2012年02月19日

卒業論文と師

大学では最終学年の学生さん達が卒業論文や修士論文を提出し終わり、卒業に向かう時期となりした。
そんな学生さん達を見ていると、みなさん優れた論文を書こうとし、また多くの先生方がそれに対して熱心に指導されています。
ただ、正直なところそれら先生の中には、あまりきちんとした指導も出来ない方々もおられ、まだ何も知らない若者たちを経験貧しい言葉で指導しているように思えます。これからの人生の礎になるその大事な時期に、そのような方々から学ばざるを得ない若者が不憫でなりません。
個人的な意見ですが、ご自身できちんとした論文を書けないのに、若者に論文指導ができる方がいることに、僕は疑問を感じてしまいます。

きちんとした論文というのは、何も内容が優れているとか体裁が整っているということではありません。

卒業論文で大事なことは、本人が何をテーマにし、そのテーマをどう捉え、考え、どういう結論に至ったか。その考え方を学び、体得することに本質があると、僕は思っています。
その上で内容や結論がよければ、なお良し。

多くの人にとって、大学で書く卒業論文は、人生で最初の論文になると思います。しかしよほどの才能や経験もない限り、最初から素晴らしい論文などは書くことは出来ません。

数年前、日本の大学の建築学科で、大学院の修了作品に対するある学生賞の選考の場を覗く機会がありました。
その時に、最終的に2つの作品が候補として残されました。

1つは規模も大きく、見た目も派手で見栄えがよく、万人受けするであろう作品(以後A案)。
もう1つは、規模は小さく、地味であまり目立たない作品。しかし社会へのメッセージを込めた力強い作品(以後B案)。

選考委員の大半の先生方は、見栄えのするA案の作品を推していました。みなさん視覚的な素晴らしさを褒め、当たり障りのない講評をされていました。
そして特に反論もなく、その作品に大賞が決まりかかった時に、一人の先生がこう切り出しました。

『先生方のおっしゃることもわかりますが、私はB案のほうが大賞にふさわしいのではないかと思います。A案に比べるとB案は規模は小さいかもしれませんが、しかしこの作品は問題を自分で発見し、体を使って実体験をしながらその解決策を探り、提案をしている。この大賞にふさわしいのはB案なのではないでしょうか。』

建築の分野には花形の意匠・デザイン系から、他に都市計画系、構造系、歴史系などいくつかの分野に分かれています。
当然このような作品を評価される先生方は意匠・デザイン系の先生が多いわけですが、先のA案を推したのは多くの意匠・デザイン系の先生方でした。しかしB案を推した発言をされたのは、意匠・デザイン系の先生ではなく、歴史系の先生だったのです。

結局はB案を推したこの言葉が決め手で、B案が大賞に決まりました。

この先生の意見は、学ぶ事への本質をついた、指導者としても素晴らしい言葉だと思います。そしてその先生に学べる学生さん達は本当に幸せだなと感じました。

一方で、見た目や表面的なことを評価し、通り一遍の発言や講評しか出来なかった先生方と、その先生方に学んでいる学生さん達を不憫に感じました。

このことは建築の作品だけではなく、論文にも同じ事が言えると思います。
大事なことは見た目じゃなくて中身だということ。
なんだか恋愛論みたいでもありますが・笑

誰も最初から優れた論文などは書けません。大事な事は“いかに考えたか”だと思います。
卒業論文とは、結果結論の素晴らしさではなく、その過程が大事。自分がどうテーマをとらえ、どう考えたか。結論を導くために何をしたか。そういった考え方を学ぶ訓練だと、僕は思っています。

映画「男はつらいよ」の第40作『寅次郎サラダ記念日』の中で、シリーズの中でも有名なあるシーンがあります。
主人公の車寅次郎さんと、その甥の諏訪満男さんが、荒川の土手に座って会話をするシーンで、次のようなやり取りがなされます。

満男「おじさん、質問してもいいか?」

寅「あんまり難しいことは聞くなよ。」

満男「大学へ行くのは何のためかな?」

寅「決まってるでしょう。これは勉強するためです。」

満男「じゃあ何のために勉強するのかなぁ」

寅「ん?そういう難しいことを聞くなって言ったろ!つまりあれだよ。ほら、人間長い間生きてりゃ、いろんなことにぶつかるだろう。な。そんなときに、俺みてえに勉強してない奴は、この振ったサイコロで出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがないんだ。な。ところが、勉強をした奴は、自分の頭できちんと筋道を立てて、『はて、こういうときはどうしたらいいかな』と考えることができるんだ。だからみんな大学に行くんじゃねぇか。だろう?」

この最後の言葉は、学ぶという事がどういうことかということを示した、素敵な言葉だと思います。

僕がデンマークに渡り1年間の語学学校での勉強を終え、デンマークの建築大学への進学が決まった時に、僕の恩師がお祝いの手紙を下さり、その中で次のような論語の言葉を贈ってくれました。

*****
入学祝いに論語より次の言葉を贈ります。
『学而不思則罔 思而不学則殆』
真に身に付いた学問にするには、自分自身にあてはめ、深く思い考え、そして学ぶ。
ゆったりと学べ!
*****

後の人生の考え方の基礎が作られる若い時分に、きちんと方向を指さし、導いてくれる師に出会えるかどうかは、それは運なのでしょうか。
僕はこれからの若者達が、その先の人生でもきちんと筋道を立てて考える事の出来る指導をしてくださるよい先生に、少しでも多く出会える事を祈っています。
そして未来の日本を明るく元気にしてくれる、そんな若者を教え導ける指導者たる先生方が、もっと増えることを祈っています。

「師であることの条件」は「師を持っていること」だそうです。
人の師たることのできる唯一の条件は、その人もまた誰かの弟子であったことがあるということだといいます。

あなたには、「師」と呼べる人はいましたか?
posted by Coyama at 21:35| 思ったこと・感じたこと