部分においても、日本人と言うのはこの「記録保持」という部分において、重要視していない節があると以前から僕は感じています。

2006年から僕は2年間を工学院大学で、2008年から4年間を早稲田大学で、研究プロジェクトにおける「アーキビスト」という職に就いていました。

名刺などにもその役職を記載していたのですが、多くの人が「アーキテクト」であったり「アクティビスト」と勘違いして記憶しており、仕事で多くの大学の先生や省庁行政の方々、専門職の方々と関わったのですが、僕の記憶にある限りではこの「アーキビスト」について理解している人は数名しかいらっしゃいませんでした。

この「アーキビスト」は英語で「Archivist」、要は「アーカイビングをする人」です。日本人でもこう説明すると理解をする人が多いのですが、「アーカイブ」という言葉は一般にも知られていると思います。
知られたところでは映像に記録して残すことを目的にした「NHKアーカイブス」などがありますよね。

この「アーキビスト」というのは欧米では一般的な職業です。研究組織や活動機関などには専属のアーキビストがいます。
アーキビストはその所属する機関や組織で起こるあらゆることを記録し、整理し、いつどこで誰に質問をされたり資料を要求されてもすぐに応えられるようにしておきます。
これは学術的や行政的なものばかりではなく、例えばハリウッド映画などにも専属のアーキビストがいます。先日もテレビを見ていたら、テレビドラマから映画にもなった「スタートレック」シリーズのアーキビストが、映画で使われた小道具についての説明をしていました。彼らは作品に関することばかりではなく、ロケ場所、小道具などのすべてのものを把握し、記録し、管理しているのです。

僕自身は欧米のアーキビスト職について詳しく調べたことがありませんので、どの程度の地位や権限を持った役職なのかはわからないのですが、それでも一般に知られた職で、研究組織やプロジェクトのアーキビストを経て大学教授になった人なども多いそうです。

でも考えてみるとアーカイビングは大事なことで、日本でそれが行われていない方が不思議に思います。

毎年、何億円、何兆円といった額の助成金や補助金が大学や研究機関などいろいろなところに落ちていますが、そこでの成果というものはそれぞれに使われてそれぞれで消化され、グループ内の縦には繋がっても横に繋がることがなく、世の中に広く伝わるものはほとんどないと言っても過言ではないと思います。
一般公開された記録があったり、アーキビストといった職や立場がきちんと確立されていれば、それらの研究成果などが縦にも横にも繋がり、世のため人のため日本の未来のためになるかもしれないのに、現状はそうはいきません。

以前、日本に留学をした経験を持つ知り合いの外国人が、日本の組織に対して次のような感想を述べてました。

『日本は同じワーキンググループの中で働いているのに、誰もがみんな競争相手で、しかも、興味のある分野の別グループの人と手を組もうとすると、良いとも悪いとも言わず、わかりづらく逃げられる。』

僕もその通りだと思います。
日本人は、同じムラの同じ仲間でない限り、協力し合わないですし、自分がいいなと思っても、それに対して「いい」とも「悪い」とも言いません。
それは「いい」と言えば角が立ち、「悪い」といえば角が立つ社会だからだというのも、理由の一つにあると思います。

だからアーキビストがいて、アーカイビングがされていて、それが一般にも情報を公開していたところで、繋がっていくかどうかは、よくわかりません。
日本には公文書などといったものはありますが、日常的なことにおいてのアーカイビングというような記録をする習慣は備わっていないように感じています。だからアーキビストという職の必要性も知らなければ、その重要性も知らないのではないでしょうか。

僕が関わっている長野県小諸市で行っている「こもなみ倶楽部」の活動は、現在4年前に突入しています。3年目である昨年はトヨタ自動車株式会社から助成金をいただき、年末にはあしたのまち・くらしづくり活動賞という賞もいただきました。
あれをまちづくり活動だと言うのもどうかとは思いますが、少なくとも3年以上続き、社会的な評価も受けていると言う点では、成功している事例と言えると思います。
ではその成功の秘訣が何かと言うと、「メンバーが熱心だから」などという人もいますが、それはまったく違うと思います。

こもなみ倶楽部の活動に関しては、始めた当初から、活動をきちんと記録をし、それをホームページなどにも公開し、情報の共有を計って来ました。
どんな活動もそうなのですが、中心に熱心な人がいて、その人は活動に対して熱く語るのですが、背景を知らない人から見ると、その熱意は半分も伝わらないものなのです。
こもなみ倶楽部が今になってどんなに「最初は耕作放棄地で根っこがすごくてね」と口だけで言っても、これから初めて参加する人たちにはその言葉の持つ意味合いはほとんど伝わりません。

かといって今から過去に戻って写真や映像を記録するのは不可能です。
だから何かを行おうとする際には、最初から記録や写真、映像と言うものを記録しておくということは重要で、かつそれを外部の人が容易に閲覧出来る仕組みが重要になるのです。
それらアーカイブがあることで、関係者は共有の意識が持てますし、自身が参加をしていない部分のことも知ることができ、活動に継続性が生まれます。
活動はどんなものでも先細るものです。人間の何かに対しての情熱は、大抵は1〜2年しか続きません。
しかし情報や経過が共有されていれば、内部で人が循環しようとも表向きには何年も継続していくものとなり、社会的な評価を受けやすくなっていきます。
そして評価を受けると、人がまた集まって来て、継続にも繋がっていく。

こもなみ倶楽部がうまくいった理由の一つは、このアーカイビングがうまく出来ていたからだと僕は思います。

どんな小さなことでも記録をしていくこと、そしてそれを整理していくことは大事なことです。

記録や資料がなければ誰にも理解されません。その場で議事録などに起こせなくても、せめて録音を残しておくということは、少しでも覚えがある人であれば気がつくことです。

そういうことに慣れてなく、また重要性を理解出来なかった先人たちのツケが、冒頭の震災後の記録不備の問題を引き起こしたのではないかと、僕は思うのです。
posted by Coyama at 23:55| 思ったこと・感じたこと

2012年03月09日

アメリカ大陸発見の真実

世の中ではアメリカ大陸を発見したのは15世紀の南欧人、クリストファー・コロンブスさんだと言われていますが、実はそれ以前に北欧人がすでにアメリカ大陸を発見していたということはあまり知られてはいません。

たしかにヨーロッパに初めてアメリカ大陸の存在を紹介したのはコロンブスさんかもしれませんが、実はそれ以前にすでに北欧人がアメリカ大陸に上陸していたのです。

そのことは当時はデンマーク連合国でもあったアイスランドの歴史書に記されています。

この歴史書は『Flateyjarbok』と言うのですが、1387年から94年にかけて202の項目に分けられて書かれたアイスランドの歴史書で、15世紀にはさらに23項目が追加され、現在は2冊に分けられて製本され保管されています。

この内容のほとんどは、当時はデンマーク連合国でありアイスランドを統治していたノルウェーの歴代の王様たちの武勇伝からなっているのですが、この中にアメリカ大陸を発見したという、ヨーロッパでも最も古いとされる記述があるのです。

デンマークを中心としたスカンジナビア文明は、その昔フェロー諸島、アイスランドを介して、さらに西のグリーンランドまで勢力を広げていました。
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彼らは、俗にいう「バイキング」と呼ばれるスカンジナビア人です。

そしてその当時、ノルウェーからの貿易船がグリーンランドへ向かう途中、荒波でさらに西へ流され、そこに大陸を発見したのがアメリカ大陸発見の最初と言われています。

その後グリーンランド移住民が997年に本格的に調査隊をその西の大地に派遣し、発見したその大地を「ヴィンランド」と名付けました。
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そのヴィンランドは現在の北アメリカにあったとされています。

調査隊はこのヴィンランドの地に拠点を築くのですが、結局はその土地の先住民と争いになり、その戦いに敗れてグリーンランドへと撤退しました。
この時の先住民はネイティブアメリカン民族だと言われています。

このことが歴史書『Flateyjarbok』に書かれているのですが、コロンブスさんはアメリカ大陸を発見する前の1477年にまずはヨーロッパを北上してアイスランドへ渡り、この『Flateyjarbok』に目を通しているのです。
そしてその記述をもとに、西へと航海し、アメリカ大陸を発見したのです。

コロンブスさんがアメリカ大陸を発見する5世紀も前に、実はすでに北欧人がアメリカ大陸に上陸をしていた。
その5世紀後に南欧人のコロンブスさんが、その情報を元にして西へと航海し、アメリカ大陸を発見してその存在をヨーロッパに広めた。

この話を知るまで、コロンブスさんは闇雲にスペインから西へ向かって航海し、大西洋を横断してアメリカ大陸に到達したと思ってました。
しかしその背景には、きちんとした裏付けと、先人たちの布石があったのです。

欧米の歴史の奥には、実はあまり知られていない、そんな真実があるんです。
posted by Coyama at 22:44| デンマークのこと

2012年03月08日

振り向けば猫ひろし

2012年現在、お笑い芸人の「猫ひろし」さんが、カンボジア国籍を取得し、カンボジア選手としてロンドンオリンピックに出場しようと挑まれている姿を、テレビで何度か拝見しています。
そんな猫ひろしさんに僕は実は2度ほど会った事があります。

最初は2007年の7月、富士山の麓の富士北麓講演で毎年行われている24時間リレーマラソンに参加をしたとき、その年のゲストとしてやってきたのが猫ひろしさんでした。
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しかしその年は大会開始15年目ではじめての台風が直撃。前夜から大雨の中、なんとか開催したものの、その年は24時間を6時間に短縮しての決行となり、土砂降りの大雨の中での開始となりました。
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このマラソン大会では仮装をして走る人が多く、僕もその年はアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の主人公・鬼太郎さんの格好をして参加をしていました。
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この大会は、ただ走るだけではなく、24時間(この年は6時間でしたが)の間に様々なイベントが用意されています。

その中のひとつにウルトラクイズがあり、襷を繋ぐリレー方式のマラソンのため次に僕の走順が回ってくる間に時間があったため、僕もクイズに参加をしました。

するとそのウルトラクイズのゲストに現れたのが猫さんでした。
ニャ〜、というつかみの挨拶のあと、会場にいるたくさんのコスプレをしているランナーたちを見て、猫さんが話し始めました。
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「あ、ゴレンジャーみたいな人たちがいますね。」「ショッカーもいる!」などと言った後、僕に向かって「鬼太郎もいますね〜」と言ったので、僕は『どこっ!』といった感じで後ろを振り向きました。
すると猫さんは「あなたですよ〜!」とツッコミを入れてきました。

ボケである猫さんに、僕はツッこんでいただきました。

その後、ウルトラクイズの司会を終えると、猫さんは「昇龍拳っ!」と声高に叫び、豪雨の中、マラソンコースに走り出していきました。
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そしてその年の大会は台風直撃のため、6時間目で幕を閉じました。
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そして翌年の2008年7月に、僕が再びその24時間リレーマラソンに参加をすると、昨年の不完全燃焼さもあってか再び猫さんがゲストとして呼ばれていました。
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その年の僕は「くまのプーさん」の着ぐるみ帽子(真夏のため全身着ぐるみは危険なのです)をかぶって走っていました。
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その年もウルトラクイズがあり、猫さんがステージに上がってトークをされているのを横目に、僕は黙々と走っていました。
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大会は200チーム以上が参加をしているので、常に200人近いランナーが走っており、あまり他のランナーを気にする事はないのですが、そんな中で僕が走っていると、いきなり後ろから「プーさん!」と声をかけられました。
振り向くと、そこに猫ひろしさんが走っていました。

そこですかさず「猫さんっ!」と返したのですが、すると猫さんは僕に向かって「借りてきたプーだ!」と・・・

あれはどういう意味だったのでしょうか?

そしてその後しばらく僕は猫さんと一緒に走ったのですが、やがて僕はついていけず、「どうぞ先に行ってください!」と猫さんの背中に声をかけ、猫さんは先を走り抜けていきました。
僕はその離れて行く猫さんの後ろ姿を見た時に、すでに彼がロンドンオリンピックへ向かうことを予感しました(嘘)。

その後、襷を次のランナー渡し、次回の自分の走順が来るまで1時間以上あるため、待機会場の裏手にある出店が並んでいるエリアに向かいました。そこには焼きそばだとかお好み焼きだとか、いろいろなお店が出ていて、参加者を楽しませてくれるのです。
チームメンバーの知人と共に、僕がその出店エリアに向かうと、その手前に何人かの人だかりがあり、その中心にちょうどスーツに着替えて帰ろうとしていた猫さんがいました。

人気者の猫さんは、あちこちから記念撮影を頼まれ、それに応じていたのです。
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しかし隣にいるマネージャーらしき人物は時間を気にしており、そろそろ行かないとと猫さんに声をかけています。

そんな中、女性グループと写真を撮った後、固まりの横にいた僕がカメラを持って「次は、、、」と手を伸ばしたところで、マネージャーさんが僕を含む周囲にいる人たちに「すみません、次に行かないといけないので、申し訳ないですが写真はここまでで、、、」と無常な宣告。

その時、手を伸ばしていた僕と猫さんは目が合ったのですが、申し訳なさそうに僕を見つめる猫さん。

そして帰りの駐車場に向かうべく、猫さんとマネージャーさんが足早にマラソンコースである道路を横切って渡ろうとしたとき、ちょうどランナー集団が続いて、猫さん達が一瞬足止めをされました。
すると次の瞬間、猫さんが振り向いて、僕に向かって「今のうちに・・・」とカメラに手を伸ばしてきたのです。
そしてマネージャーさんにカメラを渡して、その時に撮ってもらった写真がこれです。
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猫さん、本当にサービス精神が旺盛で、素敵な人でした。そのことで、僕は大好きになりました。

今、ロンドンオリンピックに挑戦しようとしているその心意気も、とても素敵なことです。
是非その夢を叶えてロンドンオリンピックに出場してもらいたい。結果がどうあろうと、僕は心から猫さんを応援しています。
posted by Coyama at 23:59| どうでもいいこと

2012年03月07日

それでいいのかよ!

先日の「茶房 読書の森」での人形作家イフンケさんの座談会。会場は入りきれないくらいの人で溢れていました。
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みなさん熱心に話を聞かれていたのですが、実はひとつ残念なことを聞きました。結局座談会に参加をされた方で、積極的に寄付をされたりイフンケさんの人形を買われた方がいなかったのだそうです。
中には「これだけ募金を集めました。どこに送るとよいでしょうか!」などと喰いつくようにお話しされている方もいたのに、その方々が被災されたイフンケさんのお人形を買うこともなかったのだとか。

でも僕はふと思ったのです。
イフンケさんは自身も被災し、ご両親とおばあさまを津波で亡くされ、離ればなれで被災したお子様たちと数日後に涙で再会され、大変な状況を乗り越えてご自宅に戻った際に、奇跡的に人形たちが生き残っていたの見た。繊細なものなので、きっと家具や何かに押しつぶされたり、落ちて壊れたりしていると諦めていたのに、人形たちはきちんと残っていたのだそうです。
イフンケさんはその姿を見て、自分はこの人形たちを作っていくことで、人々に希望を与えたいと決心されたのだとか。

僕は人形に関しては素人ですのでよくわかりませんが、素人目で見ても心安らぐ素敵な作品だと思いました。
そしてイフンケさんのお話をお聞きし、購入したいとか購入することでお金を渡したいとかそういうことではなくて、淡々と語るイフンケさんのお話と、何か背後には一抹の哀しさを持ちつつも前向きに震災のことを語ってくださるイフンケさんが、思いを込めて作られたものを、是非手元に置かしていただきたいと思い、1つ譲っていただくことにしました。
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当日の座談会でとても印象に残ったのは、イフンケさんのこんなお話でした。

*****
あの、あまり表立っては言えないですけど、僕的には、今回のことで考えたことをそれぞれの地方の人がそれぞれで活かしてくれるというのが、ひとつのなんていうか未来に向かってのひとつだし、それってすごく大事なんじゃないかと思うんです。
そうしないと、ただひどいことがありました。何年間かけて戻りました。となってしまって、それだけでは意味がないと思うんですね。
それぞれの人がそれぞれの立場で考えてやってくれるというのが、すごく僕はありがたいことだなと思います。

それと、こういう小さな集まりではあったんですけど、こんなにたくさん人が来てくれるということ、向こうのことを考えていますよという人がいるということが、ものすごく嬉しいんです。
あのね、石巻の市内ですら格差が今ものすごいんです。結局水が来たところは徹底的にダメになってしまった。来なかったところは3日か4日目ぐらいから電気もついているし、水道の復旧は遅かったけども、まぁ、要は前と変わらないですよ。
だからまぁ被災したなんて言ったって、感覚的に、いつまで被災者面しているのよ?みたいなふうに石巻の中でもそうなっていることもないわけではないですしね。

ただそういう中にいる人にとってみると、本当に我々がその生活が何とかなる前に、震災があったこと自体が忘れ去られてしまうんじゃないかという恐怖がすごいあるんです。
去年あたりなんか、“こんなすごいことあったけど、暮れの番組で今年こんなことがありましたね”と紹介されて終わっちゃうんじゃないか、みたいな話があったくらいです。
だからよその人の目がまだ向いているんだよというか、忘れていないんだよということを伝えてもらえるということは、本当に嬉しいことだと思いますね。

さっきから何度も言っているように、あまり国とか大きな機関があてにならないというのは、やっぱりわかる。だから余計に個人的にというか、向いている人たちがいるんだよということが、見える・わかるというのは、すごく嬉しいこと何じゃないのかな、って。
そう思います。

だから気持ちが向いていてくれるということ。忘れてないよ、っていうのは、それだけでもね、すごく、大きな力なりになってくるのではないかな、と思いますね。
*****

もちろん直接的な支援や寄付金集めも大事なことだと思います。

実は当日の会場で、義援金の送り先の話などが多く出ていました。
「私はこれだけ集めた。」「知り合いで何百万円集めていて、それを送りたいけど大きな組織は信用ならないから、どこぞの自治会などに直接送りたい。」

“自分は!”
“自分が!”
“私たちは!”
“なんとか議員は!”
“被災地行きました!”
“お金!”
“義援金!”
“100万円!”
“200万円!”
“300万円!”

そんな言葉が、いい具合にお年を重ねられ、経験やネットワークを持たれていて、積極的で行動的な、見た目は大人の方々からたくさん出ていました。
大事なことだと思うのですが、でも、なんか違うと、僕は思うんです。

イフンケさんはこうも言ってました。

*****
実はこれも報道ではあまり出ていないのかもしれないですけど、あのね、確かに、まぁ悪い面なんですけど、いろんな支援とかが全国から来たりしているのですが、逆に、私は今農家さんを手伝う仕事をしているのですが、その青年部の会と言う若いお兄ちゃんたちの集まりで、要は今まで宮城県産だとか福島県産が出ていた業界のシェアを、ここぞとばかりにみながよそから取っていっちゃうんですよね。それがものすごいんですよ。
それで宮城のイチゴなんてのがあったのですが、それが出せなくなったので、2倍増産をしているところとかがあるんですね。それがどんどん増えている。そういうことが進むと、どうなるかというと、仮に農家の人がもとの土地で作れるようになりましたとなっても、もとのような生活っていうのはもうできない、売る場所がなくなっちゃうから。
だから結構こういう再開発のような時も、結局地元の企業がダメになっているんですよね。よそからのものに取って代わられる。もうけっこう噂されています。

だから「それでいいのかよ!」って、やっぱ心情的にはそうなりますよね。

大昔に、江戸の大火で材木を売ってもうけた人もいますけど、それと同じことを今やってていいのかよ!って。
で、「それでいいのかよ!」っていうことは、一人一人がやはり考えて、さっきも言ったように地元での自分たちの身近なことへのあり方とかでいいのですが、みながそれを考えてちょっとずつ変えていく。そういったところから、というのもやはり一つの支援じゃないかな、と思います。

だから本当、考えること。
人間としてこれでこうやって生きていていいのか。
たくさん。うん、そうなんじゃないかな、と思います。はい。
*****

「それでいいのかよ!」

とてもいいお話で、とても心に響いたのですが、残念なことにこの発言の後に、ご自身の活動の宣伝をされた方々が数人いらっしゃって、思わず心の中で「それでいいのかよ!」と思ってしまいました・笑
直前に『さっきも言ったように地元での自分たちの身近なことへのあり方とかでいいのですが、みながそれを考えてちょっとずつ変えていく。そういったところから、というのもやはり一つの支援じゃないかな、と思います。』と言われたばかりなのに。

もちろん、みなさんが行われていることは、どれも素晴らしいことだと思います。
行っていることを僕は全く非難はしません。正しいことだと思います。

でも、その活動だけが全てじゃない。唯一じゃない。

現地に行くのが偉いのか?お金を集めるのが偉いのか?

「それでいいのかよ!」

こんなことを書いて、じゃあ自分には何が出来るのか、イフンケさんの人形を購入したからいいのか、と、そうでもないと自分でも思いました。
それで考えて考えて、自分に出来て、一つでも何か役に立つことはないかと考えました。

座談会当日、会場は溢れんばかりの人で、最終的には会場に入りきれず、話を聞きたくても聞けない方もいらっしゃいました。
お子さん連れで来られていたけど、子どもがぐずりだして途中で出て行かれた方もいました。
また当日関心はあったけど、予定があって来れない人もいたことでしょう。

当日のイフンケさんの話は、本当に心に響く素晴らしいお話でした。
東日本大震災の被災地の支援に対して、ちょっとでも関心があるのであれば、聞いてもらうだけの価値のあるものだと思いました。もっと多くの人に知ってもらいたいと思いました。

実は当日、僕はICレコーダーを持ち込んで、座談会を録音していました。
そこで、今の僕が出来ることとして、その約100分の座談会を、文章に起こすことにしました。

先日のブログに、僕は無理なことはしないと書きましたが、こういうことは早ければ早いほどよいと思い、ちょっとだけ無理をして、録音を全て文章に起こし、昨日「茶房 読書の森」へメールでお送りしておきました。

その文章はさっそく今朝から「茶房 読書の森」に置かれているそうです。

ご興味ある方は、カフェでコーヒーを飲みながら、ゆっくりとそれを読んでいただいて、ギャラリーでイフンケさんの作品をご覧いただくと、また違った見方が出来るのではないかと思います。
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また場所が場所だけに、行きたくても行けないという方もいらっしゃると思います。
もし座談会の内容に興味がある方がいましたら、メールなどでご連絡いただければ、そのレポートをお送りさせていただきます。

自慢するつもりはまったくなく、本当はこのことは書きたくなかったのですが、現地に行くわけでもなくお金を出すわけではないけれど、自分たちの身近なところでも出来る支援の形のひとつの例として、書かせてもらいました。

本当、『地元での自分たちの身近なことへのあり方とかでいいのですが、みながそれを考えてちょっとずつ変えていく。そういったところから、というのもやはり一つの支援じゃないかな、と思います。』だと思います。

イフンケさんは座談会の中でこんなことも言ってました。

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やはり今回のことがあってすごく思うんです。「縁」という目に見えない力は本当に認めざるを得ないな、と思うんです。
脳みそで考えるというよりも、僕の場合はもう脳みそで考えた他に実体験にすりこまれてしまったところがあるので、もう降参状態なんです。そういうものを認めるしかないな、と。
で、それを認めてしまうとすごく、世界が変わって見えてくるんです。
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それで、冒頭の人形の話なのですが、あれはきっと人形を買ってくださらなかったのではなく、人形の方が持ち主を選んだのだと、僕はそう思うんです。
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さて、みなさんとは「縁」がありますでしょうか。
posted by Coyama at 23:54| 思ったこと・感じたこと