2012年01月31日

2回咳の法則

インフルエンザが流行っているそうですが、今日通勤の行き帰りの電車の中にもマスクをして咳をしている人がたくさんいました。

そんな人たちの咳を聞いていて、気がついたことがあります。もしかするとこれって一般常識なのかもしれませんが、人が咳をするときというのは、同じ咳を二度する、のです。
言葉にすると表現が難しいのですが、つまり、

ゲホゲホ
ゴホゴホ
エヘンエヘン

と、ゲホならゲホが2回でゲホゲホ、ゴホならゴホが2回でゴホゴホ。

ゲホやゴホ、エヘンと1回だけということはなく、またゲホゲホゲホの3回もありません。

リズムよく2回。

それでも時々3回というのがあるのですが、リズムとしては2回の咳におまけでもう1回がつくといった感じで、1つめゲホと2つめゲホの“ゲホ”の長さに比べ、3つめゲホは半テンポ早くなります。
『タン・タン・タタッ』って感じですかね。3つめゲホは勢い余っておまけでつけた、って感じが否めません。

一方で周囲の迷惑なども考え、咳を我慢しようとしたときなど、咳が出るのを意識した時に出る咳というのは、これは1回なんですよね。
きっと2回目を意識的に止めているのだと思います。
「咳払い」なども2回続けることは少なく、ヴゥンン!と1回が多いですよね。
もしくは何かを人に合図しようと2回続ける「咳払い」もありますが、これは1ヴゥンン!と2ヴゥンン!では2ヴゥンン!のほうが半音下がることが多いです。同じリズムで2回、ということはない。

しかし自然に出る咳というのは、同じリズムで2回。

ゲホゲホ
ゴホゴホ
エヘンエヘン

気になって通勤の行き帰りにずっと周囲を観察していたのですが、かなりこの法則の信憑性は高いのではないかと思うくらい、多くの方が2回咳をされていました。

もともと咳というのは体内に入ったウィルスなどの異物を外に出す時の体の症状だと言います。
ただ、咳が1回だと、なんか食道あたりからのどの奥あたりまではウィルスが上がったけど、そのまま体内に留まってしまう。しかし2回だと、ホップステップで1咳でのどの奥あたりまで押し上げ、2咳で今度はのどの奥から外に吐き出す、というメカニズムなのではないかと仮説を立てたのですがいかがでしょうか。

そう考えると、たまに溜まりに溜まったのどのイガイガを取るために、『ゲーホッ!』って力のこもった大きな咳をのどを解放する感じですることがありますが、あれっていうのはきっと2回咳や3回咳ではとてもとてもウィルスを追い出せないため、室伏選手のハンマー投げのような、こう、遠心力をつけてパ〜ンッ!とはじくように遠くに投げ出す、そんな感じの咳なのかな、と。

まぁそんなことはどうでもいいことですが、とにもかくにもインフルエンザには十分お気をつけください。
posted by Coyama at 23:32| どうでもいいこと

2012年01月30日

間のデザイン

(※今日の記事はすごく適当に書いていますので、軽く読み流してください。徐々に書き直します。)

これまでいろんなことをやってきて、「あの人はいったい何をしている人なのか?」とよく言われている僕ですが、僕自身は建築家を目指しています。ただその目指している建築家像は、おそらく日本人の多くが“建築家”という言葉に対するイメージとは大きく違うものだと思います。

ただ形を作ればいいというものでもなく、理想論で実際に形を作らないというものでもない。論文だけを書いている人でもなく、まちづくり活動だけをしている人でもない。
それをうまく言葉では表現できませんので、自分自身が実現させていき実際に見せるしか理解を得られないとは思うのですが、その実現のために数年前から僕が指針にしている考えが「間のデザイン」というものです。
主に専門とする多世代交流を組み込んだまちづくりや施設設計においての考えではありますが、この考えはけっこう社会一般的なことにも当てはまるのではないかと思っています。

「間のデザイン」とは、単純に言えば「間」の字を持つ言葉を並べただけのことです。

世の中のことにおいて、いわゆる“ハード”として表現される形ある建物や道具のある場を「空間」と考えます。
一方で日々の生活や地域との関わりのように人的・社会的なつながりなど、一般に“ソフト”と呼ばれるようなものを「人間」と考えます。

そういった中で、僕が専門としている多世代交流においては、このソフトとハードだけではない、もうひとつの要因が絡んでいます。それが過去や現在の事例から学んだり、継承や継続などを重要視するもので、この関わりを「時間」と考えています。

この建築や都市計画・デザイン分野からのハード的視点からの検討、社会学や経済学・医療や介護・市民活動や交流といったソフト的視点からの検討と共に、それらをつなぐ「時間」の検討も合わせた「人間・時間・空間」を整えていくという考えがあり、これは世の中では「三間」などと言われ、けっこう考え方としては知られています。

しかし考えとしての知恵はあっても、何かを実現していく時にはその過程があり、道なき道を進もうとする時にはその道のりはそう容易いものでもありません。
また答えを導き出したと思っても、実はそれは答えのひとつでしかなく、他にいくつも答えがあることもあります。人生で起こることは数学のように決まった答えがあるわけではなく、いく通りもの答えがあるものが多くあり、中には結論は永遠に出せないものもあります。
そこで重要なことは、常に自分の行いや決断が正しいのかどうかを検証したり、ひとつの答えを出せたから・区切りがついたからもういいや、と終わらせるのではなく、続けていく、継続させていくということです。俗にいう「継続は力なり」というものですね。
これは非常に「手間」のかかるものではありますが、その「手間」を惜しまずに続けていくことが、目標の実現に結びつくと考えています。

またまちづくり活動やNPO活動などを見ていると、それらは日本全国に数多く存在しています。みなそれぞれに自分たちの活動を正しいと信じ、素晴らしいと思い活動されている。これらを検証してみると、それぞれに成果があり、実現の形というのはそれぞれにあることに気づきます。導きだされたそれぞれの結果はもちろんどれも素晴らしいものですが、それらを総合的に見ると多くの活動に共通しているのが、それらの活動を行ったことによって形成されたネットワークや「仲間」づくりが素晴らしいものであったことにあるのではないだろうかと考えられます。
このような活動は一人で行うことは困難であり、行動を進めていく上でも、共に協力し刺激し合える「仲間」を増やしていくことが、重要な課題であると考えています。これはまちづくり活動やNPO活動以外のことでも同じことだと思います。

そして今の日本の世の中は(昔からそうなのかもしれませんが)、新しいことに対して人々がなかなか理解を示さない世の中になっています。
すでに完成された社会システムを疑うことなく、おかしいことがあってもおかしいと声を挙げる人をおかしいと見ることが多くなっているように感じます。
社会システムの枠に法った行動や、枠外の生き方をする人たちに対してや、夢と言う名の目標を成人が語ろうものなら、世間の人からは「まともじゃない」「おかしな人だ」などと理解されないことも少なくありません。
その世間の言葉に振り回されず、自身の掲げる夢に向かって進めるかどうかで、実は未来が決まってくる。そのような「世間」に惑わされずに正しいと思ったら信念を貫き通すことも重要なことだと思っています。

こういった「空間・人間・時間・手間・仲間・世間」をうまくデザインしていく、それを「間のデザイン」と考えています。
この「間のデザイン」を上手に使いこなしてこそ、新しい価値観を生み出し、未来の社会をよりよくしていけるのではないだろうかと、僕は考えています。それが出来、最終的に建物や都市空間に落とし込んで、かつ“実際に形やモノを作れる人”が、僕の目指す“建築家”なのです。

もちろん人それぞれに建築家像はあると思いますので、これはあくまで僕個人の思いであり目標ですけどね。
posted by Coyama at 23:10| 思ったこと・感じたこと

2012年01月29日

多摩ニュータウンでの買い物事情

多摩ニュータウンは高度成長期に膨れ上がる東京都心の人口増加への対策として、多摩丘陵を切り開いて作られた日本最大規模のニュータウンです。

開発当初は近隣住区論というものに沿った都市計画がなされていたのですが、初期開発から40年以上が経過した現在、当初想定していた世代の入れ替えが思うように起こらず、住民の高齢化に悩まされ始めているとともに、駅前のショッピングモールや新規拡張先に計画された大型店舗が乱立するようになり、各住区の商業の中心であった商店街では閉じる店が増え、いわゆる“シャッター商店街”が多くなっています。
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以前お話を伺った30代後半の多摩で育った方は、すでに卒業した小中学校は両方とも廃校になっており、子どもの頃に立ち寄っていた商店街も当時賑わっていた面影もないくらいに変わってしまったと言っていました。

身近にあった商店街を失った住民は、少し離れたスーパーや大型店舗へ買い物に行かなければいけないわけですが、もともとは丘陵地だったところを切り開いた土地のためその高低差は激しく、今となっては高齢者にとって厳しい移動環境になってしまっています。
またホームセンターなどの大型店舗も多くは車での移動を考えた構造になっているため、車の運転も難しくなってきた高齢住民にとっては非常に厳しい居住区域となっています。

ただこの多摩ニュータウンの持つ雰囲気なのですが、僕は他国はデンマークだけしか知りませんが、街を歩いているとデンマークのニュータウンのもつ雰囲気と似ていると感じることがよくあります。
デンマークは多摩ニュータウンほどに土地の高低差はありませんが、多摩ニュータウンの建物の配置や都市の形状など、おそらくヨーロッパのニュータウン計画などを参考にして多摩ニュータウンが作られているからだとは思うのですが、とてもよく似ています。
そして近年になっての巨大なショッピングモールや大型店舗などの出店などの状況も同じだと思います。

両国でのニュータウンの雰囲気で違いを挙げるとすれば、デンマークには日本のように24時間開いているコンビニがない、町中には自動販売機がない、そこかしこに子どもを相手にした学習塾がない、ということぐらいでしょうか。
あとショッピングモールに関しては、デンマークは冬の寒さを考慮して光を多く取り込むような屋内アーケードの形状になっているところが多いように感じます。
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逆に多摩ニュータウンなど日本の郊外などは、広大な敷地の中に複数の大型店舗が建ち並ぶ、屋外型の形態が多いように感じています。
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しかし多摩ニュータウンとデンマークとの間で大きく違うのは、デンマークの郊外の街などでは多摩ニュータウンほどに商店街が寂れていない、ということです。
もちろん日本と同様に、大型店舗が進出してくることで地元の商店街は影響を受けることはデンマークでも変わらないと思うのですが、デンマークの郊外の街の中心にある商店街では、日本のように空き店舗が続いているところをあまり見かけません。

そのため散歩に出てもウィンドウショッピングなどそれなりに楽しめますし、人の流れやショーウィンドウの変化などによる季節の移ろいを感じることも出来、そんな商店街を散歩する高齢の方の姿もよく見かけます。
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多摩ニュータウンのように身近な徒歩圏内の商店街が寂れてしまい、歩いていても目にするのは40年で成長しすぎた木々や子どもの姿のない公園、寂れた商店街などと楽しさをあまり感じられない環境になると、散歩に出る楽しみも半減してしまうのではないでしょうか。

デンマークを始め北欧の福祉や高齢者に配慮した社会政策を参考にしたいと今でも多くの日本人が毎年のようにデンマークや北欧を訪問見学をしていますが、その多くは上辺だけの状況を総合的な優れた状況と捉え、住民主体の生活面からの視点や地域の環境をきちんと見ているのか、僕はいつも疑問に感じています。

デンマークの福祉が優れていると思い、そんな福祉社会を見習いたいという想いや熱意を否定はしませんが、それらを本当に参考にして日本に役立てたいと思うのであれば、制度や高齢者を取り巻く住まい環境だけでなく、高齢者が暮らす街や彼らの日々の生活にも注目したほうがよいと思います。
高齢の方が散歩など表に出ようと思わせるような公園や商店街などの都市環境の整備を、福祉が専門だからそれらは専門外などと言わず、日本でも考えていく必要があるのではないかと、僕は日本とデンマークとを両方見続けている中で、常々思っているのです。
難しい問題ですけどね。
posted by Coyama at 22:16| 多摩ニュータウンのこと

2012年01月28日

当たり前のこと

デンマークに住んで2年目となる8年前のこと、デンマークからドイツへ飛行機で旅行に行った帰りに、コペンハーゲン空港で多くの日本人観光客を見かけました。
そこには日本語で「北欧」や「デンマーク」の文字が書かれたガイドブックを手に、電車の切符を買うのに戸惑っていたり、コペンハーゲンの市街地に向かいたいのであろうに反対方面のホームに降り立ってしまったりと、不慣れで戸惑う日本人観光客たちの姿がありました。
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その人たちを見て、僕は「切符の買い方をしらないんだな」「あぁ、そっちじゃないのに」と思いました。
その時ふと、デンマークの生活に慣れ、その日常が当たり前になっているために、戸惑っている他人に対して知らずに見下している自分がいることに気がつきました。

『そんなのは当たり前のこと。』

それはまだ世界が未知の存在だった頃の僕がデンマークへの留学を目指し始めた頃、参考にと話を聞かせていただいた留学経験者のある方々の何人かから感じたのと同じ視線でした。『そんなのことも知らないの?』といった、見下されている感じ。
そのような気持ちが、僕にはとても不快に感じられたのに、気がつくと同じような態度をとっている自分がそこにはいました。
自分だって初めてデンマークに行った時、ホテルすら自分で予約することができず、同行した知人に頼って予約をしてもらい、なんとか宿を確保していたのに。

それから数年が経ち、デンマークで住宅を設計することになった時、お施主さんに僕が「これが初作品となるけど、本当に自分でよいのか?」と訪ねたら、「誰にだって最初があるんだから」と言われました。その言葉にとても気が楽になったのを覚えています。
そう、誰にだって最初があるんです。それを人間はいつの間にか忘れてしまう。

確かに現在ある自分の状況は、過去の自分が、自分自身の努力と苦労の積み重ねで作り上げ、築き上げてきたものかもしれません。しかし、それは決して自分一人で成し遂げられたことではいと思います。そこには多くの人たちの助けや協力があったはずです。
それなのに、人は経験や年を重ねていくと、なぜか今の自分の知識が万人にとって当たり前のことだと驕る気持ちを持ってしまい、無知な人に対して高飛車な態度をとるようになってしまう。

『誰にだって最初はある。』『自分だって最初は何も知らなかった。』
人は常に、そのことを忘れずに生きていかなければいけないと僕は思いますし、これから経験を重ね成長していく後輩に対して「そんなことも知らないの?」や「知っていて当然だよ」などと見下して話しをすることは間違っていると、僕は思っています。

その見下される感じは今でも、日本で生きていると多くの大人たちから僕は感じさせられることが多いです。
もちろん半分はそうでない大人や先輩達がいますので、なんとか希望を持って前に進む気持ちを保てています。

知らないものは知らないんです。経験もないものを知りようがないのに、それを自分が偉くなったような気分で教えられると、本当に不快に思うことがよくあります。
自分だって最初から何もかも知っていたわけでもないだろうに。僕はこれから学び、知っていこうとしているんです。

そうは言っても僕自身も他人に対して自慢げに自分の知識や経験をひけらかしてしまうことがよくあります。
その時は、あのコペンハーゲン空港のホームでの気づきや初めて住宅を設計した時のことを思い出し、「誰にだって最初がある」「自分にとっては当たり前でも他人から見たら知らないこともある」ということを戒めとし、注意していきたいと、日々思っているのです。

未経験で戸惑う後輩に「誰にだって最初があるんだから」と心から自然に言うことの出来るような、そんな大人に、自分はなりたいと思っています。
posted by Coyama at 21:30| 思ったこと・感じたこと

2012年01月27日

頑張らなくていい

昨日から朝起きると喉が痛く、どうやら風邪をひきかけているようです。今日は外出の予定を取りやめ、自宅作業に切り替えて養生することにしました。

思い返すと、先日電車の隣の席の人が風邪をひいているようだったり、参加した勉強会で隣に座っていた方がゴホゴホやっていたりなど、風邪をひくにはいくらか心あたりがあります。

そういえばその勉強会で隣に座っていた方は、最初からマスクをしていました。
最初の頃は普通だったものの、しばらくすると鼻をすするようになり、やがてゴホゴホと咳をするようになりました。
僕は隣に座っていたので気がついていましたが、勉強会を邪魔しないよう小さく咳をされていたので、周りはあまり気にはしていなかったと思います。

やがて限界が来たのか、隣の席にいた同僚の方にメモを渡してアイコンタクトをし、その方は途中で退席していかれました。

ただ席を立った後、その方はクロークルームや部屋の入り口で、今度は皆に聞こえるよう大きく咳をされていました。
明らかに風邪をひいているとわかる、あのガラガラとした嫌な咳です。さっきまでこっそりと我慢をしていたのに、なぜそこで?と思いました。

その方はお若く、またその日の勉強会はその業界の方々が「神様」と崇める方が主催の勉強会でしたので、途中退席することに気が引けたのでしょう。その大きな咳には「体調が悪いから帰ります。本当に申し訳ありません。」という言い訳を知っていただきたいと言う気持ちが現れていたように感じられました。
ただ、その咳を聞いた会場にいる多くの方は快くは思わなかったでしょうし、「いいから早く帰って休みなさいよ」と思った人もいたと思います。そういった感じの、少々しつこい咳でした。

その方に限らず、体調が悪いのを押してまで仕事や人の集まる場に参加をする人を時々見かけます。
一方で開催する立場の時に、直前になって体調不良のため欠席しますと連絡を受けることもあります。
ご本人がその場で重要な位置を担わない場合には、正しい判断は後者だと、僕は思っています。

きっと当事者からしてみると外したくない予定なのかもしれませんが、周囲の方に迷惑をかけるということも考慮しなければいけないと思います。
仕事でどうしても外せない打ち合わせなどのやむを得ない場合もあると思いますが、それ以外で、今でなくてよいものは、極力体を休ませても良いのではないでしょうか。

何事も体が資本です。僕は大学・大学院の恩師からは、建築家としての重要な条件は『健康第一』と教わりました。
以来体調管理には常に気を使うようにしています。

もちろん自身の不摂生でなくても、子どもが幼稚園や学校で風邪をうつされ、家庭の中で親がうつされるということもあると思います。
だから風邪を引くことや、無理をしてでも話を聞きに行きたいという熱意を否定する気は僕にはありません。

ただ、具合の悪い時には休む。そんな“いい加減さ”も持ち合わせてもよいのではないかな、と僕は今の日本人に対して思うわけです。
多くの人は、“自分は頑張っている”ということを周りにアピールしたがる傾向にあるように感じています。

そうは言っても僕も以前は似たようなことをよくしていました。
しかし20歳の頃、バイト先で不満に思うことがあり「自分はこんなに頑張っているのに!」と言ったところ、上司から「それは自分が決めることではなく人が決めることだ。」と諭されたことがあります。確かにその通りだと思います。
それ以来、僕は自分に対して「頑張る」と言う言葉を使うことをやめました。

また大学院の時に、恩師の部屋で対話をしていると、学生が一人訪ねてきました。
彼は作業の確認に来たのですが、最後に恩師が声をかけたところ、彼は「はい、頑張ります!」と答えました。
すると恩師は彼に向かって「頑張らなくていいから、しっかりやりなさいよ。」と返したのです。

学生が帰った後、恩師は僕にその言葉の真意を教えてくれました。
『これまで何十年も学生を指導して来たが、皆口々に「頑張ります」とか「頑張っています」と言う。しかし「頑張る」という言葉には「頑を張る」「他人を押しのけてでも前に出る」という意味がある。だから僕は学生には「しっかりやりなさいよ」と声をかけるんだよ』と。
それ以来、僕は他人に対しても「頑張る」「頑張れ」という言葉を使うことをやめました。

デンマークにいた頃、何人かの方から同じようなことを言われたことがあります。
『あなたが懸命に生きていることは見ていてわかります。だから「頑張ってください」とは言えません。懸命に生きている人に対して、頑張ってと言うのは酷なこと。本人はこれ以上頑張りようがないわけですからね。』と。

だから僕は今では「頑張る」という言葉を、自分に対しても他人に対してもほとんど使いません。

東日本大震災で被災された方々への言葉にも、僕はそれがあると思っています。
僕は決して被災者の方々に「頑張ってください」とは言えません。

ではなんと声をかければよいのか。
その答えの一つを、最近知りました。
天皇皇后両陛下が被災地を訪れたとき、美智子妃は被災者の方々の手をとって、こんなお言葉をかけられていました。

『本当に、生きていてくださって、ありがとう。』

見習いたいと思います。自分もそのような言葉を自然に発することが出来るよう、これからもしっかりとやっていきたいと思っています。
posted by Coyama at 21:41| 思ったこと・感じたこと