2012年03月16日

同行二人

「宇宙銀行」って知ってますか?

「宇宙銀行」というのは実際にある銀行ではなく、目に見えない架空の銀行で、そこでは「お金」ではなく「徳」を扱っています。

世の中のためにいいことをしたり、誰かを喜ばせたりすると、その人の銀行の口座にはどんどん残高が増えていく。
そして宇宙銀行に一定量の徳が貯まると、その人のもとに幸運が訪れるのです。

反対に悪いことをしたり人を悲しませたりすると、宇宙銀行には借金が増えていきます。
そして徳の借金がいつまでたっても減らない人には、ある時その人が悪いことをした分だけ不幸なことが襲うのです。

僕も昔から、いいことをするとどこからかいいことが返ってきて、悪いことをすると別のところで痛い目にあうことが多く、いつの頃からか自然とそのことを身につけました。
そして逆に悪いことは出来なくなってしまいました。

いわゆる昔から言われている、「誰も見ていないと思っていても、お天道様は見ている」というものですね。

数年前に「オーラの泉」というテレビ番組を見ていたら、その時のゲストだった俳優の哀川翔さんが、同じようなことを言ってました。
哀川さんの場合は「ラッキーバンク」と呼んでいました。
その時に美輪明宏さんや江原啓之さんが、その話は知っている人は知っている話なのだと言ってました。

今読んでいる本の中にも似たような言葉が出てきています。
京セラや第二電電の創立者である稲盛和夫さんの「生き方 人間として一番大切なこと」という本なのですが、稲盛さんは還暦を過ぎてから得度されているのですが、上記のようなことを稲盛さんは仏教の言葉で「徳」を積むこと、と言っています。

そういえば僕がデンマークに行く前に、日本を捨てて海外へ行くからには、きちんと日本に挨拶をしてから行かなければと思い、埼玉県秩父市にある札所34カ所巡りをしました。
すべて徒歩で回ったのですが、確か7日から8日間かかったと記憶しています。

その時に覚えた言葉で「同行二人」というものがありました。
これは『巡礼中はあなたは常に仏様と二人で歩んでいる。そしてその仏様は様々なものに姿を変えて、あなたの前に現れる。
それが仏様だとはわからなくても、その仏様が扮したものに親切にすると、いずれ巡り巡ってどこかでその親切はあなたのもとに返ってくる。
人から親切にされることがあったら、それはあなたが以前に何かに親切にしたからで、仏様が姿形を代えて返してきたもの。逆に悪いことがあると、それはあなたが以前にどこかで何かに不親切にしたことが返ってきたもの。
巡礼中、あなたは常に仏様に試されている。
仏様が姿を変えるのは人間とは限らない。動物かもしれないし、植物かもしれない。
そういう気持ちで歩みなさい。』といったようなものでした。

そういえば、その巡礼を僕は当時住んでいた東京の東村山市から通いで行い、朝早くに出て日が暮れたら帰宅していたのですが、その途中で大雨の日があり、秩父と飯能を結ぶ西武秩父線が僕がちょうど帰宅する途中で止まってしまい、復旧の目処が立たず途中の駅で立ち往生してしまいました。

とにかく雨がいつ止むのかわからず、運転再開はまったくの未定。
しかも止まったのは、周囲に何もない無人駅です。

日はどんどんと落ちていき、周囲が暗くなり始めていました。
乗客の数人はタクシーで秩父の方へと引き返して行ってたのですが、僕はほとんどお金を持ってなく、それもできません。

困ったあげく、ダメ元で道路に出てヒッチハイクをしたところ、車で通りかかった一人のおばさまが、なんと飯能駅まで送ってくださいました。
そのおばさまは秩父へ帰る途中だったそうなのですが、車内で大雨のニュースを聞いていたところにちょうど僕を見かけて、一度は通り過ぎたものの、これも何かの縁だろうと引き返してきてくれたのです。

そしてそこから飯能駅まで1時間近く、雨の中を車で送ってくださいました。
飯能駅から先は電車は動いていましたので、僕はその日無事に家に帰ることが出来たのですが、今考えてみると、あれはきっと「同行二人」だったのだろうな、と思っています。
でもそれに気がついたのは、それから7年も8年も経った後のこと。ちょうど冒頭の「宇宙銀行」の話を本で読んだ時でした。

そんな経験があるので、僕は特に宗教も持たず特別な信仰もないのですが、最近では同行二人の精神を忘れないようにし、日々「徳」を積み重ねようと、「宇宙銀行」や「ラッキーバンク」に『いいこと貯金』をするよう心がけているのです。
posted by Coyama at 23:22| 思ったこと・感じたこと

2012年03月15日

誕生日に思うこと

(※メモ:後日要修正)

毎年誕生日になると、JALから次のようなメールが届きます。

*****
お誕生日おめでとうございます
いつもJALをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。
お祝いの気持ちを込めて、バースデーメールをお届けいたします。
素晴らしい旅に恵まれた、健やかな1年でありますように。
*****

36回目の誕生日の今日も届きました。

きっと何かの際に誕生日を登録したため、誕生日になると自動的に贈られてくるのだと思いますが、サービス旺盛だなと思うよりも、なんだかその機械的な送付に嫌な気分になります。

そんなことを思った時に、ふとあることが気になりました。

僕は日本で騒がれる前から、Facebookを利用しています。最初は海外の友人たちとのコミュニケーションツールとして利用していました。
それが昨年の春過ぎあたりから急に日本で使われるようになり、気がつくと日本では当たり前のように使われるようになって、僕もそれまで使っていた英語やデンマーク語と違って、日本語でやり取りできるのが楽になり、今ではほとんど日本語で書き込みをしています。

ただ気になっていることのひとつに、プロフィールに誕生日の登録があり、Facebookを利用している方ならご存知だと思いますが、友達登録をしている人が誕生日になると自分のFacebookの画面上にそのことが表示され、お祝いメッセージを送るよう促されます。
さらに共通の友人たちがその人に誕生日メッセージを送ると、そのことも自分のページに表示されるため、僕だけかもしれませんが、なんだか自分もメッセージを送らないといけないのかな、と思ってしまいます。

もちろん親しい友人には誕生日にお祝いの言葉を贈りたいと思うのですが、でもそれって何もFacebookじゃなくてもいいと思うのと、そもそも親しい友人の誕生日は、Facebookに教えてもらわなくても、誕生月程度は覚えているものなのではないかな、という気持ちがあります。

誰かが登録してある誕生日の日に、Facebookに教えられて、それに促されてお祝いメッセージを送る。でもこれってなんだか冒頭のJALメールと同じようなものなのではないかな、とある時に僕は感じました。
ちなみに僕がそう感じるだけで、一般にFacebook上で行われている誕生祝いのやり取りを批判するつもりはありませんし、誰かの誕生日が表示されたら、お祝いの言葉を贈りたい人に対しては僕はメッセージを書き込んでいます。
でも、矛盾しているのかもしれないのですが、僕自身がお祝いされるのは、本当に身近な人だけでいい、と思っています。

そんな時に、何か良い方法はないだろうかと思っていたら、Facebook上での誕生日を非表示に出来ることを知り、誕生日の1週間前から僕は誕生日を非表示にしておきました。
もちろん隠すつもりはありませんので、明日にでも再び表示しようと思っています。

ちょうど昨年末に、それまでFacebookを利用していた友人が突然その使用をやめると言いFacebookから退会しました。
先月その友人と食事を一緒にした時にその理由を訪ねたら、SNSでのやりとりに虚しさを感じたといいます。自分はもっと現実の友人関係を大事にしたいし、今あるその関係だけで十分だ、と。
その友人の生き方や充実した生活を知る僕には、その友人が言っている意味がなんだかわかる気がしました。

僕の場合はいろんな場所の人に出会ったり、海外に住む友人たちもいますので、普段はなかなか会えない離れた場所にいる人たちなどとコンタクトが取れるということでとても重宝しているのですが、近くにいる人とは普段から会えばよいと思いますし、むしろそんなインターネット上の付き合いよりも日々現実の付き合いの方を大事にしたいとも思います。
それが例えば誕生日のお祝いの言葉とかなのですが、ちょっと足を運べば言えること、パソコンメールや携帯メールなどで個別に言えることを、わざわざFacebookで第三者にも見える形で言う必要もないかな、と。

そもそも誕生日というのは、僕にとっては、人から祝ってもらうものではなくて(もちろんそれも大事なことですが)、自分が今日まで生きてこられたことに自分自身が感謝をする日、だと思っています。

そして現実世界であろうがSNSであろうが何であろうが、生きている中で多くの人たちと出会い、繋がりを持てたということ、それがいい出会いであろうが悪い出会いであろうが、それらはいつも自分を成長させてくれることに繋がっていますので、そのことに対して、誕生日の限られた日だけではなく、常日頃から感謝をするようにしています。

上記のFacebookに関することや誕生日に関することは人それぞれですし、僕の考えが誰にとっても正しいことだとは思っていませんし、考えを押し付ける気は全くありません。これは僕が僕だけに思っていることで、それぞれの人にそれぞれの考えや繋がり方、祝い方祝われ方があると思います。
それでいいと、僕は思います。

ただ僕は、自分が出会う人、出会った人、大事な人に対して、365日の中の特別な1日だけを大切にするよりも、その人と会えたその日その日を大事にしたい。そんなふうに思える大人になれたらいいな、と思っているのです。
まだまだその道のりは、遠いですが。
posted by Coyama at 23:25| どうでもいいこと

2012年03月14日

ヨーロッパ中世の建物事情

今日の内容は少し汚い話になりますので、お食事中の方はお食事を済ませてからご覧ください。

みなさんはデンマークの首都コペンハーゲンのような、ヨーロッパの中世から今に残る町並みを歩いていて、建物の1階の床が地上のレベルと合っていないことを不思議に思ったことはありませんでしょうか?
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コペンハーゲンにあるマンションなどは、半階上がったところが1階になります。
地面から基礎部分を上がる、階段で2〜3段程度上がったところが1階の床ということであれば自然にも感じますが、半階上からというのはかなり高い位置になります。

今でもほとんどの建物がそのような作りになっているので、コペンハーゲンなどのアパートに住んでいると当たり前に思えてしまうのですが考えてみると不思議です。
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半階上げることに、どんな意味があるのか。
その答えは、本当かどうかはわかりませんが、一説によると中世の時代の道路事情に影響していると言われています。

コペンハーゲンなどの都市などは、第二次世界大戦などでも空襲など襲撃を受けず、19世紀にスウェーデンと戦って船上からの砲撃を浴びた程度で、都市が壊滅したといった経験はなく、中世からの町並みが現在でもほぼそのまま残されています。
もちろん内装は時代とともに改築されていくのですが、建物の外観や作りはほとんど変わっていません。

また建物の外にある道路は石畳が敷き詰められ、現在のその町並みは非常に趣のある風情を醸し出しています。
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ところが、実は建物の1階が半階の高さから始まるのには、この道路が原因とされているのです。

当時から、人々は交通手段として、自分で歩く以外に馬に荷台を引かせた馬車を走らせていました。
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しかし当然この馬車を引っ張る馬は生き物ですので、排泄をします。
街中の道路には、いたるところに馬の糞が落ちていました。
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最初の頃はまだこれらを町の周辺部にあった畑に持って行き、肥やしに出来たから良かったのですが、人が増え都市が広がると畑は中心街からどんどん離れていき、さらに馬の数が増えていくと馬糞の量も莫大に増え、馬糞の運搬業も手一杯となり、街中は馬の糞で溢れ返るようになるわけです。

馬に接する機会がある方であればご存知だと思いますが、1頭の馬が一日で排泄する糞の量は10kg弱と言われ相当な量があり、馬糞置き場などはあっという間に糞で満たされます。
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そしてこれが夏になると強烈な臭いを発するようになります。
また雨の日には水や土に混じってドロドロになり、道路に広がります。
今でこそ道路は下水などの排水も整備されていて清潔さを保っていますが、中世の時代、道路の排水はそれほどよくは整備されていませんでした。
ですので雨の日など馬糞と混じった水は道路に接する建物にも流れ広がり、建物内にも染み出てきたわけです。

ここまで書けば想像がつくでしょうが、このために建物の1階部分を半階上げて建設するようになったわけです。
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そして現在では街中に馬も馬糞もなくなったわけですが、建物の構造は変わっていないため、古くからある建物は、半階から1階が始まる作りになっているのです。

もちろん他にもいくつか別の理由があるでしょうし、古い歴史のことになりますのでこれが真実かどうかは今となっては誰にもわかりませんが、おそらく様々な状況から考えても、あながち間違った説ではないと思われます。

建物だけを見ていたらわからない、風土や歴史を知ることも大事なことだと気づかせてくれる、いい例ですね。
posted by Coyama at 16:41| デンマークのこと

2012年03月13日

欧米と日本の感覚の違い

(R-15:卑猥な内容を含むため15歳以下の方は閲覧をご遠慮ください。)

本当かどうかはわかりませんが、デンマークにいた時に、日本と欧米との違いについて、次のような面白い説を聞いたことがあり、自身もデンマークでの体験から納得したことがあります。

例えばスポーツ観戦の違い。
日本人は相撲、柔道、剣道などの、1対1の対戦を、じっくりと観戦するものが好きだと言います。
一方で欧米人は、ハンドボールやサッカー、アメフトなどの、瞬時に攻守が変わるものが好きなのだそうです。
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野球に関しては、あれは攻守が瞬時で変わるものではなく、かつピッチャーとバッターのじっとした一騎打ちになることから、日本人にも受け入れられやすかったのではないか、と。

確かにデンマークではハンドボール、サッカーなどは国民に愛され、テレビをつければかなりの割合で中継がされています。
ただビールを片手に応援するスタイルは両国変わらないのですが、点が入ったときの喜びや悲しみのリアクションは、日本ではあまり見られない派手なものです。
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テニスやバトミントンも球の往来で攻守が一瞬で変わるのが見られるスポーツで、特にバトミントンなどはデンマークでは国技と言えるくらいにテレビでもよく見かけ、かつ日常で国民に愛されるスポーツになっています。

日本ではテニスに関しては世界で活躍している選手がいますので比較的テレビで試合中継をされることがありますが、バトミントンの試合がテレビ中継されるということはほとんどありませんよね。

そういえば僕がデンマークにいた時期にアテネオリンピックが行われていたのですが、その時には僕が見たかった日本人選手が活躍するような競技は、ヨーロッパ全土に放映されているユーロスポーツチャンネルでは見ることが出来ましたが、デンマークのテレビで見ることはほとんどありませんでした。
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逆にデンマークでは日本ではあまり見かけないような競技がよく放送されていました。
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これはもちろん自国の選手が活躍する競技だからなのですが、その違いというのは住んでみなければわからないものですよね。
デンマークなどはやはり先にあげたバトミントンや、あとはボートなどの競技が人気もあり、選手も強くてメダルを期待できるということで、テレビでもよく取り上げられていました。

なぜこんなことを書いたのかと言うと、今日テレビをつけた時にマラソンについてのニュースがやっていて、その中で「スタートからゴールまでを中継している国は世界でも日本だけなんです」と言っていたからです。
確かにデンマークにいた時にマラソン中継などを見ることはありませんでした。
しかし一方でデンマークなどではツールドフランスなどの自転車レースなどはず〜っと取り上げている。
この人力と自転車の違いはどこにあるのかは僕にはわかりません。

でも、冒頭の「欧米人はじっと見ていられないので、攻守が瞬時に変わる競技が好き。日本人は辛抱強いので、攻守が長く変わらずじっと見られる競技が好き。」という文化の違いは、なんとなくわかる気がするんです。

そういった住んでみてわかる文化の違いは、スポーツだけではなく他にもありました。

例えばビール。
日本では夏になればキンキンに冷えたビールを好みますが、デンマークではビールは常温で飲むものです。
しかも日本では『ビールや日本酒にはつまみ』、とお酒と一緒に食べる料理にもこだわりますが、デンマークではビールと一緒に食べ物を食べるといった習慣はありません。
ワインと一緒にチーズなど、そういった習慣はありますが、少なくとも「冷えたビール」や「ビールとおつまみ」なんて思っていると、デンマークでは肩すかしを食らいます。
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他にはエクスタシー。
欧米人はセックスの時に、「Come !(来る)」」というの叫ぶのに対し、日本人は「イク!(行く)」と叫びますよね。
日本人男性が日本人女性に「イク!」とか言われると、「よし一緒に行こう!」なんて思うわけですが、欧米人などは日本人が「イク!」というのを聞くと「どこに行くんだ?」と思うのだそうです。
逆に日本人が欧米人女性から「Come on!」なんて言われたら、こっちは「よし、行ったるで!」と思うわけで、これはこれでけっこうマッチするとは思うのですが、アジア人男性というのは残念ながらあまり欧米人女性から相手にはされません。“いくよくるよ”という組み合わせでは合うと思うんですけどね。
まぁ日本人の“いくよいくよ”同士でもうまくいかないものはうまくいきませんから、人にもよるのでしょうけどね。

もちろん国がどうであろうと人間は人それぞれですので、欧米と日本でみなが上記のことに当てはまるわけでもないと思いますが、いろいろと観察していると決して間違っている捉え方でもなく、一理あるのではないかと僕は思っています。

こう言った様々な感覚の違いというのは、福祉や環境などを専門として海外で学ばれてきた研究者の方々が日本に伝えることはほとんどありませんが、僕はけっこう大事な文化の違いなのではないかな、と思っています。
posted by Coyama at 23:38| 思ったこと・感じたこと

2012年03月12日

自分が信じること

先月末から1ヶ月程、知り合いの設計事務所のお手伝いをしています。未熟なため役に立っているのかどうかはわかりませんが、人手が足りなくて困っているということで、出来る部分でということで期間限定でお手伝いをさせていただいてます。
結局週の時間の半分がそちらに奪われてしまうので、当初予定していた自分の会社のことがなかなか進まず、悩ましい部分もあるのですが、僕には困っているという人を見捨てることはできず、きっと経営者には向いていないんだろうな、と最近思っています。

でも人からどう言われようと、僕にはやっぱり「困っている」「助けてよ」と言う人を無視できないのです。
その時に自分がとった行動は、きっといつか自分が逆の立場になった時に、巡り巡って自分が誰かからされることになる、と思うからです。

もちろん見返りを期待して手伝うわけではありません。
ただ「忙しいのでごめんなさい」と見捨てたら、きっといつか僕が困って誰かに助けを求めた時に、人から「忙しいのでごめんなさい」と断られるのだと思います。

それもいいけど自分のことが先、どうやって食べていくのか?、事業のメドも立っていないのに作ったばかりの会社を潰す気なのか!と言われても、たかだか1ヶ月のことです。それで潰れるくらいなら、自分はそれまでの器だということです。

従業員や家族がいたら別ですが、今はまだ僕一人ですので、潰れても犠牲になるのは僕一人。
そこで会社と自分を潰して後悔するのと、あの時手伝っておけば良かったなと後悔をするのと、考えたら後者の方が今の僕にとっては後味が悪いと感じたわけで、今なら自分が犠牲になればいいだけのことなので、それ自体は僕には大したことではないのです。

今から12年前の2000年4月、大学から大学院に進学をした僕は、所属していた研究室の部屋で、ひとりの世の高い中国人留学生と出会いました。
彼の名は劉さん。劉さんはその年から大学院生として、同じ研究室に入学してきたのです。
はじめて会った時の事は今でも覚えています。もともと中国人留学生が入学してくるという話を聞いていた僕は、大学からの延長で勝手も知っていたので、僕の方から劉さんに話しかけました。その時はまだ劉さんは日本語も完璧ではなく、常に日本語−中国語の辞書を持ち歩いていました。

そんな劉さんは、その後僕と一緒に2年間の大学院生活を送り、授業の課題も一緒にやったりしました。
そして劉さんは2年間の最後に日本語で書かれた1冊の修士論文を提出しました。これを見せてもらった時、僕はとても感動しました。
中国人の劉さんが書き上げた1冊の日本語の修士論文。

僕の修士論文も2年間の労力を詰め込んだものではありますが、劉さんの論文には苦労と努力という面では負けるかもしれません。

そんな劉さんとの出会いが、その後僕がデンマークに渡る際に、まずはデンマーク人が話すデンマーク語を習得して、それからデンマークでの勉強を進める、という決心をさせたのです。

劉さんが日本へやって来たのは、僕と出会う2年前の1998年のことです。当時劉さんはたしか29歳、日本語はまったく話せず、日本に来ている実のお姉さんを頼り、日本へとやって来ました。
中国では建築大学を卒業し、設計事務所へ就職。しかし日本での設計を勉強してみたくなり、日本へやってきたのだそうです。

最初の1年間、劉さんは中華料理店で働きながら、東京・大久保の日本語学校へ通い日本語を勉強しました。

そして翌年、東京電機大学へ研究生として、入学を許されました。

そこで当時、東京電機大学でも講師をしていた僕の恩師と出会いました。そんな恩師の授業を受け、劉さんは恩師の元で本格的に勉強したいと思い、翌年の2000年4月、法政大学大学院へ正規の大学院生として入学してきたのです。

そしてそこで、僕と机を並べることになったわけです。

その後、劉さんは苦労しながら大学院での勉強と自身の研究を進めていき、みごとに2年間で大学院の修士過程を修了しました。

そして大学院が終わる頃には、僕と劉さんはとてもよい友人になっていました。

そんな僕と劉さんとの一番の想い出は、プロ野球の『巨人戦』です。

大学院1年の時、劉さんは毎日のように研究室のテレビで熱心に巨人戦を見ていました。日本に来てから、当時はほぼ毎日のように放送されていた巨人戦を見て、劉さんは巨人ファンになったのだそうです。特に清原和博選手のファンでした。

ところが、そんな大の巨人ファンの劉さんは、まだ一度も球場で野球を見たことがありませんでした。

そこで、僕は劉さんを巨人戦に連れて行く約束をしました。この頃には僕はデンマークへ渡る決意していたので、他国で学び奮闘する劉さんが他人事には思えなくなっていました。そんな劉さんに、もっといろんな日本を見てもらいたい、そう思いました。

そして翌年の大学院2年の時、僕たちは計7回、巨人戦を観戦に行きました。東京ドーム2回、神宮球場3回、横浜球場2回です。

僕もそこまで連れて行くつもりはなかったのですが、4月に初めて劉さんを東京ドームへ連れて行った時、生まれて初めての野球場を目にした時の劉さんの歓声と笑顔、子供のように目を輝かせ、その空気に感動していたのを見て、僕は嬉しく思いました。そしてその年、できる限り連れて行ってあげよう、と思ったのです。
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そのなかでも得に想い出深いのが、2001年7月14日の東京ドーム、巨人対広島戦です。

その日は両軍貧打で1対1のまま延長戦となりました。まったくいいところのない巨人打線に、劉さんはメガホンをたたき過ぎて壊すぐらいのイライラする展開でした。

この日のチケットは僕の叔父からいただいたものでした。座席は1塁ベースやや後方の前から2列目で、1塁ベースを駆け抜ける選手たちを目の前で見ることができました。そして劉さんの大好きな(僕も大好きな)清原選手も、目の前で見ることができました。
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そして試合は延長11回、すでに僕たちの前の座席に座っていたご夫婦が帰宅したので、僕たちは最前列へ席を移していました。そんな最高の座席で観戦する中、1アウト満塁で清原選手の打席が巡ってきました。

ヒット1本でサヨナラ。そんな展開でした。

そして、その打席、清原選手の打った打球は、僕たちの目の前でアーチを描き、ライトスタンドへ飛び込みました。11回裏、サヨナラ満塁ホームランです。

揺れるような球場の大歓声。そんな中で僕と劉さんは、フェンスにしがみついて清原選手の名前を何度も何度も叫んでいました。

僕が日本を離れる2002年8月に、僕は劉さんと2人で飲みました。劉さんは卒業後は設計事務所でアルバイトをしていましたが、ビザの関係でいつまで日本にいれるかはわからないと言ってました。その後は中国へ帰り、二度と日本へは来ないと思う、と言っていました。ですので、それが僕と劉さんのお別れの盃でした。

その飲みの席で、やはりその巨人戦の話になりました。あの試合は、劉さんの日本での一番の、そして人生でも一番の想い出なのだそうです。僕はそんな想い出のお手伝いができたことを、とてもうれしく思いました。

その後、僕がデンマークに渡って生活をしていた時に、僕はいろんな人から助けていただき、そして楽しい思いをたくさんさせていただきました。
世界中の友人たちから胴上げをしてもらったり、デンマーク人家庭のクリスマスに招待してもらったり、サッカー場に連れて行ってもらったり、大使公邸でパーティーをしたり、コペンハーゲンで新年の花火を自分で打ち上げたり、そして家を設計させてもらったり。

きっと僕が劉さんにあの頃していたことが、巡り巡って自分に返ってきたのだろうな、と感じることがよくありました。

そして僕もデンマーク語を習得し、デンマーク語で現地の建築大学で学びました。その後デンマーク語で仕事をして作品を残すこともできました。
今でもそのことは、間違った選択ではなかったと思っています。

当時、英語が出来れば十分、デンマーク語で学びたいと理想を言ってもそう簡単なことじゃないと言われながらも、僕がそれを行うことが出来たのは、劉さんという、見本になってくれた友人を知っているからです。

そしてそんな劉さんとの付き合いの中から、自分が他人にしたことが、いずれ自分に戻ってくるということも学びました。

だから僕は人から何を言われようと、困っている人から助けを求められたら、それが自分が正しいと信じられたら、出来る限りのことはしよう。そう思うのです。
そして見返りなど求めず、本心でそういうことが出来ていれば、いつか僕が困った立場に落ち入っても、きっとどこかで誰かが助けてくれる。そう信じているのです。
posted by Coyama at 23:56| 会社のこと