2012年09月29日

思考言動の出所

(後日要修正)
最近、あなたは農家になったの?とか八百屋になったの?とよく聞かれます。
答えは半分NOで半分がYES。
僕の目標は昔から一貫していて、今はその通過点でしかありません。
ただそれを説明するのには直接会って少なくとも1時間は説明が必要になります。だからわからない人には説明するのも大変ですので、「今は野菜を売ってます」と答えるようにしています。

今の時代、「建築家を目指しています」と言ったら、なぜ設計事務所に勤めないのか、設計の仕事をやらないのか、遠回りじゃないか、と言う人も多いのですが、僕はその考えには賛同が出来ません。
僕には一貫した理念と、目指す目標像がはっきりしているので、常にその時々で必要なものを補い学んでいます。
だから今は時々鍬を握り、時々野菜を売っているのです。

僕の祖父は、もう20年以上前に亡くなりましたが、生前1冊の自叙伝を残しました。
今でも僕は時々それを読み返します。

その祖父の自叙伝は、次のような随筆から始まっています。

*****
『学資の出所』
 大正九年四月である。慈悲深い両親の膝元を離れて、県立鎌倉師範学校の寄宿舎生活に入った。親元を離れての人生として、はじめての経験である。離れてみてつくづく親の有り難さ、兄弟のなつかしさがみにしみるのであった。やっぱり生まれ故郷は、何と言ってもいいものだなあ……と思った。
 それから毎年、月はじめの土曜日の午後、舎監に外泊願を出して帰宅した。両親はじめ兄弟揃って水入らずの晩さん会に、仲睦まじく舌鼓みを打ち語り合うのが、この上もなく楽しいものであった。だがさらに大事なことは、一ヶ月分の学資金三十円也を、頂戴する事である。帰って来た土曜の日はゆっくりと足を伸ばし、誰にも気がね遠慮することなく、ぐっすりと故郷の温い夢路をたどったものである。

 さて日曜日の朝になると、きまって朝早く起こされた。寝坊は許されなかった。朝飯もそこそこにすますと
 父「おい、鍬棒かついで畑について来い。草むしりとさく切りだ。」
 母「せっかく帰って来たのだから……今日はのんびりとさせてやったら……。」
 父「馬鹿、若い者がのんびりとは何事だ……早く来い……。」
 母「でも学校へ帰れば、また勉強勉強でせめられるので、家に帰った時位は……。」
 父「駄目だ駄目だ、神聖な労働の苦しみ、汗を流す楽しみを経験しなくては、人様の子どもの前に立って、教える資格はないぞ。文句を言わず早くついて来い。」
 そう言い残して父は出て行った。一度言い出したらきかない父である。絶対命令であるのだ。

 命ぜられるままに鍬棒肩に畑に行った。澄みきった大空には、高く秀麗の富士山が雄姿を表わし、箱根大山の連山が陽に映えて美しい。そよ吹く風は心地よく頬をなぜる。青天井の下ですくすくと伸びている麦の葉先に、偉大な生命力……伸張力……、麦ざくを切る一鍬ごとに湧く土の香り、雲雀は高くわが世の春を謳歌している。上を仰いでも下を眺めても、眼に入る万物すべての物が、一瞬も止まる事なく神秘な力で、無限の伸展を続けている事が感ぜられる。
 大自然の中に溶け込んでしまって、只黙々と無我の境地……鍬持つ手におのずと力が入って、父に負けじと夢中でさく切りをした。だが残念ながら父の仕事の半分位しか出来ず、大汗を流した。労働は苦しいが出来上がった仕事を振り返った時、きれいに耕された土の香り、喜ぶような作物の顔を見ると、苦しい汗もいっぺんに吹き飛んで、心の奥底に何とも言いようのない喜悦が、胸一ぱいに無限に湧いて来る。

 昼食がすむと流石の父も、言葉をやわらげニコニコしながら、
 父「まあ、帰る時間までゆっくりして行けよ。勉強もなかなか骨がおれるだろうからなあ……まあしっかりやれよ。」
 午後からは暇が出た。夕方の帰りの汽車に間にあう時間まで、のんびりと遊んだ。近くの千の川に魚釣りに行ったり、平塚方面まで自転車で飛ばしたり、江の島方面まで足を伸ばしたりした。三時のお茶の時間がすむと、
 父「学資金を持って行くのだな、今家には金がないから、石橋(一軒おいて隣りの酒店)まで行って借りてくる。」
 と言って、きまって表口から出て行った。暫くすると帰ってきて、
 父「それ…今月分の学資金三十円だ。来月お前が来る時までには、働いて返しておくから、学資金の事なぞ心配せんでよい。一生懸命勉強しろよ。」
 そう言って十円札三枚、私の手のひらに乗せてくれた。渡されたお金を財布に入れ、これで今月分の学資は心配はいらないと思うと、何となく嬉しいやら又、かくまでして用意してくれる、親の有り難味が身にしみた。
 「お前が今日午前中働いた仕事は、お金に見積ると二十五銭位かな、それを思うと無駄使いは出来ないだろう。親の汗の結晶のお金だ。菓子や天丼に化けさせるなよ。」
 こう言って父は鍬を肩に畑に出かけて行った。後ろ姿を見送って何とも言いようのない心の、引き締まる感に打たれた。

 その後来る月も来る月も、学資金の事になると借金の話ばかりだったので、或はと思い変だなとは思ったが、又満更うそとも思えなかった。それだけ父の演出の仕方が、上手であったのかも知れない。寄宿舎に帰る時間が来ると、母が陰にかくれて少しばかりの小遣銭をくれた。母なればこそであり、母親の尊い愛情である。ほのぼのとした小遣銭の温みに、自然と目がしらが熱くなった。
(大正九年七月 十五歳)

追記:
 学校を卒業して教育者になり、年と共に月給袋が重くなり、家庭を持ちやがて子どもの親となった或日のこと、父親が病床でしみじみと語ってくれた事は、今でも忘れる事は出来ない。
「お金ばかりは子どもの前で、有るふりをするものではないぞ。金銭の尊さを忘れ、無駄遣いの悪習慣を増長させるばかりだ。決して有るふりをするな、お前が子どもの親になったから話すが、師範学校時代お前に渡した学資金は、石橋酒店から借りたと言ったが、あれは借りたのではない。借りたふりをしたのだ。この精神で自分の子を、しっかりと教育しろよ……。」と
(昭和十四年六月 三四歳)
*****

きっと僕の言動や思考の中には、ご先祖様から受け継いだものが根付いているのだと思います。
そして誰に何を言われようと、自分の行動に自信を持っていられるのは、家族親族先祖を含め、多くの人の支えがあるからだと感じています。

曾祖父が行い、祖父が書き残したことと同じ事を、平成に生きる僕は経験し、そして体で感じています。

あなたが今、スマートフォンをいじっているその手を、パソコンのキーボードを叩いているその手を、時には鍬に持ち替えてみるのはいかがでしょうか?

今の時代、神聖な労働の苦しみ、汗を流す楽しみを経験していない人が多くなりすぎて、未来ある子どもたちの前に立って、手本になる大人たちが少なくなった。だから年配者たちは自分のことしか考えられず、若者たちは希望を失い、自殺者は増え、親殺し子殺しが増え、政は右往左往を繰り返すといった世の中になってしまったのではないかと、僕は思うのです。
posted by Coyama at 00:18| 多世代交流論

2012年08月05日

しばらくブログはお休みします。

この1ヶ月ブログを書いている時間がなかったため更新を止めていました。
この1ヶ月で行ったことや見たこと学んだこと感じたことは、またいずれ書きたいと思っていますが、とりあえずブログはしばらくお休みします。

その分、過去の日記を再編集したいと思っているからです。

2005年11月から2008年11月までの3年間に渡る日記なのですが、デンマークで住宅設計を行ったことを記録しています。
そのまま眠らせておくにはもったいないので、少しずつですがブログ形式でアップしていければと思っています。

興味のある方はご覧下さい。
「デンマーク建築日記 〜 やったろーじゃん一戸建て! 〜」
http://arkitekt.sblo.jp/

3年間と言う膨大な量のためなかなかアップをしていけませんが、時間を見つけて少しずつ行えればと思っています。
posted by Coyama at 22:56| どうでもいいこと

2012年07月23日

グリーンランド研究 − グリーンランドの独立 −

1901年に196あった居留地は100年後の現在では半分以下の85の町と居留地になっています。
また1901年には大きな町(植民地)の居住率は約20%で、残りの80%は郊外や居留地に住んでいましたが、現在では83%の国民が町に暮らし、居留地に暮らす人々は17%になっています。
これにより社会保証サービスや医療や教育、交通整備などの都市や生活の機能は向上しました。
しかしグリーンランド経済はこの集中居住では悪化をしていきます。この住民の集中移住は結果的に町周辺の資源を減らし、また気候の大きな変化も伴って漁獲量の減った魚工場などの収入が減ったからです。
そのため国は1970年代に新たな財源の確保として鉱物や石油などの資源開発に乗り出しました。

政治的な変化も家庭の経済に影響を及ぼします。それは1970年代のデンマークのヨーロッパ共同体(EC)への加盟を巡る一連の動きです。
グリーンランドでは大多数がヨーロッパ市場とは別に国家を形成していくことを望んだにも関わらず、Landsrad議会はECに加盟するというデンマークの国民投票の結果に従いました。
そして1973年のデンマークのEC加盟とともに、ECでの漁船操業と漁獲高に関する規定がデンマークやグリーンランドに適用されましたが、グリーンランド国民はこれに強く反発しました。そして1985年、ついにグリーンランド政府はECから離脱しました。

1985年にはグリーンランドには新しい独自の国旗が誕生します。
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この国旗はグリーンランドの芸術家Thue Christianによってデザインされたもので北極圏に登る朝日を表現し、赤と白の組み合わせはデンマーク国旗から来ているものです。

その後ECからEUとなり、デンマーク本国は引き続き加盟国となりますが、グリーンランドは加盟していません。
現在でも外交的政治はデンマークに依存していますが、内政面ではデンマークはグリーンランドの発展のために平等な政治関係を築いています。
そして今日、グリーンランドは約55,000人の人々が暮らす国際的な一国家としての立場をしっかりと確立しているのです。

■ 結論
このようにアジアの流れを組むイヌイット文明とバイキング時代から続くヨーロッパ文明とが組み合わさり、さらに戦争などによる略奪や破壊も行われずに形成されたグリーンランドの歴史や建築文化の形成は、非常に興味深いものである。
さらに戦後のデンマーク政府との大規模な経済協力は、住民達の生活やライフスタイル、都市構成、コミュニティのあり方をも大きく変化させた。

他の文明の介入による外的な変化や、生活の変化による内的な様々な問題を見ることが出来、また極地環境での生活様式を知る上でも、このグリーンランドの研究は貴重な題材である。
日本におけるコミュニティのあり方を検討していく上でも、比較対象として今後とも研究を進めていきたい。

グリーンランド研究 ーひとまず完ー
posted by Coyama at 23:09| グリーンランドのこと

2012年07月18日

グリーンランド研究 − ロイヤル・グリーンランド −

1967年以降、グリーンランドでは民主主義が立ち上がり、Landsrad議会ではグリーンランド独自の首相を選び出すようになりました。

1973年、グリーンランドとデンマークの間の関係の見直しが提唱され、3年後にデンマーク国会でグリーンランドの内政自治法が承認されました。これにより地方独自での問題解決や租税収入の出来る地方自治体(コミューネ)が設定され、現在の18のコミューネの元が作られました。
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△ 地方自治体(コミューネ)の区分け

1979年には国営企業だったロイヤル・グリーンランド貿易機関が分割および民営化され、魚介類製品部門がロイヤル・グリーンランド社となりました。1990年にはグリーンランド市民所有の魚介類を加工して販売をする株式会社となっています。
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△ ロイヤル・グリーンランド社

現在ロイヤル・グリーンランド社では約2500人の従業員がグリーンランド、デンマーク、ドイツの工場や漁船のほか、アメリカ、英国、フランス、イタリア、日本の販売事務所で働いています。ロイヤル・グリーンランド社が扱う主な製品は、北極海域で採れるエビ、深海エビ、ヒラメなどを加工した、冷凍エビ、白身魚、むきエビ、薫製食品などで、冷凍エビの供給企業としては世界最大の規模を誇っています。しかも日本での甘エビのほとんどはこの北海産で、そのうち25%はロイヤル・グリーンランド社が供給しています。また、グリーンランドで加工されている「甘エビ」のほとんどは日本へ輸出されています。

1964年の政府の10カ年計画には都市コミュニティの開発も重要項目にあげられていました。国や地方自治体はそれまで散らばっていた居留地の人々を、それぞれの自治体にある大きな町に集めました。そのため町にはたくさんの集合住宅が建設されていきました。
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△ グリーンランドの集合住宅
posted by Coyama at 22:55| グリーンランドのこと

2012年07月17日

グリーンランド研究 − デンマーク領グリーンランド −

大戦終了後の1950年、グリーンランド政府は国際的に開かれた国になるため、経済的援助(投資)を要求する報告書を世界に向けて発行しました。
報告書ではグリーンランドの管理はLandsradと呼ばれる国の議会が担当し、経済面ではロイヤル・グリーンランド貿易機関の持つ独占権を国に吸収されることが提唱されていました。
1952年にLandsrad議会はグリーンランドの発展のためにはデンマークの一部として協力体制を築くということが不可欠であるという新しい国家成立案を提出しました。この提案は1953年にデンマークにおいて国民投票で可決され、デンマークの国会に正式にグリーンランド代表者の2議席が新設されました。
国の経済市場は個人投資家にも開かれ、国家構成が徹底的に見直され、医療福祉サービスや社会保証サービスなどが本格的に開始されました。

1960年代には、グリーンランドの地下資源(油田や天然ガス)が注目され、デンマークやアメリカ、カナダなどは、それぞれの地域との話し合いで、土地整備や期限付き自治権、総合的な援助を与える代わりに、掘削権を得ました。その結果、現地の暮らしは向上し、定住者も増えていきました。しかし生活様式や食生活の激変は、それまではなかった成人病患者を急増させます。
特にこの時代に初めて国に持ち込まれたアルコールは、アルコール依存症に陥るグリーンランド住民を急増させ、殺人や自殺などが多発しました。そのため政府はアルコールに対する規制を強化し、以前ほど厳しくはないものの現在でも販売規制は続いています。
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△ グリーンランドのBarの様子

1964年に議会はデンマーク国会での認証を受けて、国の開発の10カ年計画を盛り込んだ新しい報告書を発行しました。
その決議項目のひとつは、グリーンランドで生まれた人間はデンマークで生まれた人間と同等な社会保証と労働賃金を得ることが出来るというものでした。これは10年以内に一般の経済レベルまでグリーンランドを開発させるということが目的でした。しかし計画は失敗し、グリーンランド人とデンマーク人との待遇や貧富の差は明確に現れ、多くの反発を引き起こすことになります。
この出生地による差別問題は、1987年にグリーンランド政府が徹底的な改善をするまで続きました。
posted by Coyama at 23:00| グリーンランドのこと