2012年03月26日

デンマークの歴史/氷河期

紀元前15000年前、デンマークの地はまだ巨大な氷床の下にあり、スカンジナビアとドイツ北部、北海からイギリスの東部までを氷が覆っていました。
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紀元前12000年前後には、コペンハーゲンの位置あたりまでツンドラが生息するようになり、現在のデンマークとドイツとの国境沿いあたりにはカバノキが繁殖するようになります。

紀元前11000年頃になると氷床は徐々に縮小していき、スカンジナビアの大地を削り出していきました。この時に削りだされた大地が、現在のスカンジナビアの特徴であるフィヨルド地形と呼ばれるものです。
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△紀元前10000年頃の北欧。グレー部分が氷床

デンマークはノルウェーやスウェーデンなどと比べると高低差のない平たい地形ですが、それでも国内にはいくつものフィヨルドが点在しています。
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またデンマークの真ん中、Fyn島の東端にあるHesselager(ヘッセラァー)という小さな村には氷河期に切り出されたとされる大きな岩があり、「Hesselagerstenen」や「Dammestenen」という名で呼ばれています。その大きさは幅・約14m、奥行・約14m、高さ・約10m、重さは約1,000トンあり、一つの岩としてはスカンジナビアでも一番大きな岩なのだそうです。
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紀元前10000年前後になると現在のデンマークとドイツとの国境あたりに繁殖した植物を求めてトナカイが来るようになります。そしてそのトナカイを求めて南方より狩人が来るようになり、やがて彼らは定住するようになります。そして地球の気温の上昇とともに植物や動物が北上していき、それを追って人類も徐々に北上していきました。

紀元前5000年にはスカンジナビアを覆っていた氷床はほぼ解け終わり、上がった水位により地形は現在のようになったといわれています。

紀元前3000年頃になるとデンマークのあちこちに巨石建造物が造られるようになります。
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これらがどのような目的で使用されていたのかはまだ解明されていませんが、この巨石遺跡は現存し、今でも国内のあちこちでその姿を見ることが出来ます。
posted by Coyama at 21:57| コペンハーゲンの都市史

2012年03月25日

学歴ってなんだろう?

先日某大学で・・・と書いてもどうせわかってしまうことなのではっきり書きますが、先日早稲田大学にいた時に、僕のデスクがある部屋の打ち合わせブースで年配のおじさまと若い大学の先生がなにやら打ち合わせをしていました。ちなみにその若い先生は僕と同年代の方です。

僕がデスクで作業をしていると、ところどころ話の内容が聞こえてくるのですが、その内容がどうもいかがわしいのです。
あまり書くと陰口にもなってしまうので詳しくは書かないようにしますが、要はなんだか怪しげな宗教団体のような内容でした。

それはたまたま僕が聞き取った部分が怪しいのかもしれず、もっと“人間的な”話をされているのかと思ったのですが、どうやら終始真剣に僕には怪しげに思えるその内容を議論しているようでした。

そのお二方はどちらも早稲田大学の出身らしいのですが、会話の最後の方で、若い先生が崇拝するような口調で年配の方に「いやぁ、やっぱ早稲田っていいですね。本当にいろいろな考えを持った方々がいらっしゃる。幅が広いですよね。」と言うと、年配の方が「早稲田はね、特別なんですよ。六大学の中でも、早稲田だけは大学の名前に和語が入っている。他はみな漢語でしょ。だからなんですよ。」と答えました。
それに対して感心した様子で「おぉ、なるほど。」と答える若い先生。

何が「なるほど」なんだろうかと思い聞き耳立てていた僕。

その後の話はあまりよくは聞き取れなかったのですが、時々嫌でも聞こえてくるその会話では、とにかく早稲田大学というのは特別な大学だ、ということを話されていました。

僕はこれまでいろんな大学を見たり関わったりしていますが、それぞれの大学に特徴はありますが、特にその大学だから崇高だ、なんてことを感じたことはありません。

僕の親しい友人には、大学に行っていない人も多いです。
一方で今まで東大やら京大やら国立大やら早稲田やら、どこぞの大学院を出ただのと、高い学歴をお持ちの方達にも多く会ってきました。

その人たちと会話をする中で、“人としてまともな”会話や応対ができるのは、僕が感じただけのことではありますが、圧倒的に前者でした。
後者の人たちを非難するつもりもありませんし、みながみな“人としてまともな”会話や対応が出来ないとは言いません。
それに僕が出会った後者のタイプは研究職の方々が多いわけで、一般社会の中で生きていられる後者出身の方々は“人としてまともな”会話や対応が出来る方が多いだろうと推測しています。学歴が高いからまともじゃないというのもおかしな話ですからね。

ただ、学歴って何なのだろうか、と上記の体験をする度に、常々考えさせられます。

大学に所属をして、卒業したから学歴ゲット。で、それで偉いのでしょうか?

大学に行かなくても、「学歴」というものは高校や中学校も書くわけですから、そもそも学歴というのは「所属大学歴」ではなくて「自身が学んだ歴」なわけですよね?
東大京大に行って、研究に没頭するのも、遊びやお金やセックスのことばかり考えて(まぁ東大京大に進むような人は真面目な方が圧倒的に多いのでそんな人は少ないと思いますが)、それでもどっちも同じ「学歴」なのでしょうか。
なんか違うような気がするんです。

そのことをくどくど書くと長くなるのでやめますが、学歴ってのは生きていく上で本当に重要なのだろうか、と僕は思うのです。

数年前まで、僕は大事なことは「どこにいるか・いたか」ではなく、「今、何をしているか」が人間が生きていく上では重要なことだと思っていました。
ただ数年前からはその「今、何をしているか」もあまり重要なことではないのではないかと思うようになりました。
大事なことは、「今、周りに誰がいるか・いてくれるか」なのではないのかな、と。

別の言い方でもよく「その人の友達を見るとその人の“ひととなり”がよくわかる。」とも言いますよね。あれに近い意味です。

学歴で言ったら、僕自身の学歴は、高くある人から見たら“たいしてない”のでしょうし、さほど持っていない人から見たら“けっこうある”ように見えるような学歴だと思います。
でも実際にそれらの学歴に載るような学び舎には、僕は頭の良さや筆記試験の高得点で入ったものは何もありません。僕の出身大学は法政大学ですが、入試はデッサン試験でした。書くと長くなるのでやめますが、デッサン試験の前にやる気を消失し、半ばやけくそで描いたデッサンが他に比べると奇抜だったので受かったのではないかと思っています。
その後法政の大学院に試験を受けて進みましたが、内部からの進学は大抵は受かるものです。
デンマーク王立芸術アカデミー建築大学にも1年程研究生として所属しましたが、あれも実力を評価されたのではなく、それまでデンマーク語を習得してから学びたいなどと1年も語学学校に行っている留学希望者はいなく、採用担当者が興味を持って、本来なら4月で採用を決めるのを、僕はなぜか当時いた語学学校が終わる6月まで待たされ、試験や審査ではなくデンマーク語の面接をして、まぁそのくらい話せるのであれば来たら?、ということで受け入れてくださいました。
帰国後に法政大学院の研究生として2年間在籍しましたが、それもお金を払えば誰でも所属が出来た肩書きです。
その後仕事の関わりで工学院大学に2年、早稲田大学に4年所属をしましたが、これも仕事の関係だったので僕自身は何もしていません。
結局仕事は終わったものの、早稲田の所属はこの4月以降も継続していただけるそうで、足掛け5年所属することになります。
嘱託研究員ではありますが、5年もいればそれなりの経歴にはなるでしょう。

これだけ大学に関係していたから学歴が高いかと言ったら、僕はそうは思っていません。
正直大学から学ぶことはほとんど何もなかったです。
ただ、大学に所属していて学ぶことはたくさんありました。ただしそれは大学の外でのことです。

「東大に行け!」という漫画の内容も否定はしません。行くべき人は行ったらしいし、行けるだけの能力があるのであれば行った方がいいと思います。行ったら行ったで社会の恩恵はたくさん得られると思います。
冒頭の早稲田讃歌もよろしいことだと思います。ただ、僕の知る限りでは東京大学や早稲田大学の出身者だからといって人間的に特別なことは何もないと、僕は思います。
ご本人たちがそう思っている割合と同じだけ、世の中には面白い人、賢い人、優れた人はたくさんいると、僕が今まで見てきた中では僕はそう感じています。

その中には大学に行っていない人もいましたし、中学校にすら行っていない人もいました。
なぜなら「すごいなこの人!」と僕が学ばせてもらった方が小学生だったりもするからです。
何も自分より年上だけが先生ってわけでもない。

だからもし僕が学歴を訪ねられたら、公の書類ではない限り、僕はこう答えるようにしています。
「『人生』と言う名の大学で学び、そこで出会う老若男女全ての人が、僕にとっての教師です。」と。
posted by Coyama at 23:15| 思ったこと・感じたこと

2012年03月24日

シドニーのオペラハウス2

先日書いたシドニーのオペラハウスに関する話の続きです。
http://faelles-design.sblo.jp/archives/20120306-1.html

シドニーのオペラハウスのコンペティションで1等に選ばれたデンマーク人建築家のヨーン・ウォッツォンさんは、その後その計画を実現すべくオーストラリア政府と契約をし、設計担当となりました。いわゆる実施設計、というものです。

ところが、ここでヨーンさんは難題にぶち当たります。
実はコンペティションの際には、自由な発想で提案したためあまり建物の構造について検討していなかったのですが、いざ実施をしようとなると、基礎設計案では特徴的なカーブを持つ屋根部分が構造的には成り立たない、ということがわかったのです。
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また建物内部に要求されているもの、例えばオペラホールなどを入れるには、コンペ当選案では屋根が低すぎる、といった問題もありました。
さらに屋根が持つその独特のカーブが、コンペ当選案では膜構造といわれる構造を想定していたのですが、計画上それは実現不可能な構造だったのです。
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それは当時ヨーンさんの事務所と組んでいたイギリスの構造設計事務所でも、実現に向けてもなす術がなく、計画は一時暗礁に乗り上げました。構造計算をするための、そのモデルとなるカーブそのもののモデルがなかったのだそうです。モデルがなければ計算が出来ません。

シドニーのオペラハウスをよく見るとわかりますが、実は船の先端のような形をしています。
ヨーンさんのお父さんは船大工で、ヨーンさんも幼い頃から船には接していて、そんなイメージもあったのかもしれません。
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それを実現させる構造を思いついたのは、結局は構造家ではなくヨーンさん自身で、彼はそれら屋根の形を球体の中から切り出す、というアイデアを思いつきました。
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このことを文章で説明するのは難しいのですが、そのアイデアがなければ建設可能な構造計算が出来ず、シドニーのオペラハウスは実現することはなかったと言われています。
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ただしこれら構造の変化で曲線や屋根の形は徐々に変化していきました。
ですので当初のコンペ当選案と、現在出来ている実物の屋根のカーブとは異なったものになっています。
もともとヨーンさんが最初に描いたカーブはフリーハンドによるものでした。
人によっては、このフリーハンドで書かれた最初の案の方が、フォルムとしては美しいと言われています。
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そのような苦心の末になんとか実現に向かい進んでいた建設工事なのですが、もともとこのオペラハウスの建造には当時のオーストラリアの政治が大きく絡んでいました。
そのため政治的な圧力でいろいろと設計の変更を余儀なくされたり、膨大に膨れ上がる建設費に対しての批判や、反対勢力が抱え込んだ報道による中傷など、ヨーンさんは様々な弊害を受けていたと言います。

そんな中でも設計担当を続けていたヨーンさんですが、ある時点で大きな選択を迫られることになりました。
それは内部のオペラホールの内装の設計に対してでした。
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建築家として、細部までこだわりをもってデザインをし取り組んでいたヨーンさんですが、外部との交渉や駆け引きは苦手だったようで、意見の相違から最終的にホールの内装設計の途中で解任をさせられてしまいました。
その後、ホールの設計はオーストラリア政府より依頼をされたオーストラリア人の建築家によって引き継がれました。

今では世界の名所として知られ、デンマークを代表する建築家ヨーン・ウォッツォンさんの代表作と言われているシドニーのオペラハウスですが、実はその竣工記念祭にはヨーン・ウォッツォンさんは参列をしませんでした。

最後までやりきることの出来なかった、他人の手によって意図とは違い完成した作品の内部を見るのが忍びなかったからだそうです。

その内部の設計も、引き継がれた建築家によってデザインされたものはヨーンさんの設計からは劣ったものだったそうで、オペラホールとしての評価もあまり高いものではありませんでした。そのため、1973年の完成から27年経った2000年に、一部の内装を当初のヨーンさんのデザイン案に変更する再契約がなされ改修が行われました。

しかしそれは一部であり、当初ヨーンさんが設計したもの全てではありませんでした。
そのためシドニーのオペラハウスというのはヨーンさんにとっては未完の作品であり、つまりは「未完の大作」と呼んでも過言ではないのです。
posted by Coyama at 22:57| デンマークのこと

2012年03月23日

デンマークの壁

先日東日本大震災で被災した地域の仮設住宅の話になった時に、デンマークの住宅の壁の断熱についてどうなっているのかと訪ねられました。

その時の話は、東日本大震災で被災した地域などで仮設住居を作る際になぜ冬の寒さ対策が十分に出来ないのだろうかという内容でした。
仮設住居に限らず、東北という寒い地域なのにこれまでの建物はあまり断熱のことなどを考えた作りにはなっておらず、古い家屋などは冬でもすきま風がぴゅーぴゅー吹き込むような家が多い、と。

なぜなのでしょう。その解は今の僕にはまだわかりません。

デンマークの住宅ですが、壁は非常に厚く、30センチ以上ないと建設許可が下りません。
それはもちろん冬の厳しい寒さに耐えられるためのものです。
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デンマークは日本で言うとサハリンの北あたりに位置しており、非常に寒い国です。冬は氷点下の日々が長く続きます。
ところがデンマークの建物の中は、冬でも半袖で過ごせるくらいに暖かいのです。

デンマークの建物の構造はいろいろとありますが、一般的なレンガ造の住宅では断熱の方法は単純です。

まず厚さ10センチ程度のレンガの内壁。
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そして幅10センチ程度の断熱材。
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そして厚さ10センチ程度のレンガの外壁。
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建物の内壁にはモルタルが塗られます。

これだけで十分冬の寒さを防いでくれています。
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もちろん、建物の中で熱源があってこそ暖かく過ごせるわけですが、最近の住宅設備は十分冬の寒さに耐えられるものになっています。また窓などの建具も当然ながら断熱や結露を防ぐ作りになっています。

ちなみにデンマークでそのようなレンガ造の建物が出来るのは、日本のように地震がなく天災の被害を受けにくいからです。
構造は本当に単純でレンガを積み上げただけになっているのですが、200年300年と使われ続けている家も少なくありません。
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ただしこのレンガ造の住宅には、それほど大きな開口部を開けられないという欠点もあります。

そこで少しでも小さな窓からたくさんの光を取り込もうと、多くの建物では白色の窓枠を利用していると聞いたことがあります。
デンマークの伝統的な住宅が持つかわいらしく美しい民家などの外見の背景には、レンガ造という構造上大きな窓を開けられなかったという問題と、少しでも明るさが欲しいという風土歴史的なものが隠されているのです。

ですので東北の住宅の断熱問題にも、なにかそんな風土歴史的なものがあるのではないでしょうか。
posted by Coyama at 17:42| デンマークのこと

2012年03月22日

出来る贅沢とする節約

(※メモ:後日要修正)

この1ヶ月程、知り合いの設計事務所の手伝いをしていたのですが、とりあえず今日がその最後の日でした。
本当は自分の会社の事業を進めていくために空けていた時間なのですが、数えてみたら18日間手伝っていました。

その分会社の事業の立ち上げが遅れているわけですから、見る人から見たら愚かな行為なのかも知れません。
ただ、僕にとっては学ぶことの多い1ヶ月でした。きっとこの1ヶ月のことは、この先僕が事業を立ち上げて行く中で活きてくる。そんな重要な1ヶ月だったと今は思っています。

ただ本当ならもう少し余裕を持って手伝いたかったのですが、本来12月末で終わっていたはずの以前の仕事が未だに引きずっていて、掻き乱され、時間的にも余裕がない状況での手伝いになってしまい、申し訳なくも思っています。
設計事務所で見させていただいたこれからの人生の指針となるよい例と、以前の仕事で見させていただいた調子の良いことを言いながら最後まで責任を持てずに何も残せぬまま中途半端に放り出した悪い例と、その両方を見た1ヶ月でした。

書きたいことはいっぱいあるのですが、この記事を関係者も読む可能性もありますので、この1ヶ月の2つの対照的な仕事で感じたことはここでは書かず、いつか書ければと思っています。

さて、そんなこの1ヶ月で、僕はなんと体重が2キロ太りました。
ストレスが原因、と言いたいところですが、原因はわかっています。それは、食べ過ぎ、です。

手伝っていた設計事務所は六本木にあります。
僕の住む最寄りの小田急永山駅から、事務所の最寄り駅の乃木坂駅のある千代田線には多摩急行と言う直通電車が走っているのですが、これに乗ると小田急永山駅から乃木坂駅までは乗り換えなしで37分で行くことができます。この電車があったので、あまり苦もなく通勤ができました。

そんな近くではありますが、仕事と言う目的がなければ37分は意外と遠い。そして六本木で働くことが、この先どれくらいあるか。
それを考えたら、僕はそこにいる間に、できるだけ事務所周辺の食事処を制覇しようと目論んだわけです。

「食」というのは、食材にこだわるとか、そういうことだけが大事ではないと、僕は思っています。

僕が関わっている長野県小諸市での「こもなみ倶楽部」の活動も、再生した農地で農的作業をしながら野菜を育て、それを食す、といったようなことをやっています。
特に昨年は秋に採れた採れたての秋ナスには、食べた瞬間に虜になりました。「秋ナスは嫁に食わすな」という意味を人生で初めて実感しました。
採れたての茄子は、東京で暮らしていたらなかなか味わえるものではありません。
小諸では、畑で収穫して、その数分後にはお酒のつまみになっていました。あれはいくらでも食べることが出来ました。

そんな「こもなみ倶楽部」の活動なのですが、基本的には内食が多く、外食というのをほとんどしません。
それは活動メンバーの何人かが外食を好まず、活動自体にもあまり外食をするという空気がないからです。
それはそれとして間違った意見でもないわけですし、自分たちで育てたものを調理して食べるというのも楽しくまた大事な経験ですので、僕は反発することなくむしろ同調しています。

ただし一人で小諸に行くときや、外食を希望する人たちと一緒に行く時には、極力外食をするようにしています。

それには、2つの理由があります。

1つは、野菜を作るのはいいけれど、では実際にその野菜たちはどのように調理されて人々の口に運ばれているのか。それを知るには、外食しなければわからないことだからです。
内食ばかりしていては、その姿は見えません。それに食べ方を知らないまま、野菜を作り続けるというのもおかしなことです。
例えば人参。野菜炒めしか知らない人には、人参は炒め物に使うぐらいしか思い浮かびません。しかし外食先では、フランス料理でグラッセがあったり、イタリア料理でバーニャカウダにつけて食べたり、他にも人参シャーベットなどのデザートになっていたり人参パンになったりもする。

僕にはそういった野菜が行きつくその先を見ることも「食」や「自然」を学ぶ上での重要なことだと思っています。

そしてもう1つの理由は、外食することで経済が循環するからです。
「こもなみ倶楽部」での農地や宿泊しているアパートは借り物ですので、僕らは小諸市には税金を納めていません。
しかし小諸市内の道路や水道などを利用している。ゴミも捨てている。
それなのに食ですらなるべくお金をかけずに自己調達しようとする。僕はこれもおかしな話だと思っています。

お客さんがいるから店が成り立ち、その売り上げから税金が納められ、小諸市の整備にあてられる。
疲弊していく地方都市で、地域の人たちが何が一番嬉しいかと言ったら、都会から週末農業をしに人々が来てくれて、中には若い人もいて、活気が出ていいねぇ、なんてそんな話は都会側の人間が都合よく考えた夢物語でしかないと思います。
本音では、都会から来た人たちが街にお金を落としていてくれる。街のお店を利用してくれる。地域の人が嬉しく思い、喜ぶのは、そういったことではないでしょうか。

東日本大震災の被災地では、今復旧作業が行われ、多くの作業員やボランティアの人たちが訪れていると聞きます。
もちろんその人たちがして下さる作業は本当に助けになっていることですが、そこでもう一つ助けになることは、地元にお金を落とすことだと、僕は思っています。
昼間の労働で十分貢献している、我々はお金がないから食べ物はカップラーメンで過ごす。そういう人もいると思います。

でもそこは、やはり地域の食堂や飲み屋に行っていただきたい。そこでお金を落としてもらいたい。

それが地域の復興にもなり、地域で働く人たちの雇用にもなっているわけです。

そうは言ってもお金がない、という人もいると思います。
そういう人は、行かなくていい、来なくていいと僕は思っています。
お金がないなら、まずは他人のことよりも、自分のことを優先し、まずはきちんと生活できるようになってほしいと思うからです。

それと本当にお金がないのかも、よく考えてほしいと思います。
夜はカップラーメンだとかお金をかけたくないという人たちの、例えば1週間の食費はいくらか。
実際お金がないとか言っている人の大半は、週のどこかで少し多めにお金を出して食べたり飲んだりしている人も多いのです。

都会での1回の外食や飲みをカップラーメンに代えて、その分を地方に行った時に回すという発想はダメなのでしょうか。
トータルすれば使っているお金は一緒なのに。

冒頭での、僕が六本木の設計事務所の手伝いで、お昼に食べ歩いたのも、そういった発想からです。
何も毎回毎回外食しているわけじゃない。贅沢な食事をしているわけじゃない。
お金がないから六本木でもお昼はコンビニのおにぎりで安く済ませるということだって出来るわけです。でもそれは、日本全国コンビニがある街にいればどこでもできることです。
では今多摩に住んでいて、六本木のお店でランチが出来るのかと言ったら、普段はそうはできません。
今、仕事で六本木にいるから食べれる。

それは「知る」ということです。

僕はもしこの先、誰かに東京都心で美味しいお店がないかと聞かれた時に、六本木のいくつかのお店を紹介することが出来ます。
小諸でも同じで、僕は小諸でおすすめの食事処を聞かれても、好みのジャンルごとにお店を紹介することが出来ます。
それは僕が、実際に足を運んでお店を知っているからです。

そのせっかくの「知る」機会を逃さない。そのためにお金が必要なら、少しの無理で出来るなら、したほうがいい。
今日一日少し高めのランチを六本木で食べたら、週の残り6日はお昼はカップラーメンだっていいじゃないですか。
その日小諸でちょっと高めの食事をしたら、東京でのお昼はお弁当を持参すればいいじゃないですか。

『出来る贅沢とする節約』です。

結構『出来る節約としない贅沢』という人が多くいらっしゃる。でもそれは「知る」ということを逃している、とてももったいないことだと僕は思います。
でも考えてみると、人生にはたくさん「知る」機会があるのに、それをケチケチして逃すだなんて、それってある意味贅沢ですよね。
posted by Coyama at 23:54| 思ったこと・感じたこと